第三十六話 三倍体ポメラニアンとネコマジロ
全員がとおんの時計の秒針に自分のをぴったり合わせていた。とおんの時計は電波時計だ。八時三十分ちょうどにとおんがまず配電盤のブレーカーを落とし作戦を開始する。その時刻まで残り三分少々だ。
すり替えるファイルもとおんは見つけてきていた。八木亜門の持つ青いファイルに似ているし売り上げか何かの書類がダミーとして挟まっている。少しでも気づくのが遅れればいい。
ファイルを手に八木亜門のテーブルに接近する。近くの客の帰ったテーブルを掃除するふりをした。
「では、灰場氏もいらしたことであるし、さっそく新たな研究開発の成果について見て行こうではないか」
「ええ、博士お願します」後からきた男が促した。
「うむ、では、誰からだ?」
「では、わたくしから」メガネの研究員が言う。
「わたくしが開発したのは、猛獣を生物兵器に利用しようというものでございます」
「ほほう」
「三倍体というものをご存知でしょうか? 自然界には一定の確率で突然変異により巨大化するものがございます。三倍体と呼ばれるこの現象を人為的に起こし巨大化させて屈強な生物に仕立て上げ兵器として活用しようというものであります。ご覧ください!」
研究員は持っていた大型のキャリーケースを開けた。
デデーン! 犬だった。
巨大な犬と言っては語弊がある。大きさは柴犬くらいだ。
「これが三倍体ポメラニアン、ポメラマックス一号です!」
宣言の後、しばし座を沈黙が支配した。三倍体の巨大生物に恐れを抱いてではないことは明らかだった。たしかに通常のポメラニアンよりは大きい。
「な、なぜポメラニアンを実験材料に?」亜門が聞いた。もっともな質問だ。
「亜門様は常々戦闘員たるもの主人に忠義を尽くすしもべたれとおっしゃっております。温厚な性格、そしてなにより飼い主の言うことを守る忠実さ。それに、この瞳を見てください。つぶらな、そこにいるだけで癒されるような瞳。戦場にひとひらの癒しをですよ」
「しかしこれが屈強な生物兵器と言えるか?」
「お言葉ですが亜門様、通常の大きさのポメラニアンをご存知なのですか? こいつは明らかに巨大です。体重でなんと九キロに迫ろうかという三倍体ですよ」
どれだけ研究員が巨大さを誇っても、やはり柴犬程度でしかなかった。
「犬にせよドーベルマンとかシェパードとかを利用した方がよかったのではないのか」
「き、危険じゃないですか。三倍体ですよ。巨大なドーベルなど考えるだに恐ろしい」
「だったら最初から中型犬でよかったではないか……」
「あ……」
「まったくなんだこの犬は。役にも立たん」
「わ、悪口はやめてください! 責めるならポメラではなくこの私をっ! この子にはなんの罪も……」
「まあまあ、亜門様、兵器ではなくともこの三倍体技術の利用価値はございます。食肉ですよ」別の研究員が助け舟を出した。
「食肉?」
「米沢牛を巨大化するのですよ」
「ほう。たしかに限られた環境では食料確保に有効な手立てかもしれんな」
「そうでございます」
「米沢牛とはいいな。旨い高級和牛が生産し放題というわけであるな」
「ただ、味が残念なくらい大味に」
「んっ?」
「食えたもんじゃないです」
「い、意味ないだろうがっ!」
「だから三倍体の研究など無駄だと言ったのです」また別の研究員だった。「亜門様、わが班の研究成果をお見せしましょう。キメラです」
「キメラとな。遺伝子操作による異種融合生物か。まさに神をも恐れぬ黒い科学の所業よ」
「今回我が班が開発に取り組みましたのは、猫科特有の超絶的な運動能力と強力な装甲を備えた恐ろしい合成生物でございます」
「ほう。これは期待できるぞ」
「ご覧ください。装甲のある猫。恐怖のキメラ生物ネコマジロです!」研究員がコンテナの蓋を開けた。
デデーン! ネコだった。
たしかに背中にはアルマジロの甲羅があるが…… くるくるっと愛らしく丸まった。
この可愛らしい生物が硬い装甲で攻撃を受け止めなければならないシチュエーションというのが、俺にはどうしても想像できない。
そのとき、三倍体ポメラニアンがネコマジロに興味を示した。
こ、これは三倍体vsキメラ生物の対決か?
だが、そのネコマジロと三倍体ポメラニアンは戦うことなどはなく、お互いの匂いを嗅ぎあってじゃれあうばかりである
「かっ、かわいいんじゃああああっ!」亜門が叫んだ。
「これだから生命科学チームは……」また別の研究員だ。「物理科学チームでございます」
「今度こそ頼むぞ。こやつらとの違いを見せてくれ」
「我々は真に画期的な技術を開発したのです。トラクタービームです」
「トラクタービームだと?」
「そうです。光線により物質を移動させる技術です」
「ほう。例のオーパーツ由来のものか? なんと、しっかりと解析をしておったというのか」
「そうです。発掘した例のものから技術移転したのです。ご覧あれっ!」
ビビビビー。
オレンジ色の光線が研究員の手にした懐中電灯のような装置から照射される。
照射される先は、割りばしの袋だった。
しばらく時間が経過したが、ビームが当たった袋は、何も起こったようには見えない。
「ほっ、ほら、今動いたっ! 分かりますか? 亜門様っ」
「あー、このトラクタービームだが秒速何メートルほどの移動を可能にするのだ?」
「そうでございますね。おおよそ〇.一ミリメートルほどかと」
トラクタービームはノロかった。十秒で一ミリ、一分で六ミリ…… 動いていないとは言わない。離れた場所からだったが俺にも僅かにビームの方に箸袋が動いたような気がした。
亜門は手で箸袋をとった。
「使えるかあああっ!」
「貴様ら、いったいなんだっ!」
部下の研究者たちが震え上がる。
「このような使えもしない研究に貴重な時間と費用を使いおって。バカものめが。きさまらの研究などこの舟盛りのようなものよ。器ばっかり立派でまったく中身のない。そもそも船とはなにを乗せるのかが大事なのだ。わかっておるのか?」
「まあまあ、先生いいじゃないですか……」 灰場と呼ばれた男が取りなそうとする。
「明日、世界の終わりがやってくるとして箱船にきさまらは乗せてもらえると思うか?」
研究者たちはうつむいた。
「ま、船にもいろんな仕事はある。覚悟しておれよ」
「あ、亜門様、それはお許しを……」 研究員たちの顔が青くなった。
「博士…… でも、乗せる対象ってのは充分検討すべきだと思いますよ。まあ、研究員の皆さんはともかく、どうやって選別するのでしょうか。なかなか、難しいですね」
「難しい? いやいや、灰場氏、難しくなどない。社会の上位層から一等船室に入っていくのだ。ふるい分けは社会的地位でも資産の保有量でも知能レベルでもいい」
「しかし、あからさまじゃないですか。階層社会だという批判が出るのでは」
「階層社会、おおいに結構じゃないか。船というのは限られた容積しかないのだ。最大限合理性が求められる。階層化は合理的だ。たとえばカーストなんかは非常に合理的だろう。だいいち、この国だって階層社会ではないか。それをわかりにくくしているから、勘違いして無駄な努力をするような輩が生まれるのだ。身の丈にあった生き方が幸せなのだよ。そもそも、今ある豪華客船と呼ばれるものもそうなっているではないか」
「格差があまりに目に見えるようになってしまうというのも……」
「世の中には客船に乗れないものもいる。それに比べれば乗せてもらえるだけでもありがたいだろうよ」
豪華客船か…… 八木亜門の言うように日本には、いや世界中のどこにも格差はある。平等なんて現実にはないのかもしれない。けれど努力すれば誰もがチャンスを手にできる、そんな夢が見られる社会の方がいい。階層社会というのが現実の姿だとしても、かつて言われたような一億総中流という夢を追いかけるべきじゃないか。
俺は、親に世間の厳しさを分かっていないとか、社会主義的だと批判されたことがある。社会主義を標榜する国でことごとくそれは失敗している。たしかに人間は平等で平和なだけだと怠惰になってしまうのだろう。結果平等でなく機会平等で、ちゃんとした競争性があって格差もある方がいいという考えもある。
それでも、社会をコーディネートする立場の人間たち、たとえば会社の社長や政治家、官僚とかが「格差はあってもいい、むしろあるべきだ」と言うのはどこかで違和感を感じてしまう。成功者をこれ以上優遇しなくてもいいじゃんって思うのだ。