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第百十七話 境界域探査支援機構

「とおんも高いとこ苦手じゃなかったのかよ」

「ふふん。得意とは言わないけどバイクのジャンプはいけてたでしょ。パラシュートも似てるの。自分でコントロールできるものは大丈夫。訓練してたから」

 自慢げじゃないか。へっぽこスパイのくせに。

 ちぇっ。よく分からん。訓練すればいけるものなのか。


 俺たちは黒崎らが入っていったビルの一階エントランスホールにいた。フロアガイドでは馬都井くんが言ったとおり約三〇社の社名が並んでいる。だが黒崎の行き先はすぐに分かった。レーダー探査で上層階に黒崎がいると突き止められたのだ。その三〇階建ての複合ビルの一〇階より上は全て一つの会社で占められていた。いや会社ではない。(公財)境界域探査支援機構 Frontier Investigation Supporting Organization FISOというロゴが記されていた。


「境界域…… 公益財団法人? なにそれ」

 とおんが不思議そうな顔をした。

「なんか、よくわからんけど国の機関みたいなのか?」

「怪しいわ。陰謀のにおいがする」

 うーむ、そう言ってる黒ずくめのおまえと俺が一番怪しい気もするのだが。つか実際スパイだし。


 エレベーターに乗り込んだのは、幸いにも俺ととおんだけだった。レーダーを縦に立てるような角度にすると、垂直方向の座標が分かって、黒崎がどの階にいるのかが特定できる。


 二四階、二五階、二六階、二七階…… その階にさしかかったとき、レーダーの光点の位置がちょうど水平なところに来た。

「ビンゴォ。ここね」ととおん。

 二八階、二九階…… 通り過ぎていったん二九階で降りて、再び下りのエレベーターで二七階に戻る。エレベーターの中で俺は太いフレームのメガネをかけた。黒崎に見つからないようにしないといけない。


 エレベーターホールから出て廊下を歩き、黒崎次長のいる方向をレーダーで探る。

「北東の方ね。近いわ」

「ああ、三〇メートルくらいだ」

 ドアがあった。事業管理部三課と記されている。

「なにやってるところか、まったくわかんないわね」ととおん。


 ともかく、この向こうに黒崎次長はいる。ドアをくぐったら見つかったりしないだろうか。

 いや、まだ距離はある。だが黒崎に見つかることは絶対に避けなければならない。こんなところで出会ったら、どうやったって尾行していたことを隠せない。そして、それがバレたなら会社にいられなくなるかもしれない。


 ここで帰るという選択肢は…… それはない。だけど、そのドアを開くことは、ヘリから飛び降りるのよりもためらわれた。

「どうしよ?」とおんが俺に聞いた。

「そうだな……」

 俺はフーディを脱いだ。黒ずくめじゃない方がいいからだ。ネクタイが揺れる。

「失礼します」


 前へ進まなきゃ今の場所にいるだけだ。そして、今の場所に居続けることを俺は望んでない。決して。

 俺はドアを開けた。

 なるようになれ!

 カウンターに事務員の女の子が出てきた。黒崎はいない。ほっとした。


「プリンターの調子が悪いとご連絡を受けまして。紙詰まりが多いとか……」

 入り口付近にあったプリンターのメーカーのメンテナンス会社をかたった。とおんの黒ずくめもメンテナンススタッフならそれほどおかしくない。

「ええ、ほんとよく詰まるんですよねー。湿気多いからかしら」


「すいません。紙質にもよるのですが。様子見させていただきますね」

 プリンターのところに行って、カバーを開けてトナーを取り外すと、カウンターで受け付けてくれた事務員は自分の仕事に戻っていった。


 とりあえず潜入には成功した。

 フロアはずいぶん広く五〇人以上は人がいそうだ。メガネをかけているが、黒崎に見つからないよう、うつむき加減で周囲を伺う。いない。レーダーを出す。光点の指し示す方向は打ち合わせルームとなっていた。

「あの部屋にいるようね」ととおん。

「だな」


「お茶出しにでも行ってカメラを仕掛けようかしら」

「さすがに知らない人間だって分かるんじゃないか」

「覆面をすればあたしの顔はバレないわ」

 とおんが、例のラメのを取り出そうとする。

「いやいやいや、覆面が出したお茶誰が飲むんだよ。毒入ってそうだよ」

 だいたい、俺と初めて書庫で出会ったときだって、黒ずくめに覆面ってのでなければスパイってバレなかったと思うのだが。


「あ」

 その打ち合わせルームに女子の事務員がお盆に乗せたお茶を持って行った。お茶作戦はダメだ。覆面してなくっても。

 とおんが思案するように、天井を見上げた。


「上よ。天井裏からあそこの上に潜るわ」

「マジ?」

「ちょっと部品を取ってきますねー」

 とおんはさっきの事務員にそう言って、俺を連れてフロアの片隅の給湯スペースに引っ張っていった。


 その上に点検口があった。ここに上がるのか? 完全にスパイじゃんっ。

「睦人、しゃがんで」

「えっ。届かないでしょ」

 床に四つん這いになる。踏み台ってわけだ。とおんが俺の背中の上に乗った。


「ああ、もうちょっとなんだけど届かないわ」

「どうする? 椅子かなんかを持ってきた方がいいか」

「ぐずぐずしてちゃ見つかっちゃうわ。う~ん…… 肩車して」

「えっ? わっ、わかった」

 しゃがんだ俺の肩に、とおんがその長い脚をかける。


 うくっ。

 とおんの股間が俺の後頭部に、とおんのふとももが俺の肩に、み、密着している。痩せてると思ってたけど結構肉感的っていうか、むっちりしちゃってるっ! ヤバい、これはヤバいよ…… そりゃ、パラシュートじゃ無理矢理怖い思いさせられたし、その報酬はもらってしかるべきだけどこんなところで出さないで欲しい。心の準備ってものが……


「変なこと考えたらぶっ殺すから」

 すまん、殺してくれっ。とおん、俺、今、おもいっきり変なこと考えてます。

「立って」

 とおんを肩に乗せて俺は立ち上がった。とおんは点検口を止めていたネジを回す。


「予感がするわ。なにか今日は大きなヤマを当てる予感がする」

「こっ、股間がどうかしたか?」

「よ・か・ん! 予感がしたって言ったのっ!」

「あ、ああ、予感ね。はは……」

 とおんは、ぽっかり開いた点検口から天井裏へ消えた。


「え~。どうかな、微妙~ 芝崎さんってあったま堅いからさあ」

 話し声が近づいてくる。人が来る。マズい。

「早くっ!」

 とおんがせかす。

 点検口めがけてジャンプした。縁に手がかかる。そのまま懸垂して天井裏の暗闇に上がった。


 とおんが素早く点検口を閉めてガムテープで留める。

「はっ、はあっ」息が切れる。でも音を立ててはいけない。息を殺すと肺が苦しかった。


「じゃ、芝崎さんに言うんじゃなくって課長に直接……」

 天井板を越えて給湯室の会話が聞こえてくる。

 その声が遠ざかっていくと、とおんは「石膏ボードの天井板、踏み抜かないように注意して」と言った。


 とおんがヘッドランプをつけた。むき出しのコンクリートに鉄骨の構造材や配管が複雑に通っていて狭い。高さはしゃがんでなんとか進める程度だ。


 レーダーを使う。

「近いわね」

 とおんの言うとおり、もう光点までの距離は一〇メートル程度だった。

「フードの着なさいよ」

「スパイ気分がそがれるからか」

「だって、ホコリで汚れるでしょ」

 そういうとこ女子なんだな……


 二人這うようにしながら前進した。

 いよいよ光点までの距離がゼロになった。黒崎の真上にいるのだ。

 話し声は聞こえるが、会話の内容までは分からない。給湯室の女の子たちの声と違って低くてくぐもっている。


 とおんはナイフの切っ先を石膏ボードに突き立てた。慎重に錐のようにくるくる回し穴をうがっていく。小さな穴があく。オフィスの明るい光が穴から漏れてくる。


 そこに彼女は小さなマイクをセットした。さらに、もう一カ所穴をあけてマイクロスコープをセットする。画像は接続した端末に映し出された。 

 狭い天井裏で身体を寄せ合い、スコープが映す下の様子をうかがう。マイクが拾った音はヘッドフォンで再生される。片耳づつ俺たちはヘッドフォンを分け合った。


 肩が触れたとおんはヘリの中のエステのせいで果物みたいな匂いがした。美々に揉みしだかれるビキニ姿が目に焼き付いている。さっきのふとももの感触だって。いかんいかん、任務中だぞ。いや、しかし、007だって任務の最中にあ~んなことや、こ~んなことをしていたんじゃなかった?


「いや、我々が現地視察できれば来てもらう必要もなかったのですがね。わざわざご足労でしたね」

 物腰柔らかく、まだ黒崎よりも若い感じの男が言った。青、緑、ピンク、黄の色彩がモザイク模様になったネクタイ。シャツの袖口から何個も針のついた大ぶりの時計をのぞかせる。


「いえいえ、そこは承知しております。機構の方々が現地に入ることは機密の漏洩防止のために制限されておりますから。博士もその方がよろしいとおっしゃってました」


 今岡がずいぶんへりくだった姿勢で答える。俺がケルビンデザインで出会った高圧的な人物とはまるで別人だった。

「ああ、八木さんは今日は来られなかったの」

「ええ、実験でどうしても抜けられませんで」


「ほお…… 実験ねえ。まさか、トラブルとかではないよね」

「い、いえ、そういうわけでは」

「ま、いいけどさ。で、進捗状況はどうなんですか」


「ええ、それをご報告にとうかがった次第でして。先月は作業員を五〇%増員しまして、工程が随分はかどりました。進捗率で申し上げますと一気に出来高ベースで七八%まで完成しております」

 A3横長の表を示して今岡が説明していた。

「はかどりましたか。本来の予定だと、今、何%まで来てないといけないんでしたかね」


「そ、それは、八〇%ですが。でも、このペースであれば納入期限までには取り返せるかと」

「楽観的だね。遅れているということはしっかり認識していただかないといけませんよ」

「も、もちろんです」

 難しそうな相手だなと俺は思った。営業とかで話は聞いてくれるが、なかなか契約まで行かないタイプだ。


「それで本日ご相談させていただきたい案件がもう一つございまして、什器についてですが、特殊な仕様もありますので、納入会社について変更をお願いできないかなと。えー、ご紹介します。おい、黒崎君」

「はい、株式会社オフィスエバーの黒崎でございます。どうぞよろしくお願いいたします。今回のプロジェクトの什器備品、特に専用のシートについて当社に納入させていただきたくご提案に上がりました」


 オフィスエバーだって…… なんだそりゃ? 黒崎次長が別の会社の営業をしているぞ。


「まあ、メールでは聞いてましたけど。どういうことなんですかね。これまでの加能商事ではなくて、どうしてオフィスエバーですか? 本当にそこに変えなきゃいけないんですか?」


「仕様がなかなか面倒でして、躯体の設計変更に合わせてシートも微妙な変更が必要でして、そういうところは加能商事は小回りが利かないので。それに機密保持という点でも。亜門さ……、八木博士もそのように」今岡が答える。


「ふーん、博士がね。ただでさ遅れているアジェンダの什器を納入する会社を新しく設立するような会社にしようというのは、わたしはどうかと思うんですがね。まあ、博士がというなら。まあ……」

「ありがとうございます。ほら、黒崎君も」


 ここぞとばかりに今岡が礼を言った。

「はっ、ありがとうございます」

 あの黒崎次長が頭が机につくんじゃないかってくらい低く頭を下げた。


「ところで、メールしていた件だけど、事務機器販売ってことならソファーなんか余ってないですかねえ。倉庫で邪魔になってるような」

「ええ、ええ。おうかがいしていた件ですね」と今岡。


「余りものでいいんだよ」

「もう、たくさん余っております。どんなのでも余っておりますから」愛想笑いをした黒崎が調子を合わせる。

「そうなの。でもどんなのでもと言われると、どういうのが余っているかが気になるところだよね」

「もし参考になるようなカタログのようなものがございましたら」と黒崎。


「そうだよね。サイズとか、せっかく運び込んでも合わなかったら運賃がもったいないしね。ああ、余ってるのを倉庫から運ぶ配送料については当然僕が持つから」

 相手は書類の一番下に重ねていたカタログを机に広げた。


「こいつの幅2750のセットDなんかちょうどサイズ的に間取りにぴったりくるんだよね。ああ、ファブリックはそのグレーのにしてくれ。ざっくりした風合いが素敵だろう」

「ご確認しまして、ご連絡します」黒崎がほほえんだ。

「できれば今月中がありがたいな。来月頭にはちょっと人を呼んでパーティーを予定してるんでね」

「承知いたしました。すぐ手配します」


「ところで什器の納入に関してですがお支払いの方はいつ頃に……」揉み手をしながら黒崎が聞いた。

「ん? 前払いか。出来るのは、まあ11月だな。本体の進捗にあわせてだ」

「えっ? し、しかし什器は事前に出来上がらせておかないと計画に間に合わないのでは」


「いや、作っておけばいい。だが支払いは11月の予定だ」

「い、いえいえ、申し訳ありませんがうちとしても下請けへの支払期限が……」

「立て替えておけばいいだろう」


「立て替え…… ですか。しかし当社は設立したばかりで資金的に」

「なんだ? 今岡さん、資金繰りが厳しいような会社から納入をさせるんですか」

「い、いえ、そんなわけでは。大丈夫です。なんとかいたします」


「実績もないのに支払いの期限だけは。まあ立派なことだ」

「……」黒崎が黙った。手をぎゅっと握りしめている。

「大丈夫です。11月の支払いで結構です」今岡が繰り返した。


「まあ、納入実績がなくとも、いいとしておきましょう。私は寛大だからな。あれ、今岡君、オフィスエバーでしたか、君が役員に入っているなんてことはないですよね」

「はは、もちろんです」

「ふーん。どうせ君の親戚か兄弟かが株を持つことになってるんでしょう。まあいい。では常務にプレゼンテーションをお見せすることとしましょう。呼んで来るか」

 相手が打ち合わせ室から退席した。


「話が違う! 今岡さん、私は今日の交渉次第で前払いができると聞いていたから」

「そんなもの、なんとかしろよ。裏金をまわすとか。前もそうしたんだろ」

「経理の女に見つかってやっかいなことになったんですよっ」

 は、長谷川のことか…… やはり、金庫の金のことは長谷川が次長にはめられたんだ。


 とおんが俺の顔を見た。黙って俺は頷く。

「だがうまくいったじゃないか。その女のせいにできたんだろ」

「危なかったんだ。ずいぶん冷や汗をかかされたんです」

「おまえの誘いをこっぴどく断った高飛車な女に思い知らせてやれてよかったじゃないか」

「それは……」

「前金払いは難しいんだ。聞いただろ」


「だったら実験に協力できませんよ!」

「この期に及んでなにを言ってるんだ」

「あなたがすればいいじゃないですか」

「俺はもう三回もやってるんだ。限界なんだ。分かってるだろ」

「でも、まだ、変化は」


「体中の毛が抜けたんだ。スネもワキも。首から上の毛は無事だったけど、ほんとうに俺はギリギリなんだ。分かるんだ。あれはアレルギーみたいなものだ。突然発症する。あと一回したら俺はどうなるかわからん。黒崎、やってくれ。一回なら絶対大丈夫だ。時間も短い間だから」


「し、しかし」

「おまえだってこの話が流れたら破滅だろっ! 当座の金は何とかするさ。研究資金を回すよう亜門様にお願いするから、とにかく実験をしてくれ」

「……わかりました。一回だけなら。でも支払いは絶対ですよ。あのメーカーはうちの社にまで乗り込んで来たんだ。これ以上待たせたら、なにやるか分からない」


「黒崎、今日はあいつの言うことを聞いといてやろう。だが、船に乗るときにはおまえの納入するシートに座らされているさ。欲しがってたソファーよりも座り心地がいいだろうよ」


「ふん、そうですね。しかしシートはそのうちに見せなきゃいけないですよね。あの拘束具はどう説明しましょうか」

「シートベルトだと言えばいい。少々揺れるから立派なものが必要なんだとな」


 さっきの若い男が上司を連れて戻ってきた。頭の薄い五〇代以上の管理職、常務だろう。

 今岡と黒崎が立ち上がって名刺を出した。常務は名刺を受け取ったが自分のは渡そうとしなかった。


「こちらが、The Object Independencyジ・オブジェクト・インデペンデンシーTOIトイになります」


 ジュラルミンケースの蓋を開けた今岡が言った。

「インデペンデンス? 独立? 独立……物体? なにそれ?」とおんが小さくつぶやいた。

「うーん、意味不明な……」

 独立か。いったいなにから独立しているというのか?


 左右に別れたケースの左には機械が入っている。反対に右の方にはケースの大きさに不釣り合いな小さなモノが中央に緩衝材に護られて一つあった。

 それは、干からびているように見えた。

 白というか、銀色っぽくもある。干物のようなものだった。形状はいくつかの長いものがまとまっている。干からびた煮干しの束が近い。束を止める赤い紐には木片のようなものがついてる。


「ほおーっ、初めて見るよ。これがインデペンデンシーか。気持ち悪いな。トイとはよく言ったもんだ。ホラー映画か何かのおもちゃだな」常務が眉をひそめる。

 煮干しの束じゃない。それは手の指だった。切り取られた手首がミイラ化したようなものだった。だが指がずいぶんと細長い。なんだあれは?


「インデペンデンシーのボディ、その断裂した部分になります」今岡が言った。

「ボディ…… 身体という意味、それとも遺体という意味なの?」ととおんがつぶやく。

「ん? では、これがマキナか」

 常務はケースの反対側のもう一つの方を指した。そこには機械がほぼケースいっぱいを占領している。


「いえ、インデペンデンシーはボディだけです」

「ボディだけ? マキナの方は?」

「持ってきておりません。これは復元物です。つまり装置としてのインデペンデンシー、マキナは我々の技術で既にコピーできたということです」

「ふむ……」


「常務、ヤオヨロズアジェンダの実現に向けて着実にプロジェクトは進捗しておりますよ。ご安心ください」

 若い男は先ほどの「遅れていることを忘れるな」というセリフをまるっきり忘れてしまったように、そう言った。


「では実験をお見せしましょう」

 今岡はまずジュラルミンケースの中に入っていた機械を出した。

 機械は四角い箱の中に複雑に金属が絡み合って形成されている。コードがつながっていてその先には丸い輪っかになっていた。


 手術に使うようなシリコンの手袋をはめた今岡がミイラ化した手首をそっと取り出した。そして機械の中心部の透明な蓋を開いた。そこは液体かゼリー状のもので満たされていた。干からびた手首を入れる。濡れた干物はその白い色がふやけたホルマリン標本のようでもある。蓋を元のように閉めたが少しゼリー状のものが溢れて、それを今岡はポケットティッシュで拭きとった。


 機械から長い何メートルもあるコードの伸びた先にある輪っかを黒崎に渡す。金属でできたヘアバンドのようだ。

 受け取った黒崎は金属の輪を見つめた。そのまま数秒が過ぎる。彼の指先が震えてた。


「黒崎君……」

「え、ええ」

 黒崎はうつむいた。

「始めよう。黒崎社長」


 黒崎は顔を上げた。社長だって…

 黒崎はオフィスエバーとかいう会社の社長ってことか。つまり黒崎は加能商事から独立しようとしているのだ。

「わかりました。始めましょう」

 吹っ切れたような口調だった。


 黒崎は金属の輪を頭にはめた。機械に接続されたラインがぶらんと揺れた。

「起動するぞ」

 今岡が機械にあるボタンを押した。


 機械の周囲に霧のように細かい光の粒が発生した。オレンジ色の光の粒子は機械に吸い込まれるように収束していって、最後、機械の輪郭がオレンジに縁取られた。

「いけるか」

「はい」


 透明なケースに入ったゼリーの中の手首がビクンと動いたように見えた。

 次の瞬間、機械は浮かび上がった。天地を逆にし、黒いつるんとした石板のような外面を上にして空中に静止してた。シンプルな黒い石版のような長方体で、干物の入った複雑な機械の面は見えなくなった。

「おお」

 常務らが感嘆する。


「ご覧のとおり反重力制御装置は完全に復元されております」

 今岡の表情はにこやかだった。

「う、動かせるのか」常務が聞いた。

「黒崎君」

「ええ、では」

 黒崎は眉間にしわを寄せ集中する。機械が細かく震えた。


 次の瞬間、突然、それが弾かれたように急上昇した。

 ドゴッ!

 黒い石板は俺たちの潜んでいた天井を突き破った。

「おいっ!」今岡が叫ぶ。

 次に急降下して今度はテーブルに激突した。


「止めろっ」

 今岡が怒鳴るがコードで接続されている黒崎は白目を剥いていた。

 石板が四方八方へとめちゃくちゃな動きをして何度も衝突する。

「ひーっ」

 悲鳴を上げて常務と若い男が伏せた。

 今岡が黒崎に飛びかかって頭にはめた金属の輪っかを取り払った。


 ドンッ。

 機械は床に落ちた。

 黒崎は棒が倒れるように身体を硬直させたまま床に倒れた。口から泡を吹いていた。

「だっ、誰か、救急車を」と常務。

「救急車はマズい」と今岡。

「い、医務室に先生はいないのか」と常務。

「よ、呼んできましょう」と若い男。


 常務と若い男、今岡の三人が部屋から飛び出していく。

「か、鍵をかけてくださいっ」

 今岡の声がしてドアノブがガチャガチャ言った。


「と、とんでもないことになっちゃったわね」ととおん。

「じ、次長が…… 」

「すごい機密情報だわ。反重力装置ですって…… と、とにかく逃げなきゃ」

 とおんが元の点検口を目指そうとする。

「こっちの方が近くないか?」俺は天井にあいた穴をさした。


「あ、そう……ね」

 俺が先にその穴から飛び降りた。続いてとおん。

 床に仰向けに倒れた黒崎の肌が白くなったような気がする。いや明らかに白い。黒崎は地黒だしゴルフ焼けを自慢してたのだ。ちょいワルな感じで。口元には泡がついて、少し震えてた。死んではいないけど恐ろしいことになっていた。

 長谷川未里緒をはめた俺の上司はその報いを受けたのかも知れない。それでも恐ろしいことだと俺は思っていた。


 ジュラルミンケースの蓋が開いている。

「この機械を手に入れたら、スパイの成果になるのか?」俺はとおんに聞いた。

「えっ?」

 俺たちは目を見合わせた。

「そうだけど……」


 俺は、機械をジュラルミンケースに入れた。

「睦人……」

 金属の輪っかのコードをまとめてケースに入れジュラルミンケースの蓋を閉めた。

「行こう」

 俺はとおんをせかして部屋の内鍵を開け脱出した。


 その後はビルの前を通りかかったタクシーに乗って駅まで行って金沢へ帰った。俺たちは八木亜門の機械とジ・オブジェクト・インデペンデンシー呼ばれた謎の手首のようなものを奪ったのだ。


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