第二十話 成功報ちゅー
「とにかく、さっさとぶら下がりなさいよ」
「やだっ!」
とおんがにらむ。
「わかった。じゃ、チューシテアゲル」
「へ? な、なんて言ったの」
ちゅー? ちゅー? ま、まさか、空耳だよね。
「ちゅーしてあげるって言ったのよ」
「うほっ!」
「ミッションが成功したら、ちゅーしてあげる。だから、あなたの男気ってのを見せてよ」
つまり成功報酬ってことか??
「いやいやいやいや、騙されませんよ。そんな成功報ちゅー、い、いや成功報酬だなんて」
「そう、たしかに、あたしも高いところだけは苦手よ。だから睦人の気持ちも分かる。でもね、逆にこんな高いところで任務を遂行する男子がいたら惚れちゃうかなって思うの。ううん、好きな男子には勇気を持ってかっこいいところを見せて欲しいって言うか」
「ほ、ほんと?」
「こんな高いところだから、さっきからドキドキしちゃって…… こんなビルから宙吊りになるって危険を冒して任務を遂行するスパイってすてき。惚れちゃってもいいかも~」
あ、ひょっとして。こ、これはあれか、ジェットコースター効果ってやつか? どきどきの心拍数が恋のどきどきに誤って変換されるってのは聞いたことがある。だから恋人同士は絶叫マシンに乗るんだって。そういえば、なんか、とおんにいつにも増して妙に女の子らしさを感じるような気がする。ってことはだ、逆に俺に関してもいつもより男の魅力ってのが伝わっちゃってしまってるんじゃねえの。 スパイがモテるのはそういうことなのか。
そうだろ、そうだろっ。危機に直面して遺伝子を残そうという種の保存本能が活性化する。うん、あるに違いない。
「や、やっちゃおかな……」
「そうよ、あなたはこのミッションを成功させてかっこいいスパイ、モテスパイになるのよ」
モテスパイ、おお。
「よしっ。ほんと大丈夫だよね」
ロープを引っ張ってみる。今度は手応えがあって外れない。
左右両手に登攀装置を持ってビルの縁に立って下界を眺める。
俺はとおんのヒーローになるんだ。そして、ちゅーをするんだっ!
けど…… や、やっぱ怖い。
「あ、あのさ、仮にだけど、たとえば明日に延期したら、そのちゅーって有効?」
「はあっ? なんで明日なのよっ! 今に決まってんじゃない」
「今日はちょっと、その、なんかコンディションが万全でないっていうか。大事なことを忘れているような。あ、そうだ、今朝コンビニでジャンプ読むの忘れてたんだ。あ、なーるほどね。どおりで調子が乗らないはずだわ。俺的に月曜のマンガがないと週が始まらないんだよね」
…… とおんが沈黙した。
お、怒ってる?
だが、とおんは俺に微笑んでみせた。 笑うとかわいいんだ。
「やっぱ怖いんだ。でも、いい方法があるわ。恐怖に打ち勝つ方法が。そう、このミッションも美々さんの自己啓発セミナーの一環だからね。セミナーならそういう方法も伝授しないとね」
「そんなのあるの?」
「あるわ。恐怖に打ち勝ち高いところからぶら下がれる方法がね。呼吸を整えるのよ。目を閉じて自分の呼吸に集中して」
彼女の言うとおり、俺は目を閉じて深呼吸をする。 ほんとにこんなんで怖くなくなるのか?
ドンッ!
ぎゃあああああああああああああっ。
不純な動機でスパイの真似事をしたサラリーマンが命綱を足に結ばれて高層ビルの屋上から落下していった。
『ほ~ら、できたでしょ』
とおんの声がヘッドセットのスピーカーから聞こえてくる。
俺はビルの外壁の外で宙吊りになっていた。
「ひっ、ひでえよっ」
足首をロープに縛られたせいで上下逆さまになっている。このままだと頭に血がのぼってしまう。手足をバタバタさせる。
『登攀装置を使うのよ』
あ、そっか。
両手にはまっている登攀装置をのスイッチを入れてビルの外壁のガラス面に押しつけると、そこにしっかりとした手がかりができた。体重をかけても大丈夫そうだ。ようやく体勢を整えて壁面にしがみつくような形になった。
下界は遠く身のすくむような高さだったけれど、なぜか、屋上からのぞいたときほどの絶対に無理というまでの感じはない。
想像していた恐怖が現実になってみると、それがどれだけのものか分かってしまったからだろうか。見る前の方がホラー映画は怖いって感覚に似ている。股間のあたりが妙に涼しい感じがしたがもう落ちちゃってるし、ビルの壁にしがみつくという信じられない状況だけど、そうなっているものは受け入れるしかない。
ビルの二十階くらいの外壁にぶら下がるってのはだいたいこんな感じです。股間がムズムズします。なんでも経験しちゃえばそんなものなのだろうか。たとえば、その…… ちゅーだって。
『そこは、二十三階の上くらいだから少し命綱をゆるめるわよ』
とおんの声がしてロープがたぐり出された。俺の足首からさらにロープが長く垂れ下がる。
ヤオヨロズふぉれすビルは総ガラス張りの外観を特徴としていたが、実際はそのガラスの全てが窓になっているというわけではない。ビルの意匠的に床や柱など内部の構造体の部分もガラスで覆われている。俺が吊されたここはまさにその部分で、内部から見えるのを避けてそうしたのだ。
『登攀装置を使って下へもう1階分降りて、そこから平行移動でターゲットの窓のところへ移動するわ。ラジャー?』
「ラ、ラジャー」
返事をして登攀装置のスイッチを操作し右手の吸盤を解除し、少し下方にずらしてもう一度、密着スイッチを入れた。次に左手を同じようにすると俺の身体はさっきより三十センチばかり下に降りていた。あらかじめとおんに言われてて履いてきたゴム底のクラシックなナイキの赤×グレーのスニーカーがいい感じにガラスの壁面にフィットして体重を支えてくれる。
登攀装置のスイッチを操作し左右交互に使って降りていく。
壁面のハーフミラーのガラスに、俺の身体が映ってる。その背後には地上百メートルの絶景だ。
眺めは、飛行機から見るようだった。住宅の街並みや、まがりくねった川、ところどころの緑が風景の底に張り付いていて遠くの方では海が光っていた。この瞬間、ここから見渡せる全ての場所のどの人間より俺の方が刺激的な体験をしていると思う。ゆるい風が身体とビルの間を抜けていく。
すげえな、俺。スパイしちゃってるし。 クルーズさんもビックリだよ。
『そのあたりでいいわ。次は右へ平行移動して』ととおん。
「ここ、二十二階?」
『うん。窓から見られないようにしないと。ここからは慎重にして』
「わかった」