第二十九話 飲み会ひゃっほおーっ
「でも、わたくしもいろいろな方を知ってますけれど、さすがにスパイって職業の方は初めてですわ。ふだんスパイってどのようなことをなさってますの?」
「とりあえず、今はバイト探しているけど」
「えっ?」
なんだそりゃ?
「お名刺にはちゃんとお仕事が記載されておりましたが」 と馬都井くん。
「もちろん、あたしのほんとの仕事はそうなんだけどヤオヨロズふぉれすとにいても不自然じゃないように世を忍ぶ仮の姿ってのが必要なわけ」
「なるほど。そういう意味でアルバイトですのね」
「なにかいいのないかな」
「そうですね。人材派遣業サービスもお嬢さまの企業グループの中にありますから、ご紹介できるやもしれませんね」
「スパイの醍醐味って国際的な陰謀を追いかけるってことなの。でも日常的にはいろんな職業になりきるっていう楽しさもあるんだ」
「いろんな職業ですの?」
「疑似体験できるのよ。キャビンアテンダントも。ナースも。銀行員。警察官。マクドナルドもセーラー服だって」
「え、セーラー服って無理ないか」
思わず俺は言ってしまった。
「いけるわよっ!」
とおんが目を三角にする。
「そういう楽しさがあるのですわね。変身願望ってことでしょうか。分かりますわ。わたくしも制服とかって好きかもしれません」と美々さん。
「コスプレとか好きよね」
「うん。あれですわ。リカちゃん人形」
「あー」
とおんは携帯にキャビンアテンダント姿を映した。
「あ、似合いますわね」
「部屋にいくつか衣装あるわよ。なにか着てみたい?」
「んー、看護師さんでしょうか。でも胸が入んないかも」
「あ、自慢してるし~」
「うふふ。そこだけはとおんちゃんに勝っとかないとですわ。お顔はとおんちゃんのが美人ですからね。ほんとお人形さんみたいな顔ですわ」
「んなことないわよ。美々もすっごく綺麗だし。なんか、女優っぽい。でも、ほんとおっきいわね。美々の胸ってさあ、どんだけなのよ」
「秘密ですわよ」
そう言って美々がとおんの耳に顔をよせてささやいた。
「でかっ!」
「大丈夫、とおんちゃんも牛乳と睡眠とマッサージでもっと大きくなりますわよ」
「きゃー! 揉むなあ」
「で、睦人はどんな制服好きなのよ」
「え、とおんちゃん、睦人さんのために着てあげますの?」 美々さんがニヤニヤする。
「そうね、本日の任務、成功させたら着てあげないこともないかも」
「べ、べつにそういう趣味ないし」
白身魚と旬野菜の天ぷらは、天つゆの他に岩塩がついてきた。
「この塩って、うちのバスソルトみたいですわ」
ピンク色の岩塩をさして美々さんが言う。
「お風呂とか好き?」
「大好きですわ。温泉行きたいですわね」
「あー行きたい」
「この前ね、山中温泉に行ったのですけどね。混浴でしたのよ。ね、馬都井」
「はは、そうでしたね」
まじか?
「だいじょぶ、ちゃんと湯着がありますから」
「なあんだ。プールみたいなもんじゃない?」
「それが、湯着ってけっこうセクシーなのですわよ」
「ええーっ」
「睦人は混浴行きたい?」 とおんが聞いた。
「別に行きたかないけど……」
「ええっ、ほんと~ あ、分かった。湯着とかない方がいいって言うんでしょ」
「風呂はのんびり一人で入んのが好きなんだよ」
「つまんないの」
「でも、馬都井。ね、ちっちゃい頃はいっしょにお風呂に入いりましたわよね」
「小学校の低学年でしたか。実は少し恥ずかしかったことを覚えております」
「そういう気持ちがありましたの?」
「わたし、のぼせたじゃないですか」
「そうでしたわね」
「実は身体の一部が反応して恥ずかしくてお湯からあげれなくて」
「そっ、そうでしたの?」 美々さんが頬を赤らめた。
「あ、そう言えば、この和カクテルっての、おふろで飲みましたフルーツ牛乳味ですわ」
「あ、お嬢さま、そう言われてみれば」
「でも、なんの味だろう。馬都井、分かる?」
美々さんが馬都井くんに、小さなさかずきをお抹茶のお椀みたいに少し回して渡した。
「メニューには、もも、ぶどうなど時期によって変わりますってなってますね。ふむ、すももではないでしょうか」
「ああ、そうですわね」
「ね、睦人も飲んでみたい?」
とおんがなにを思ったか自分のさかずきを俺に渡そうとする。
「ん、まあ。べ、別に」
「いやだったら。別にいいけど」
「いや、いやではないけどさ」
「少しずらして飲んでよ」
「わかってるよ」
俺は美々さんがやったようにさかずきを回して口のつくところを変えた。
「まっ、まあ、うまいね」
「あれ、ちゅーちゅー言わないじゃん。どうしたのよ?」
「俺だって、そんないつもちゅーちゅー言ってる訳じゃないよ」
「へー、せっかくの間接ちゅーのチャンスだったのに」
そんなことを言った後、とおんは目を閉じてちゅー顔をしてみせた。
「もっ、もおうっ、我慢ならあんっ!!」
これ以上、俺はこの場に踏みとどまることなどできなかった。
「変なこだなあ……」
俺は我慢していたなにかがほとばしって流れ出したりしないよう、背中を丸めて早足でトイレに向かった。それはおしっこじゃない。
トイレのドアを開ける。
「ひゃっほほぉーいっ!」
いや、正直に言っちゃいますうっ! さんざんとおんが浮ついていると言ったけど、実は俺が一番わくわくしてんだよねっ。だって、そう斜に構えていないとにやけちゃいそうだし。
うれしいときほど無表情になるってないっすか?
なんだかんだ言って二人ともかわいい! これはやっぱり天国なんじゃねーの。宙づりになったり撃たれたり、人生でもうこの先はないっていうような怖い思いしたご褒美がこれだ。いや、もちろん、これも任務だよ。でも、ぜんぜんたいした任務ではない。
今日はぶら下がることも落ちることも撃たれることもない。なんたって金曜の夜にこんな美女二人とお酒を飲めるなんてあるか。自己啓発の研修でなくても参加するでしょ!
トイレの個室に入って窓を開ける。水を流しながら俺は叫んだ。
「生まれてきてありがとおーーーーーっ!」
外に向かって大声を出した。
落ち着け、落ち着け。とにかく落ち着け。馬都井くんをお手本にするんだ。あくまでクールにだ。そしてとおんと美々さんに、あれっ、睦人くんってかっこいいかもって思わせるんだ。それが俺の隠された真のミッションなのだ。
「ふふふ、ふふふっ、ぶわーっはっはっはっ」
任務を実行するからなどという交換条件でちゅーをせまったりするというのが絶対的にダメだということは、モテるための100の法則に書いてあった。そして、合コンのモテについても詳細に解説されていた。デレてはダメ、デレてはダメなのだ。うれしい気持ちを隠し通す、そして女性陣にクールでかっこいいという印象を持ってもらう、それが本日の俺、ふふ、秘密諜報員、出河睦人のミッションなのだああああっ。
そのときトイレの扉が開いた。店員だった。
「あ、あの、トイレで錯乱している方がいるって」
「さっ、錯乱!? そ、その人はもう行っちゃったんじゃないかな」
気持ちをなんとか落ち着かせて、そそくさとトイレを後にした。