第三十八話 消えるアジェンダ
「行きましょう」と馬都井くん。
案内されるままに表通りの方ではなく路地に入る。
向こうの方からスーツ姿の男たち四人が歩いてくる。長身に屈強そうな身体つき。薄暗い路地裏だったが、一人の顔が街路灯に照らされて一瞬分かる。
「あいつ、ふぉれすとビルで亜門に命令されてた男じゃないか」小声で俺は言った。
お互いの顔を見合わせる。
美々さんがめくばせした。
知らないふりをするんだ。美々さんととおんは酔客を装って歩きながらたわいのない話をする。俺はうつむいてすれ違う。
なんとかやり過ごした。顔は見られてない。
八木亜門が呼んだのか。
ほっとしたその時だった。「追えっ! なにやってんだっ、そいつらを捕まえろっ」
居酒屋のビルから息を切らして出てきた亜門が怒鳴った。
振り返ると男達が猛然とこっちに向かって駆けだした。
「走りましょう」と言うやいなや馬都井くんも走り出す。「こっちです!」
後ろを振り返る。長身の男達は全員がアスリートのように足が速い。ふりかえっただけで距離が何メートルも縮んだ。とおんも美々さんも馬都井くんも速い。遅いのは俺だ。
どんどん距離がなくなる。このまま走ってても逃げきれないんじゃ……
もっ、もう、捕まるって!
白いセダンが路駐していた。
「乗ってくださいっ!」馬都井くんが叫ぶ。
えっ!?
飛び込むようにして美々さんが、まず乗り込む。
「待てっ!」
ガツッ!
「うわっ」
続こうとしていた俺だったが遮られてしまった。
敵の男が追いついていた。そいつは俺の戦利品のファイルを掴んだ。
「はっ、放せっ!」
敵と引っ張り合うファイルの留め具がはずれ、綴じてあった文書がばらけて何枚も飛び散った。白い紙が風に乗って生き物のように空を舞った。
「うりゃっ!」
とおんのキックが一閃し男がアスファルトに尻餅をついた。
「ぐずぐずしてないで、さっさと逃げるわよっ!」
俺ととおんがセダンの後部座席に飛び込むと、車は急発進した。
後ろを振り返ると、男達と亜門が取り逃がした俺らの方をにらんでいた。
半ドアを閉め直す。
後部座席には右から美々さん、俺、とおんの順で収まっている。助手席には馬都井くんだ。運転席の男は馬都井くんの部下だと言われた。
「馬都井くん、これって?」
「撤退する経路を確保しておいたのです。みなさんが任務をしている間に」
「睦人……」とおんが俺の名前を呼んだ。
「ん?」
「でかしたっ!」とおんが突然俺にハグした。「いやっほうっ!やるじゃない。大きな成果よ」
「ひ、ひっ」予想もしてないハグにのどから変な声が出た。
「あ……」とおんがハグを解いて気まずそうな顔をした。
「い、いや……」いや、いーんですよ。ぜんぜん、いーんです。
「酔っぱらってる。あたしなにしちゃってんだろ?」とおんがつぶやく。
ふにゃんふにゃん柔らかくて、屈強な男を蹴り倒した引き締まった身体からはそういう感触は想像できなかった。亜門のテーブルで口に入れた醤油をかける前のきなこプリンみたいだ。いい匂いが俺の服についた。もお酔っぱらってたってなんだっていいよ、アルコール万歳っ!
「で、そのファイルにはなにが書いてあるのかしら? ヤオヨロズ・アジェンダとやらの中身、とっても気になりますわね」美々さんが言った。
「そうね。睦人、ファイル開いてみて」ととおん。
俺は彼女の言うとおり青いファイルを開いた。そこには白い紙が綴じられていた。真っ白い紙だ。なにも書かれていない。俺は次のページをめくった。そこも同じだった。俺はページをさらにめくった。
「え? なにもない……」ととおん。「なっ、なにも書かれてないじゃない!」
「ほんとにすり替えたの? お店のファイルと間違えて、そっち持って来ちゃったとかではありませんの」と美々さん。
「いや、そんなはずない。それに、お店に置いてあったファイルにだって表とかいろいろ書かれてたし」
とおんは、俺の手のファイルを取り上げてページをめくった。どれも白紙でそこにはまったくなにも書かれていなかった。
「やはり間違えたのですわね。亜門のテーブルにファイルは二つあったとかではないでしょうか?」と美々さん。
「……白紙じゃなかった」とおんが言った。
「えっ?」
「あたしは見たわ。このファイルを奴らが引っ張って、バラバラって紙が飛んだとき、その紙には字が書かれていた。最後に飛んだ紙にはなにか図みたいのもあった」とおんが自分の目撃したことを語った。
「あんな暗い中でほんとに見えたの?」と美々さん。
「視力いいから……」
「じゃ、なに、偶然、そのヤオヨロズ・アジェンダっての書かれているページまでがきっちり飛んじゃって、白紙のページだけが残ったって言うの。そんな偶然って……」
「いいえ、違う。あたしは開かれていた睦人のファイルに残っていた方の紙も見た。そこにもなにかが書かれていたわ」
「どういうことですの!? 書かれていた文字がこんな僅かの時間のうちに消えたって申しますの?」
「……」とおんは黙った。
「あるいは特殊なインクかなにかで、一定の条件によって消えるようなものは考えられるかもしれません」馬都井くんが自分の推論を言った。「もっとも、そのようなことを遠隔操作できる技術など私の知る限りでは聞いたことございませんが」
「くそっ、手こずらせるわね」ととおん。
「馬都井、分析できるかしら」と美々さん。
「はい、お嬢さま。お時間をちょうだいするやもしれませんが」
「なんだか魔法みたいだ」俺の言葉が車内を妙な雰囲気にした。
運転していた馬都井くんの部下がバックミラー越しに俺と視線を合わせた。