第三話 女スパイは注射が怖いへっぽこでした
「痛ったあいっ!」
銃弾は女スパイの足に当たったようだった。うわあ。な、なんてこった。敵だとしても血を見るのはいやだ。
いや、銃弾ではない。血は出ていない。代わりに注射器のような小さな筒がブーツの甲に刺さっている。なんだこりゃ?
「だっ、大丈夫?」
「あああっ!」
慌てて女スパイがその注射器のようなものを抜き取ったが、透明なアンプルの中に鮮やかなグリーンの液体はほんの少ししか残っていない。
「ご、ごめん」
「なっ、なにすんのよ、バカあっ! 薬が入っちゃったじゃないっ!」
「いや、でも、俺は善良な市民で、君が銃なんか持ってたから」
でも本物の鉛弾じゃなかったってことだけはよかった。目の前で血が噴き出るのなんて怖いから。
「解毒剤っ、解毒剤はっ」
女スパイが腰につけていたポーチから注射器を取り出した。
「毒、え、毒が入ってんの?」
「トランキライザー。強力な麻酔よ。一分で眠らせることができるやつ」
女スパイは注射器を袖をめくりあげた白い腕の内側に当てて、でも、針を刺す寸前で止めた。針先が震えてる。
沈黙が数秒……
「あんた刺してっ!」
「うええっ!?」
彼女は解毒剤が入った注射器を敵である俺に渡したのだ。
「まさか、注射が怖いの? スパイなのに……」
「そんなわけないじゃない。うるさいわね、早くしてよ。麻酔が回っちゃうじゃないっ」
「い、いや、でも君はスパイで、俺は会社の人間で、つまりどうしたって敵であるわけで、敵の君を助けるというのは理に合わないというか」
「女子が困っているっていうのにそういう態度なわけっ!」
「いや、俺も困ってる女子は基本的に助けるって方針なんだけど、この場合……」
「あたしは困ってる女子じゃないってわけっ! こんなに困ってるじゃないっ!」
「だって、ほうっておいても麻酔で眠るだけだし、死ぬわけじゃないし……」
「眠ってる隙にファイルを奪おうってのね。あ、ひょっとしてっ、この美しいあたしを弄ぼうっていうんじゃ?」
「い、いや、そんなつもりは全然……」
「ヘ、ヘンタイっ! チューなんかさせないわよっ!」
「ちょ、そんなつもりないってば。わ、分かったし。刺すよ、刺すっ。かわりにファイルは置いてって。それが条件だ」
「くうっ、弱みにつけ込むのねっ…… 分かったわ。早くっ」
「ど、どうすれば?」
「思い切って突き刺して」
「で、でも」
人に注射するなんてもちろん初めてだし、かなり怖いんですけど……
「いいから早く刺して……」
「うりゃっ」
俺は針を彼女の白い腕に刺した。薬液をそのまま注入する。
「痛ああああっ! なにすんのよっ!」
「だって、刺せって」
「いっ、痛いじゃないのっ。もっとそっとしなさいよっ」
「もお、だまっててっ!」
ちゅーっと薬液を彼女の腕の中に注入していく。握った細くて白い腕が怖いのか細かく震えている。彼女の血管に注射針が突き立てられている。
「くっ、あっ。優しくして……」痛みに彼女が小さく声を漏らす。
慎重を要する行為は、なぜか、ドキドキした。全部の薬液を彼女の中に入れて針を抜いた。数秒のことなのに、ずいぶんと長い時間がかかったような気がした。
「くはっ」
女スパイが安堵の息を漏らす。
「こ、これで大丈夫なの?」
「うん。 ……あ、ありがと」
「約束通り、うちの会社をスパイするのはやめてくれるよね」
「ふん、しかたない。今回はあなたに免じて機密情報は置いていくわ」
まだ、痛むのだろう、彼女は腕のあたりをさすっていた。素人の注射は液が血管にうまく入りきらなかったのか、内出血を起こしている。覆面の奥が涙目になっている。
「ね、でもきみってほんとにスパイ?」
「なに言ってんのよ。スパイじゃなきゃこんな道具持ってないでしょ!」
ま、それもそうか。
「ふう。ま、あたしとしたことが、素人相手に道具を使うなんて、大人げなかったわね。ふっ」
「あのさ、いちいち、かっこつけるのやめたほうがいいと思うよ。なんてかさ、へっぽこに上塗りするような感じになっちゃうから……」
「くうっ、へっぽこって言うなあっ! こっちだって一生懸命やってんのよ。うわあぁーん」
企業秘密の危機は泣きながら去っていった。
なんなんだ……
「やべっ、打ち合わせの時間じゃん! 見積書探せてねーよっ!」
「書庫に女スパイがいまして……」という説明は、これまで俺がしてきた言い訳の中でも、もっともハジケたものの一つとして片づけられてしまった。
説明しているうちに自分でも上司と顧客を説得する可能性がゼロであることに気がついて、半笑いになってしまったのもいけなかった。でも、半笑いじゃなければ、きっと病院へ行くことを奨められてただろう。