第二話 彼女いないリーマンと彼氏いない女スパイ
「とっ、とにかく、知られたからには無事に返すわけにはいかない。覚悟してもらうわよ」
チャッ。
「えっ!」
彼女が構えたのは銃だった。
「ひっ、あわわわわ」
「手を上げなさい」
「なっ、なんで、そんなの持ってんのっ? 産業スパイが、じ、じゅ、銃持ってるって、ずるいだろ」
「だから忠告したのよ。知らないほうがいいこともあるって」
冷たい銃口が俺の心臓のあたりを狙っていた。
死にたくなんかない。まだ、就職したばっかじゃないか。これから、じゃんじゃん遊ぼうってのに、今日で人生終わっちゃうの? うそっ。だって、一度も女の子とつきあったことないのに。俺の人生切なすぎる。
「あなたにはなんの恨みもないけど、任務のためには非情にならないといけないの。ふっ、悲しいわねスパイって稼業も」
両手を上げたまま後ずさった。
「ちょ、お願い助けて。まだ、俺には思い残したことがいっぱい……」
「痛いのは一瞬よ。すぐに楽になれるわ」
唇の端がキュッと吊り上げられる。残酷な言葉は可憐な笑みとともに吐かれた。
「聞いてよっ。苦節二十五年、これまで受験勉強とか就職活動とか耐えて耐えてここまで来たんだ。やっと社会人になって、これから彼女もできて幸せな日々を送るって予定なんだ」
「知らないから」
「週末にコンパだって予定してんだよ。きっと何かあるって確かな予感があるんだ。ラブ運だって今週はすごくいいって占いだし。せめて、一度だけでも女の子とつきあいたいんだ。俺の人生これからなんだよ」
「あんた、いい歳して、女の子とつきあったことないの?」
「ないのかと聞かれれば、あるとは言えないけど……」
「ふん、まあ、モテそうには見えないしね」
「違うしっ! モテないとかじゃなくて、これまで、ほら勉強とか仕事とかが忙しくて……たまたまそういう機会がなかっただけなんだ」
「ダメ男に限ってそんなこと言うのよ。いくらでも時間なんてあるでしょ」
「ダメ男とか言うなっ! 俺が女の子とつきあえてないのには、いろいろな事情があるんだ。俺だってよく分かってもらえれば女子に好かれるいいところはたくさんあるっ。まだモテ期が来てないだけなんだっ」
「そんなの言い訳だわよ。一般ピープルなんかいくらでも自由に恋愛できるじゃない。あたしなんかスパイなのよっ! スパイでありながら恋をするってことがどれだけ大変なことなのか分かる? 正体を明かせないのよ。デートの約束をしても、突然、任務でキャンセルしなきゃいけないこともある。こんなに美しいの……」
彼女は銃口を降ろした。まだ引き金に指は掛かっている。
「あの…… ひょっとして君も彼氏いないとか?」
「うっ…… い、いるわよっ」
「どんな人?」
「……同じスパイしてる人よ」
彼女が覆面の向こうの視線を逸らす。
「名前は?」
「ス、スパイだから名前なんて言えないに決まってんでしょ」
「ふーん、下の名前は?」
「えっ……と、ジェ、ジェレミー」
「え? 外人?」
「ま、まあ、そんなかんじの……」
「彼氏って…… あの、ひょっとして…… 脳内?」
「くうっ、いい、ス、スパイってのはね、孤独な職業なの…… 心の中にくらい、恋人がいなけりゃ生きていけないわよ。そこは触れないでおくのが優しさってもんじゃないのっ!」
「ご、ごめん」
「あたしだって、彼氏欲しいわよっ!」
「えっ。ん!…… 待て待て、彼氏が欲しい女の子と彼女が欲しい男子、こっ、これは、ポジティブにとらえると、神様が『ユーたち、つきあっちゃいなよ』ってメッセージ送ってくれてるんじゃないすかっ?」
「じゃないっ! あたしの彼氏になる人はスパイの中のスパイみたいな人なんだしっ!」
彼女が銃口を向けて前に出る。その分、俺は後ずさった。
「ととと、とにかく撃たないで。俺はこんなところで終わるわけにはいかないんだ。お正月に、ぜったい今年中にチューするって誓ったんだっ! せめてっ……せめて女の子とチューするまではっ!」
「うるさいっ」
「わ、わかった。君がチューしてくれたらいい。そうしたら覚悟するからあっ」
「なっ、なに言ってんの!」
「俺は、チューするんだ。ちょ、やめて。ほら、不治の病の人にチューしてって言われたら君は断れるのか。う、撃たないで。チューが、チューがあっ」
「チューチューうるさいわっ!」
「ぐわっ!」
ドガラガッシャン!
後ろ向きに下がっていたせいで足元が棚に引っかかって俺はこけた。棚のファイルが崩れたのだ。
「あっ!」
ボシュッ!
銃口から弾丸が発射されたのだった。女スパイの手に落ちてきたファイルが当たって、意図せずに引き金に指がかかったのだ。