第五十五話 ゴシップにまみれて
空調工事を扱うファシリティ事業部はあまり行くことはないけど、空調設備とうちらのオフィス家具を一括納入する案件があって来た。
肝心の俺を呼びつけた牧原係長は外していた。時刻は十八時三十分、ファシリティ事業部は夜遅くまで残業という所じゃない。遅くなる場合は現場から直帰が多いからだ。部屋には室口綾乃一人がいて「牧原係長は外しただけだから待ってて」と言われた。
キャビネットにひじを突いて、ぼーっとしてる。
ガチャ。
ドアを開けて入ってきたのは牧原係長ではなくて尾上だった。
「室っち、お待たせ」
室口が立ち上がる。
「尾上ちゃん、先週の女子旅だけど精算でお金余ったから返すわね」
「あ、ラッキー」
室口は裸のままの千円札を尾上に渡す。
尾上はなにを思ったかキャビネットの上に置いてあった熊のぬいぐるみをつかんで、そのお尻の割れ目というか、ぬいぐるみなので微妙に足の部分で千円を挟んでピースサインした。
プッ!
俺はツボにはまって吹いてしまった。
尾上がこっちを見た。
「ひょっとして出河もこれ…… ハセミリの話を知ってんの?」
「ま、まあ」
「ちょ、ちょっと、ふざけないでよ、もお」室口も笑いをこらえている。
「ね、男子的にはどうなのよ? こーゆー女って」尾上が聞く。
「そりゃ、ねーよ」
「そうよね~」室口も相づちを打つ。
「学生時代も噂のある子だったのよねえ。ほら、きれいでしょ」
室口はすました顔でトラップを仕掛けるように俺に聞いた。
「別に……」
「結構、昔っから気が多いって言われることが多かったわね。高校時代に友達の好きな人に告白して、自分はつきあってる彼と別れたとか」と室口。
「そっか、室っちは高校いっしょだもんね」と尾上。
「彼女がいっこ下だけどね。同じ会社に入ってくるとはね」と室口。
「去年とかも元木ちゃんが自分の彼氏狙ってんじゃなかって警戒してたわね。ハセミリが自分の携帯から元木ちゃんの彼氏に連絡してたらしいのよ。お昼休みに仕事の連絡し忘れたのを思い出したからとかって言ってるけど、怪しいものね。ハセミリって佐藤健のファンだって言ってたじゃん。ちょっと似てるのよ元木の彼氏ってば」と尾上。
「お尻千円ってチップらしいのよ。千円払うとハグしてくれるんだって」と尾上。
「ええっ。なにそれ」と室口。
「ハグじゃなくてキスでもいいんだとか」と尾上。
「ポッキーを両端から食べてちゅーしたとかって話もあるのよ。最後までポリポリかじって」と尾上。
「ま、でも、ほんと遊び人よ。前に一緒に片町歩いてたら『長谷川ちゃん元気ー?』とかって声かけられるのよ。五十メートルおきよ。どんだけ知り合いいるのって感じ」と室口。
「ね、同期なんでしょ。彼女どう? なんか情報ない?」と尾上。
尾上の方は俺より二年下で、室口は一つ上。尾上のキャラだと先輩なんて絶対に言わない。尾上のタメ口調はあっけらかんとしてて嫌な感じはしない。
「あ、合コンすっぽかされたんでしょ。知ってんのよおっ」と尾上。
「すっぽかされたって……」
合コンの話か…… ま、いいかな。スパイに関する話さえしなければ。
「ひどい話だよ。幹事の俺を外して加納とイケメンだとかって後輩を選んだんだぜ」
「うわーこすっからい女よね」と室口。
「そんなイケメンがいいのかよ」 と俺。
「そりゃ、イケメンはいいわよ~ ふつうにいいわよ」と尾上。
「でも、この場合はダメでしょ、人としてダメでしょ」と室口。
まったくそのとおりだ。
「でもさ、話は続きがあって、その日、ムカつくから別の奴らと一緒に飲みに行ったんだ。で、偶然なんだけど、そこでばったりはち合わせ」
「なにそれ、なにそれ?」と尾上。
「で、俺の連れの女の子がわりと可愛くって、加納は長谷川そっちのけで俺の連れにアタック。で、長谷川は俺の連れのイケメンに彼女とかいるんですかって聞いたんだけど……」
「うわ、節操ないわね」と室口。
「馬都井くんって言うんだけど、その…… 僕っ娘で俺のことが好きだとかって。で、長谷川が撃沈」
「ええっ」と室口。
「馬都井くんが、僕っ娘ってのはうそなんだけど」
「ぎゃはは。ハセミリのやられてるとこなんて見てみたいわね」と尾上。
「ちょっとは懲りればいいのよ。天誅よ、天誅」と室口。
そのとき、ドアが開いて牧原係長が入ってきた。
「ま、情報をありがと」と尾上。
牧原係長との話は五分で終わった。長谷川の話題で盛り上がっている時間の方がぜんぜん長かった。自分の課へ戻る前にトイレに寄った。
洗面所で手を洗う。水がひんやりした。長谷川の素行不良がいろいろバレてきてる。でもポッキーでキスしたとかってのは本当なんだろうか? うそだとしたら……
かまうものか。噂立てられる方が悪いんだ。火のないところにって言うだろ。日頃の行いだよ。
どこかが気持ち悪かった。尾上や室口と話してるときはすっきりした気分だったのに。
のどが渇いて炭酸飲料を飲んだ後で、時間がたって思いのほか口の中が甘ったるくていらいらすることがある。自分まで薄汚れた人間のように感じてしまっていた。汚れたものを追い払ったつもりが、逆に払った手に汚れがついてしまったみたいな。彼女が悪いんだ。
鏡でどこか不機嫌な自分の顔を見る。新人の頃は結構好きだったのに……
俺は水道の水で顔を洗った。
世の中には二種類の人間がいる。あることについて知っている人間と知らない人間。でも、それは外見からは分からない。薄気味悪いと思う。表面上は同じ顔をしているのに知っている人も知らない人もいる。
色分けできたらどうなるのだろうか。たとえば長谷川の画像について知っている人と知らない人。吹き抜けの一階下のフロアを行き交う人を見ながらそんな変なことを思った。
それは、でもグーグルグラスとかで技術的にはもう実現できてしまう。 人間が機械化されていっているような違和感があると思った。
別の日の午後三時三十分、俺は展望ロビーの自動販売機のブースでジュースを飲みながらさぼっていた。ついたての向こうから声が聞こえる。ホワイエ的なところには、椅子がいくつか並んでいるのだ。声はうちの社員の知っている奴だった。
「経理の金庫にあったの、商品券だけじゃなかったらしいぜ」
「どういうことだ?」
「なくなってたの現金も含まれてるんだって」
「現金?」
「まあ、裏金だな」
「いくら? でかいのか」
「まあ、たいしたことはねーってことだけど三本だって」
「三本? 三十万か?」
「ばか、三百だよ」
「じゃ、商品券とか旅行券とか合わせて四百万近く無くなったってことじゃないか。おいおい」
「そういうことになるな。だけどよ、裏金だろ。警察にも言えねーらしいんだ」
「盗んだのって、やっぱ彼女か」
「だろうな。長谷川がATMのところで暗い顔をしてたって話だ。ホストクラブに入れ込んでんだろ。貢いでんじゃねーの」
長谷川、おまえ、ほんとなにやってんだよ!