第四十二話 浮かぶマネキン
「加能商事ですけど。ちょっと用事があって……」
従業員用の夜間出入口で俺は言った。
「職員カードお願いします」夜勤の警備員だ。
守衛室からはインスタントカップ焼きそばのソースのいい匂いがただよってきた。学生時代ほどはそういうのは食べなくなったのだけれど、たまにむしょうに食べたくなる。麺が変わったけれど、もう前の味なんて思い出せないし、やっぱりうまいし、なにより香ばしい匂いにやられる。変則勤務だとこういう時間に食事もとるのだろう。
警備員は職員カードを提示して顔写真と照合しただけではなく、カードリーダーで読みとりIDまで確認した。夜間だから厳重なのだ。鍵を受け取る。
「ご苦労様、焼きそば?」 俺は聞いた。
「ええ、まあ」
「うまいよね。家に帰る途中で買おかな」
「UFOうまいっすよね」若い警備員がにこっとした。
まず、エレベーターで自分の会社に行って、加納の机の横に置いてあった宅配便の段ボールを手に取った。荷札のシールは英語表記で通関のための手続きを加納が面倒くさがっていたことを思い出す。
荷物を持って、もう一度エレベーターに乗った。
ヤオヨロズふぉれすとのエレベーターは全面ガラス張りで、広大な吹き抜け空間の東西南北に二つづつ、合計八基設置されている。
照明の灯っていない広大な吹き抜け空間のどこにも誰もいない。
エレベーターも動いているのは限られている。薄暗い中で非常出口のサインがひときわ明かりを放っている。ぼんやり眺めるけど、なんとなく暗い方からは目を逸らした。人気のないビルは不気味でじっくりすみずみまでフロアを見たならとんでもないものがいそうだから。科学で証明できないようななにかがいるんじゃないかと思ってしまう。
エレベーターは登っていく。
「う、うわあっ!」
声をあげてしまった。なにかが浮いていたのだ。宅配便の段ボールを落としそうになる。
吹き抜けの中央にだ。地上、というか一階のフロアからはきっと一〇〇メートルもあるような位置だった。
それは、人だった。
「み、み、見ちゃったよ。うわ、やめて~」
幽霊?
すがるように段ボールを抱きしめて、もう一度横目でうかがう。
だめだ。やはり人の形が宙に浮いている。だが…… そのそばには白い細長い布切れが浮いていた。ふぉれすとBARGAINの赤い文字が見える。
「えっ?」
幽霊ではなかった。その人の形は……
「あ、マネキン?」
そう言えば…… 吹き抜けにはよくイベント告知ののぼりのようなものやオブジェみたいなものが吊されていた。マネキンがしかもこんなに高い場所に吊されているというのは変わってる。通常はニ、三階くらいの位置にディスプレイされる。吊しているようなケーブルも見えないけどピアノ線か透明なテグスかなにかで吊っているのなら、照明の落ちた吹き抜け空間だから見えないだろう。ほんとうに浮いているみたいだ。
「なんだよ、人騒がせだな」
プンッ。機械の合成音がしてエレベーターが止まって扉が開く。
二十三階だ。このフロアだけは照明がついていた。
「あ」フロアに一歩踏み出して気づいた。
「同じ階じゃん」
フロアに入居するテナントの名が書かれたサインには、ケルビンデザインの他に数社の名が記されていたが、そのひとつにトマトーマの社名があったのだ。寝ぼけてた。このフロアって、まさにそうだった。
敵の本拠地のそばで、こんな夜中に俺はなにやってんだ。
ともかく今は八木亜門のトマトーマは置いといて、課長に言われたとおりケルビンデザインに納品しなければならない。
フロアの案内板の図面でケルビンデザインを探す。全部で七社ほどが二十三階には入居していて、とまとーまもケルビンデザインも右手の方だった。廊下を行く。トマトーマをやりすごしてその先のケルビンデザインへ。
「ん?」
図面とレイアウトが少し違う。図面上はその部屋はとまとーまになっていたはずだったが、ケルビンデザインという社名が扉に表示されていたのだ。もう一つ先のテナントからがそうなっているはずなのだが。
その扉を行きすぎて回り込むとそこの扉にもケルビンデザインとあった。半透明の扉から光が透けている。ヤオヨロズふぉれすとのオフィスでは扉も壁も基本ガラスだった。ビル全体が木の構造以外はすべてガラスということにしている。外から見て透けているビルなのだ。
ただ、それだと個々のオフィスのプライバシーが保たれないので、必要に応じてスリガラスを選べるようになっている。あるいはオフィス内でパーティションを使うという方法もある。トマトーマは全てスリガラスにしていた。ケルビンデザインもそうだった。うちの会社は全面透明ガラスだ。扉を開こうとしたが鍵がかかっている。
インターフォンのボタンを押した。
「失礼します。加能商事ですけど」
「え、加能商事?」
「納品に上がったんですけど」
少し時間があってから、扉が開いた。
「入って」
ケルビンデザインの扉を開けると急に時間が動き出したように感じた。
逢魔が時、深夜の校舎のように薄暗く気味悪いビルで時が止まったように感じていたのだ。
その止まった世界の中で動いている彼らこそが世界を停止させた張本人で、再び世界が動き出す前に秘密裏になにか重大な活動をしているようにも思えた。深夜だからか変なことを考えてしまう。もう寝る時間だし。
「はい」
遅くまでの残業のせいか、冴えない青白い表情をした若い奴が出てきた。