第五十七話 馬都井の誘い
次の水曜日の自己啓発セミナーのお知らせのメールには不参加と返信をしていたのだが、翌日馬都井くんから直接電話があった。自己啓発セミナーをどうするかを話し合おうというので二十七階のカフェで待ち合わせていた。二階のカフェよりも料金設定が高くてすいている。俺もあまり来ない。
待ち合わせの三分前くらいについたのだが、馬都井くんはもう来てて奥のソファの席に座ってた。
「まあ明日はお休みということですが、来週のセミナーについてですが……」
「そのことだけど、実はやっぱりやめようかなって思ってるんだ」
馬都井くんはしばらく無言で考え込むような表情を見せた。
「やはりそうでしたか」
「せっかく誘ってもらって悪いんだけど、あんなこともあったし。そういう気分になれなくて」
「出河さんのお気持ちは分かりました。ですが、そこをなんとか、もう一度セミナーに参加していただけないでしょうか。実はお嬢様が出河さんのことを気にされているんです」
「えっ、美々さんが?」
「お嬢様が、『元気にしてるかしら。出河さんはいいわ、素晴らしい』とおっしゃってまして」
「とてもいい?」
「はい、その…… 困難な課題に取り組み、もがき苦しんでいる様子がとても興味深いと」
「は?」意味が分からん。
「あの…… ハラハラしたそうなのです。ビルで中吊りになったときなども手に汗握ったと。先日もひとり言で、『あー、なにか落とし穴のようなものに落ちてくれないかしら、いいえ、猛獣に追いかけられてるなんてのも素敵ね』などと。すみません、よろしければ、ひとつ猛獣になど追いかけられてもらえませんか」
なっ、なに言ってんだ、こいつ。
「率直に申し上げます。大変恐縮ですが、また危険な目にあって、ひーっとか言っていただくためにぜひスパイのミッションを続けていただけないでしょうか」
「いやいやいや、率直すぎるだろっ。大変恐縮とかってつけてるけど、すごく無体なこと言ってることに変わりないよねっ」
「お願いしいますっ!」
「君がそんな目に遭えばいいじゃないか」
「それができるならとっくに…… うらやましいのですよ。わたしなんぞ、なにをやってもそつなく完璧にこなしてしまうのでつまらないそうなのです」
「じ、自慢か……」
「この際、モテるという遠く遙か彼方にある長期目標はおいといて危険な目に遭うだけでもお願いできません?」
重ね重ね失礼だよね、馬都井くん。
「そうですね、たとえば鮫の海で泳ぐなどいかがでしょう」
「死ぬよっ!」
「いや実際にはそんなこともないのですよ。鮫といっしょに泳ぐことを見せ物にしている方も海外にはいますし。現地では命がけのアトラクションということで人気があるそうですよ」
「命がけって言ってんじゃんっ!」
「どうか、これこのとおり」馬都井くんは深々と頭を下げた。
「お嬢様に喜んでいただくため、どのような危険も顧みず飛び込んでいただくという覚悟をしてはいただけませんか」
「やだよっ」
「美々さまはとてもいい顔をなさるのです。出河さんが窮地に立たされているとき。わくわく感と申しましょうか、ヒーローの特撮に胸躍る少女、お嬢様のその笑みは天使でございます」
「人が危険な目に遭ってて笑顔って悪魔だよ。てか、おれにリアクション芸人のようなものを期待していないか」
「リアクション芸人…… おお、それだっ!」馬都井くんは手のひらにげんこつをポンってした。
「おお、それだじゃねーよっ!」
「そこをなんとか」
「いやだってば。なんなんだよっ!?」
「うーむ、少し視点を変えましょう。そう、たとえば…… 乙女の恋は命がけという言葉がございます」
「そ、そうだっけ。そういえば聞いたことのあるような…… 誰の言葉だっけ?」
「いえ、いま私が考えたのですが……」
「おまえかよっ!」
「恋が命がけ…… であるなら、恋に落ちるためモテるという過程においても命がけのチャレンジが必要とされているのではないでしょうかっ」
力説されたけど、ぜんぜん納得できない。
「いや特に必要とされてはいないと思うのだが。それに俺は乙女じゃないし」
「じゃ、ヒーローはモテますよね。ヒーローは強いからヒーローなのでしょうか? いえ、苦難に立ち向かうからこそヒーローなのじゃないでしょうか。であるならっ、モテるためには苦難に自ら積極的に飛び込むことこそが必要といえるのではないでしょうか」
なんだ、その一見筋が通ってそうな三段論法。
なんか前もこのパターンで馬都井くんに言いくるめられてビルから宙吊りになったような気が……
「どうしてもいやなのですか。もうモテたくはないのですか?」
モテるための自己啓発か……
「最近、もう女子のことは考えたくないんだ」
「どうかなさったのですか?」
「いやさ……」
俺は長谷川の例のお尻千円札の話をした。画像が流出したことや彼氏との修羅場、遊んでいるという評判のことを。実際、噂はますますひどくなってきていた。借金があるとか、会社に内緒で水商売のバイトしてるとか、恋い多き女だとか。
「遊び人……ですか。私にはそんなふうには見えませんでしたが……」馬都井くんはこの前会ったから覚えている。
「でも、これ見てよ」携帯の画像を見せた。
「検索で見られるのですか。ふむ、これはいただけない。女性にとって不名誉な写真ですね。拡散しているということですか」
「動かぬ証拠ってやつだよ」
「不器用な感じがしました。お嬢様にも似たような……」
「美々さんが不器用?」
「あ、ないしょですよ」
「とにかく最悪だよ。同期なんだ。コンパすっぽかされたのも腹が立つけど、もっとだ」
「失礼かもしれませんが……」馬都井くんは前置きをしてから話し出した。
「出河さんは少なからず長谷川さんに好意を持っていた。腹が立つというのはそのような理由ではありませんか」
「ええっ、違うし」
「では、もし、とおんさんがそのようなことをしたら、どうでしょう?」
「……そりゃ、いやだよ」
「ね」
「いや別に女スパイが好きとかじゃないよ。ぜんぜん。長谷川だってただの同期だ。いや、そうだとしてもさ、ちょっとかわいい女の子だったら、俺の場合はすぐ好きになっちゃうんだよ。惚れっぽいんだ、モテないからさ」
馬都井くんは俺の言い訳を聞いてるでも聞いてないでもなく微笑んでいた。
「でも、まだ噂はあるんだ。長谷川が横領したって。夜遊びに使うために借金してて。それだけはどうしても信じられないんだ」
「それは確実に法に触れる行為ですね」
「だろ。でも商品券と裏金らしくって、警察には言わないことになりそうなんだ。四百万だって」
「ほんとうにその店でお金を使っているのでしょうか?」
「へ?」
「四百万円を横領し夜遊びしているというなら…… ふむ。画像を解析してお店について調べてみましょう」
「ほんとにいいの?」それなりに手間ひまかかるんじゃないかと思うのだ。
「消えた商品券を追え。なかなかいいテーマじゃないですか」
「そ、そうかなあ、安い感じが……」でも、その方がドンパチよりいい。
「スパイはもう懲りたかもしれませんけど、次は探偵ごっこですね。退屈してるお嬢様も次回テーマが決まってお喜びになると思います」