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第百二十八話 日常に潜むスパイ

「先輩、今度のこ、か・な・り・残念な感じですよね」新しい派遣の女性が入ってきたとき、加納が俺の耳元にささやいた。

「おまえ、ほんとはっきり言うな」


「あれは彼氏とかいない感じだな。あ、先輩どうです?」

「どうですって、なんだよ?」

「ほらあ、お似合いじゃないすか。残念さん同士ってことで。睦人、アタックしちゃいなよ」

「うるせえよ! 先輩を下の名で呼ぶんじゃねえっ」


 月曜日の朝礼の後、産休で半年ばかり空席だった人員を埋めるべく、人事課が手配した新しい派遣社員の紹介があったのだ。たしかに今度の派遣の人は度のきついメガネで髪の毛が重たく、おまけに服がダサかった。

 加納がそういう扱いをするのも分かる。でも人間、見た目だけじゃないだろ。俺みたいにルックスはもうちょっとだって、仕事が出来て性格がいい奴だっているんだぜ。


 その派遣の人は、ひととおり課内を回って小声で恥ずかしそうにうつむき加減で挨拶をすませると、紀子先輩にコピー機の使い方やパソコンの設定、それから給湯室がらみの説明を受けていた。

 俺は書類の山を横目にパソコンを立ち上げ、大量にたまっているメールのチェックから始めた。仕事は溜まっていたけれど土日は出てこられなかった。部屋で死んだように眠っていたから。


 先週の冒険が夢のように思える。

 違う。夢ではない。あの亜門の宇宙船が墜落した場所は政府によって立ち入りが禁じられた。有毒ガスが漏れたなどといい加減なことをテレビは言ってる。馬都井くんが空から調べたのだが、古墳の形の銀色の丘になっていたそうだ。


 近くの病院に八木亜門の手下が収容されたということも馬都井くんは調べていた。

 五十人を越える人間が病院に搬送されたらしい。病院で手当された人々は無事だったようだ。不思議なのは白い男たちは元の人間らしい姿に戻ってきているようなのだ。宇宙人が去ったことが作用したのかもしれない。


 テレビでは集団遭難事件というふうに報道されていた。ヤオヨロズふぉれすとに入居するトマトーマとケルビンデザインという二つの会社の慰安旅行の大型バスが事故に遭って、漏れた有毒ガスを吸い込んだとかいう訳の分からない筋書だった。病院への立ち入りは禁じられ、自衛隊の医療チームが治療に当たっている。八木亜門がどうなったかは分からない。


 病院に搬送された中には黒崎次長もいた。彼の白い皮膚も元に戻りつつあるということだ。美々さんがナースに化けて接触したが、黒崎は記憶が飛んで自分のしたことを覚えていないらしい。


 なんか仕事する気になれない。コーヒーを淹れに給湯室に向かった。


 先客がいた。あの派遣の女性だ。

「ちょっとごめん。お湯入れさせて」

 声をかけた俺にその人が振り返った。返事もせずに分厚いメガネ越しにジロリとこっちを見ている。

 な、なんだ?

「これが、あんたの言うくだらない日常ってわけね」


 とおんだった。メガネを外すとスパイが現れた。

「おっ、おまえ、化けやがったな!」

「美々の人材派遣会社を使わせてもらったわ」

「言えよ。びっくりするじゃん。なんで、ここに来るんだよ?」

「ほら、急にミッションになったりすることもあるじゃん。なにかといっしょにいた方が便利でしょ。新米スパイの教育もしなきゃいけないし」


 そう、俺はスパイを志願したのだ。

 八木亜門の暗躍は暴いた。だけどヤオヨロズアジェンダという巨大な陰謀の全体像はまだ分からないことが多い。とおんは引き続きアジェンダについて密偵する任務を与えられていた。


 俺たちが知っていると思っている平穏な世界は、水面下ではそうではなかった。

 俺は亜門と戦うことで世界を転覆するような陰謀の魅力に気づいてしまった。サラリーマンという日常に埋没しているだけじゃ満たされない。


 これまで俺にはやりたいことなんてなかった。だけど…… 世界を変える陰謀にめぐりあったならば、それを追いかけるのは運命じゃないだろうか。

 使われて終わるだけの人間になりたくない。仕事だけじゃなく、なにか「自分の人生だ」って胸の鼓動が感じられるようなことをしたいんだ。


 俺はサラリーマンだ。けどサラリーマンなだけじゃない。人生は一度きりだから、やりたいことがあるならばやったほうがいい。例えば、この世界の運命を左右することに関わってみるとか。


 自分を探すことなどやめて、置かれた場所で活躍しろと言う人もいる。でも俺はそんな風に生きれない。幸せからは縁の遠い生き方かも知れないけれど、どこかにある何かを求めて訳の分からないチャレンジをし続けるんだ。

 俺はスパイだ。サラリーマンをしているけれど、俺は、俺の欲望を叶えるために俺自身に雇われているスパイなんだ。


「なあ、とおん。亜門の基地じゃ、俺、ちょっとかっこよくなかった?」

「別に……」

 ちぇっ、しょっぱいな。ヒーローっぽかったじゃん。

 自分のマグにコーヒーを注いで戻ろうとした。


「ああ、どうでもいいけど忘れてたわ。せーこーほーちゅー」

 ちゅっ。

 唇は、一瞬、柔らかくいい匂いがした。

「ゆ、油断した」

 彼女の名は宵宮とおん、危険で美し過ぎる女スパイだ。


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