第五十六話 浮遊する花
残業終わりの十一時半。少し遅くなってしまった。がらんとしている一階のホールを夜間通用口の方へ歩いていた。
ホールの中央にはフラワーアレンジメントがあった。俺は二度見した。
揺れてる。
でも風って…… 建物の中なのに?
いろとりどりの季節の花々がたくさんいけられた大きな鉢は宙にあった。膝の高さくらいだが確かに鉢の下がすいている。
「ええっ?」
近寄る。それはぷかぷか浮いていた。
赤、黄色、ピンク、オレンジ、白、すじが入った緑の大きな葉、両手でも抱えられるかというほどの大きな鉢だ。かなり重量があるから、演出のために透明なテグスで吊られているというのでもない。ワイヤーのようなものはなにもなかった。フラワーアレンジメントの中に手を入れて白い花を一本抜く。ほんものの花だ。
「あっ」
俺は腕に奇妙な感覚を感じた。一番近いのは南の海で体験ダイビングで五メートルほど潜ったときの感覚だった。中性浮力。腕が浮く。
手を放した白い花はそのまま空中にあった。
照明の落とされた薄暗い空間に霧よりももっと細かい光の粒子が上空から降ってきているのに気がついた。夕暮れ時の太陽のようなオレンジの粒子だ。
それは奇しくも八木亜門のUFOが発した光と同じ色彩だった。
思い出した。あのマネキン。あのマネキンも吊られていたのではないのかもしれない。
いや、そうだ。この光で浮かんだんだ。
この光の粒子はきっと予期せずに漏れて来ている。まだ、やつらはここで実験しているんだ。見上げるとオレンジの光はずっと上、たぶん二十三階のケルビンデザインの方から降ってきているように思えた。
そして、俺はもう一つ重大なことに気がついた。あの自動車事故は、この現象が道路を走行している車に起きてハンドルが効かなくなって発生したんじゃないかということに。
八木亜門のことが気にならないと言えばうそになる。忘れようとはしていたが、まだ忘れられていない。忘れられるわけもない。無理だ。
誰かが奴らを罰してくれるのだろうか。誰か? おそらくはとおんの組織の人間が。ほんとうにそうだろうか。放って置かれるってことはないか。だったら、とおんの怪我は無駄になる。
胸から血を流していたんだ。彼らが言うように、ほんとうに負傷で済んだのか?
「とおん、おまえ、どこにいるんだよ……」
俺が抜いた一本の白い花はオレンジ色の光にのってふわふわ昇って、あっという間に手の届かないところへ行ってしまった。