第二十一話 体張れ、ちゅーのためだ
ターゲットのオフィスの窓の隅にカメラは設置すればいい。小型のカメラはUSBメモリくらいの大きさしかなく、窓にくっついていたとしても気づかれない。
高層ビルなので落下防止もあって人が出られないようになっている。換気のために三十センチくらいしか開かない。
細い金属の枠が一定のスパンであるが、そこは避けて、登攀装置をガラス面に押し当てて平行移動する。目標となる窓の位置まであとちょっとだ。残り一メートル。
その先がターゲットのはずだった。見つからないようにそっとのぞき込んだ。
「あれ?」
「どうしたの?」
「女の子が踊ってんだけど」
「え? 非モテの妄想? あんた大丈夫?」
「妄想じゃないしっ! なんか白いふわふわのとか着た女の子がいっぱいいるんだ」
「ちょっと待って」
数秒が経過する。ビルの入居テナントのリストでも確認しているのだろう。
「それ、二十三階のバレエ教室だわ」
「なんだよ。ターゲット、もう一階下じゃん」
「このビル、ガラスばっかりで何階かわかりにくいのよ」
ともかく窓から離れ、さらにもう一階降りなければならない。登攀装置を操作し下を目指す。ターゲットまで四、五メートルくらいだろう。
そのとき、俺は足が引っ張られるように感じた。結んだ命綱のロープがピンと張っている。
「あ、あれ、とおん、ロープ伸ばしてくれよ。これじゃ、短くてターゲットまで行けない」 俺はインカムに向かって喋った。
「これでいっぱいなんだけど……」
「うそ! 全然長さ足りないじゃん」
「あれ、計算したんだけど…… おかしいわね。あ、そっか、最上階の天井の高さが倍以上あるんだ。そっか」
「そっかじゃねえよ。どうすんのさ」
「うーん、どうしようもないわね。撤収? もう一度、長いロープを用意して再チャレンジするしかないわ」
「再チャレンジ? マジかよ。もう」
正直、もう蹴られて落ちるのはいやだった。ってか、今度は蹴られることが分かっちゃってるから、もっと怖いじゃないか。
「な、とおん、ところで、ちゅーは? ありだよね」
「なに言ってんの。なしでしょ。ミッション成功してないんだし」
「なんでだよ? ちゃんと降りたじゃん」
「なしなし。成果がないわよ」
「損した! 怖い思いしただけじゃねーの」
くそ、あとちょっとでちゅーだったのに。ほんと、もうちょこっとで。
あきらめるか…… とおんはまあかわいいけどさ、美人でも見慣れてくるとそんなもんだし。目つき悪いし。少しだけタレ目気味だし。胸もそんなない方だし。だいたい性格が悪いよ。
距離はあとほんのちょっとだった。ロープを外せばもうほんのちょっとだ。
とおん…… 性格最悪だけど、でも ……かわいいんだよな。
「とおん、聞いてくれ」
「え?」
「カメラ仕掛けられたら、ちゅーな」
「ええっ?」
命綱のロープなんてあってもなくてもいっしょじゃん。集中が必要だ。頭の中をとおんとのちゅーでいっぱいにすれば、そんなに怖くないんじゃないか。とおんとちゅー……とおんとちゅー、とおんとちゅー、とおんとちゅー……。俺はスパイだ。
身体張れ、ちゅーのためだっ!
「俺の生き様見とけえーっ! これよりミッションを遂行する。うおおおおおぉ、ちゅーーーーーーーーーっ!」
俺は足のロープを結び目を引っ張った。引っ張っちゃダメと説明を受けた方向から引くと、その結び目は気が抜けるほどあっさりとほどけて、足首から離れてぶらんと落ちた。
「あっ、あんたバカなのっ!」
インカムからとおんの声が聞こえた。
登攀装置の扱いはもう習得している。俺は下へ移動した。四メートルほど降りて二十二階のフロアだろうとあたりをつける。
なんだか前から優秀なエージェントだったような気がしてくる。前世はスパイなんじゃねえの? この妙に身体を締め付ける全身タイツも気分だ。命綱なしのチャレンジ、どうだ、イーサンハントのひととかボンドとかを超えたんじゃねえのっ!
「ねえ、ところで睦人さ。ずっと、なんか謎のハミングしてるんだけど。ひょっとしてスパイのテーマ」
あ…… 気づかなかった。無意識にあのスパイのテーマを口ずさんでいたのだ。
「い、いいだろ。気分出るんだから」
「いいけど」
「睦人、そろそろじゃない?」
「分かってる」
声を押し殺し慎重に窓の隅の方からのぞき見る。
今度は間違いなくオフィスだった。コピー機。デスク。数人の人間が座ってパソコンに向かっている。
もちろん誰もこっちの方は見ていない。そりゃそうだろう。窓の外に人がぶら下がってるなんて、ふだん会社にいる俺だって想像しない。高いビルで景色はよかったが慣れると珍しくもなくなって、窓の外から景色を見るなんてあまりない。お金払って最上階の展望ロビーに来る人たちもいるけど。
とおんの陰謀説は眉唾だと思っていた。ヤオヨロズふぉれすとのテナントに秘密機関が入居してるなんて…… 今はむしろ、ほんとうに陰謀をたくらむ秘密機関みたいなのがあった方がいいような気さえしてる。
仕掛ける小型カメラは登攀装置にガムテープで留めていた。左手一本でぶら下がって、そのカメラを手に取る。
俺は今、危険なことをしている。地上百メートルの場所で片手一本だけでぶら下がっている。頭の中でそのことは理解していた。だが、それはどこか別の場所から自分を眺めているようで怖いという感覚が抜け落ちていた。
片手でぶら下がったまま、そのカメラを窓ガラスの端にもっていく。
ちゅーが待ってるんだ。勇気を振り絞れ。おりゃー、ちゅーだあっ!
ペタン。吸盤がひっついた。
「やったぞ…… とおん、カメラ仕掛けた」
インカムにささやく。
「うわ、ほんと? ミッション成功じゃないっ。やったあ!」
「意外に簡単だったな。ふふっ」
ひょっとして、今、俺、かっこいい?
よっしゃあっ!
ハーフミラーのガラスに自分の姿を見る。きみのためにミッションを成功させたよ。愛してる、とおん。ちゅっ、てかっ?
うふっうふふ。スパイ最高! やっぱ、あれだよね。危険をかえりみず任務に命をかける男がかっこよくないわけないよねっ。覆面の下で表情を決めた。
あっ、歯磨いといた方がよかったかな。朝、納豆食ったし。
なんとなくオフィスの中の様子が気になって、もう一度のぞいた。さっきのバレエ教室もそうだが、同じビルなのに他のフロアのことなどほとんど知らない。
ずいぶん広々したオフィスだ。雑然と書類やらが山積みにされているうちの職場とは大違いだ。人口密度が薄い。
部屋の中央に会議テーブルのようなものがあった。その上に大きな黒いものがあった。
テーブルの天板に載っていたのではない。
それはテーブルの上に浮いているように見えた。黒い大きな板切れみたいのが宙に浮いていたのだ。
?
トマトーマとかいう食品卸の会社には似つかわしくないものだ。いや、このヤオヨロズふぉれすとビルのどの会社にだって似つかわしくないものだった。これまでそんなものを見たことなかった。糸で吊っているなにかのオブジェ? 直感的だが、そんなものとは違うように思えた。