第百十六話 絶対に押すなよ
結局、長野でも大宮でも黒崎次長は降りることはなく、上野で彼を表すレーダー上の光点が新幹線車両から離れた。駅から出てタクシーに乗り込む黒崎には同行者がいた。高倍率のスコープで確認した男は八木亜門の腹心、今岡だった。タクシーを上空から追跡すると二〇分ほど走行し到着したビルに彼らは入っていった。
馬都井くんはヘリを自動操縦に切り替えた。現在の高度を維持しホバリングし続ける。
「あのビルは?」
美々さんが聞く。
「そうですね。ふむ、いくつかテナントとして会社が入っていますが…… 三〇社くらいありますね」操縦から離れた馬都井くんが手早く端末で調べる」
ビルはフォレストと同じくらいの巨大なビルだった。首都圏ならこれくらいの高層ビルは珍しくもないのだろうけど、それでも付近で一番大きなビルだ。
「三〇社か。地上に降りてあいつらを追跡しないと、どこに行ったのか分かんないわ」ととおん。
「ですわね」と美々さん。
「ここからは地上作戦というわけですね。睦人さん、レーダーを使いましょう。GPSとは違って近距離でしか使えませんが、替わりに平面座標だけではなく三次元で方向が分かるという利点があります。ビルの階を特定できますよ」と馬都井くん。
「では睦人さんととおんちゃんの二人でいきましょう。申し訳ありませんが、わたくしは取締役会に戻らないといけませんので帰りは新幹線でも使ってくださいね」
「分かったわ。ボンビーリーマンには電車代貸しとく」
「すまん」
「じゃ、睦人もスパイのかっこしなさいよ」
俺は鞄に入れている黒のフーディを着た。とおんがスパイは全身黒にしなければいけないとかごちゃごちゃ言うのでわざわざ買ったのだ。とても薄くて軽いしコンパクトになる。パンツは黒だし、上にそれを羽織ればとおんの言うスパイなイデタチになる。
「ふうん、まあ、らしいんじゃない。あ、でも……」
そう言うと、とおんはブランドロゴのところの反射マーキングを目ざとく見つけて、化粧ポーチから出したアイライナーかなにかで黒く塗りつぶそうとする。
「ロゴがかっこいいのに」
「ブラックアウトしてステルスにした方がかっこいいわよ」
「そうかな」
アイライナーでちょこちょこされて、くすぐったいような変な感じがする。
「ところで、どこに着陸するの。屋上?」 俺は聞いた。
高層ビルの屋上は広い平面になっていた。
「え、着陸なんてしませんよ」と馬都井くん。
「は、はい?」
「航空法違反ですからね。着陸許可を取ってないですから」
「いやいやいや、着陸しなきゃどうやって俺たち降りるのさ?」
「ちゃんと用意してありますわよ。これですわ」
美々さんが出したのはリュックのようなものだった。
こっ、これはもしや?
「はい、後ろ向いてください。装着しますわ」
有無を言わせないまま、俺はそいつを着けられてしまった。
ヘリのドアが開いた。げっ。当たり前だけど、めちゃくちゃ高い。突風が髪の毛をくしゃくしゃにした。
「や、やっぱ、パラシュートってのはやめにしない?」
「やめたら降りられないじゃないですか」と馬都井 くん。
「い、いやさ、地上ギリギリまで降下して縄バシゴみたいので、こう、ひょいっと」
「最低制限高度にひっかかります」
「だって、さっきも低空飛行してたじゃない」
「街中ではみなさんに見られていますからね」
「にしても高いって」
「いえいえ低かったらパラシュート開く前に地上に激突しますよ。人間の身体なん二〇メートルの高度でもやすやすと潰れちゃいますからね。はは」
そこ笑うとこじゃねーよっ!
開いたドアのふちに立って手すりを掴む。指先が震える。
「お、押すなよ、絶対に押すなよ」
「美々様、これは、あれですよ。お笑いなどで言うところの、『押して』という意味ではございませんでしょうか」馬都井くんが美々さんに耳打ちする。
「あ、なるほどう。そうですのね」
「ちがーうっ!」
「飛んだらすぐ開けばいいじゃん」ととおん。
「よく考えてみろよ。もし恐さのあまり俺が失神したら誰が傘を開くんだよ」
とおんが俺の目をじっと見つめる。そしてにっこり笑った。
そんな可愛い顔を見せたって油断しない。どうせ、またなにかしら策略をこらして落とそうという魂胆だ。またチューとかなんとか言って。もうその手には乗らんっ! ぜったいにだまされんっ。
「めんどくさい」
ポン。とおんは俺のパラシュートのひもを引いた。
えっえっ?
ドン!
風圧にパラシュートが引っ張られて俺の身体は機外に吹っ飛ばされた。
俺が空を落ちていく。
「とおんちゃん! よい子のみんなは真似しちゃダメですわよ~ん」ヘリからこぼれた美々の声があっという間に上空に遠くなる。
「やーさーしーくーだーまーしーてーーー」
悲痛な叫びを吊り下げてパラシュートは降下していった。