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第百十三話 三千円とヘリ

 倉庫で作業をしていたときに黒崎次長の大きな声が聞こえてきた。倉庫は廊下の突き当たりにある。みんな携帯に私用電話がかかってくると、たいがい倉庫の前で通話するのだ。


 普段は聞かないようにするけれど、黒崎の会話の中に今岡という名前が出てきた。八木亜門のケルビンデザインからの電話だ。倉庫のドアに耳を押し当てた。


「承知しました。例のあれを先方にお見せするのであれば、私も一緒にうかがって契約内容について詰めることにしましょう。私の将来もかかった大事な案件です。なに、会社なんてどうにでも…… 今から休みますよ。しかし、あの機械を持ち出すなんて亜門様は了承されたのですか?」


 尾行しようと決めて、馬都井くんにもらっていた超小型の発信器を黒崎の靴に仕掛けた。決裁をもらいにいったときに、ものを落としたふりをしてしゃがんだ。黒崎は職場ではサンダルに履きかえている。机の下の靴はあった。靴底の土踏まずのあたりの地面に接触しない部分に貼った。ガムがくっついているようにしか見えない。


 黒崎は急遽年休を取った。俺は携帯用の小型レーダーを持ってタクシーで追跡した。黒崎のBMWはふぉれすとビルから30分ほどドライブして金沢駅の駐車場に入った。


 入場券で改札をくぐって尾行したのだが、黒崎は新幹線に乗ってしまいホームで見送る羽目になったのだ。


『なんで新幹線に乗らないのよっ! 切符なんて乗ってから車掌さんに言えばいいじゃないっ』携帯の向こうでとおんが怒っていた。

『だってあと現金3千円しか。給料日前だし……』


『はあ? あんたねえ、007が「現金がない。尾行はまた今度にね」なんてことになる。スパイたるもの常に財布に十万くらい入れときなさいよ。各国通貨で! あたしなんて家にならペソまで持ってるわよ』

 ペ、ペソって。無茶な。だって俺、本職じゃないし。


『まあ、十万円とか、各国通貨はおいといて、せめて数万円は持ってるべきではなくって。いい社会人なんですから。出河さん、あなたがいわゆるダメリーマンかつ非モテなのは、そういうところに端的に現れているのではないかしら』グループ通話で美々さんが指摘する。

『み、耳痛いです。美々講師のお説教は地味に心に刺さります』


『で、どうするの?』ととおん。

『まあ、とにかく黒崎次長を追跡しなければならないですわね。メール送りますから、みなさんにその場所まで来ていただきましょう』

 と、美々さんに言われて来たのがここ、徳光のコースタルオアシスの外れにある駐車場だった。北陸自動車道のインターチェンジがすぐそこに設置されている。


 車で新幹線を追うのか。スーパーカーでも使うのか。美々さんだったらランボルギーニとか持ってそうだ。しかし高速の制限速度で走ってちゃ追いつかない。でも、あの人だったら、パトカーとかに偽装するなんてこともするかも。次長は新幹線だ。飛行機も考えた。フライトの時刻表も見たが羽田からモノレールだとそれなりにかかる。そもそも行き先が東京かも確証はない。


 ヴオォォォン。駐車場に車が入ってきた。

 って、ほんとランボだし。白のパトカーに偽装できそうな。いやいやドバイじゃないからそんなパトカー日本にねえだろ。だいたいこれ二人乗りじゃねえの。


 クォオオオン。

 追いかけるようにして黒のスリムなオフロードバイクが入ってきた。とおんだ。


「空から追いかけますわよ」ガルウィングドアを開けた美々さんが言った。

 は!?

「あんた、ほんと財閥ね」ヘルメットのバイザーを開けたとおんがあきれた。


 KIRA☆AVIATION、キラ☆アビエーション、格納庫の扉には、その文字と流星マークがあった。

 馬都井くんがリモコン操作で扉を開く。

 格納庫の中に入っていたのはプロペラのついた乗り物だった。


 ヘリだよ、おい……

「ヘリで新幹線を追うってわけね」ととおん。


「MDエクスプローラー。ノーターヘリっていってテールローターのない最新モデルなのです。振動と騒音が軽減される機構だから、ドクターヘリとか報道用に採用されていますわ」

「ノーターって実物は初めてだわ」とおんがヘリの後部を見た。


 美々さんがとおんに対してヘリの技術的な部分について話している間に馬都井くんがヘリを牽引し格納庫から出した。


 倉庫の奥にもう一機、小さなヘリがあった。

「こっ、これ、コブラじゃないっ!」とおんが大きな声を上げる。

「コブラ?」ヘリの名か? なんか不穏な名前だな。


「なんで、対戦車攻撃ヘリがあるのよ?」

 た、対戦車攻撃ヘリ! 物騒な。

「じゃないですわ。ベル209です。ま、モデルは同じですけどね。合衆国の森林警備隊用のもので武装はないですわ」と美々さん。

 なんで、そんなの持っているんだ?

「二人しか乗れないから今回はこっちは使いませんわよ」

 その言葉に少しほっとする。


 MDエクスプローラーの機体は濃紺と白のツートンに塗装され、ところどころゴールドのラインや文字があしらわれている。最新モデルと言うだけあって流線型の優美な機体とその紺と白の色合いは、ヨットとかマリンな香りを感じさせて美々さんらしい。機体の前面は曲面のガラスが大きくとられているが、操縦席の足下までガラスなのはちょっとおっかない気がした。


 MDエクスプローラーに男女四人が乗り込む。内装は本物の木材をふんだんに使った落ち着いたもので、ヘリの中と言うよりもリビングにいるような感じだ。

 ただ操縦席周りの計器類はやはりメカメカしている。


 コックピットには馬都井くん、そのとなりが俺、女性陣は後部座席だ。


 操縦席の馬都井くんがエンジンをかけた。

 ババッバッバッ、バリバリバリバリ。

 騒音が低減されているモデル? これで? なっ、なんも聞こえんぞ。

 耳栓兼通話のためのでっかいヘッドホンを渡される。それでも騒音はしたが、なんとか許容できる程度になった。


「本日はキラ☆アビエーションをご利用いただき誠にありがとうございます。機長の馬都井でございます。当機は法令遵守並びに安全運航を心がけておりますが、本日の空路につきましては気象条件によって多少の揺れも予想されます。今一度シートベルトをご確認ください」ヘッドフォンから馬都井くんの声。

 おおっ、本職っぽい。


「それでは離陸します。快適な空の旅をお楽しみください」

 馬都井機長の言葉の後、ほんの少しのG、エレベーターくらいのものがあって、あっけなく機体は空中に浮かんだ。


 その浮上感覚は初めてのものだった。飛行機とは全然違う。なんというか、ほんとうに力みもなにもなくすーっと上がっていく感じ。そのまま真上に上がっていくのだ。ヘリっていうのは、まさに空中を自由自在に行き来できる魔法の絨毯のような乗り物だと思った。


 見る見る地面が遠ざかる。駐車場と格納庫、徳光のコースタルオアシス、足下のガラスの向こうにはさっきまで自分がいた地上が広がっていく。高いところから眺めるのは愉快だ。


 超越している。人はなぜ高いところに上りたがるのか。客観視するためじゃないだろうか。自分がへばりついてた、絶対だと思っていたセカイを。そして客観視するということは、自分というセカイの壁を破るためなのではないか。日常を超えるということだ。俺たちは小さなセカイにいる。そこで生活し苦労し悩んだりしている。それがバカバカしくなるのだ。中にいちゃ見えないもの、外からしか見えないものはある。高いところに上って下界を見下ろすというのは一番手軽な日常からの脱出なのかもしれない。


「この椅子すっご〜い」水平飛行に入って、とおんが自分の座っている椅子の肘掛けのスイッチ群を撫でてそう言った。


 どこかあの小西製作所がふぉれすとビルの正面に置こうとした椅子に似ている。飛行機のファーストクラスのものみたいだ。ヘリの内装は天然木をふんだんにあしらってクルーザーのようだ。どっちも乗ったことないけど。


 美々さんが操作すると肘掛けの横から折り畳み式の天板が電動で出てきた。

「執務スペースとしても使えるし、まあ移動オフィスですわね。海外からの取引先を案内するときには応接室にもなるし小さいけどホームバーも備えてますのよ」


「素晴らしいわ。そうっ、そうよ、スパイのあたしの世界観ってこういうことなのよ。豪華なプライベートヘリで敵を追いつめる。まさに007。ま・さ・に・美し過ぎるセレブスパイ」

 美し過ぎるセレブスパイね……


「よかった、とおんちゃんに喜んでもらえて。そうですわ、シャンパン持ってきましたの。冷えてますわよ。飲みます?」

「そうね、飲んじゃおうかなー」


「え? 任務中じゃないのか」と俺。

「ふふん、プロのスパイはたかがシャンパンごときで酔っぱらったりしないわ」ととおん。

「いや、シャンパンってわりにアルコール度数高いぞ」


「007が、任務中なのでお酒は遠慮しておこうなんてことにならないでしょ。だいたいね、スパイにはお酒を飲む訓練があるくらいなのよ」

 え、訓練?


「新人はね、研修会の最後の日に教官や2年目の先輩からお酒を飲む訓練を受けさせられるの。研修会場のホテルのホールでね。順番に注がれて飲み干すよう訓練されるの。休憩を挟んでカラオケルームに移動して歌唱能力だって鍛えさせられるんだから」


 ん?

「それは訓練ではなくて、いわゆる歓迎会なのではないかと」

「なに言ってんのっ! 諜報機関が歓迎会なんてふつーの会社っぽいことするはずがないでしょ」

「世界各地の様々な種類のお酒に対応するよう訓練される厳しいトレーニングよ」

 チャンポンは身体によくないと思うぞ。


「大丈夫ですよ、睦人さん。良いお酒は酔っぱらわないですから」と美々さん。

 いやいや、そんなことないでしょ。美々さん、それ、アルコールに依存しているダメなオジサンのセリフだよ。


「はい、とおんちゃん、どうぞ」

「ありがと。美々もね」とおんはボトルをとって注ぎ返した。

 二人はシャンパングラスを軽くぶつけた。


 三十分後。

「きゃはは。もう、美々ったらあ~ うそばっかりい」

「とおんちゃん。ぜったいかわいいってば。全部かわいい~ ほんとにかわいい。腹立つくらいかわいいですわ~」

 案の定……

「後ろの二人、完全に酔っぱらっとるがな」と俺。

「高度と気圧の関係でアルコールが回りやすいのです」馬都井くんが言う。

 そういえば、そういうの聞いたことある。


「ちげーし、ちげーし。酔ってないもんっ! これはスパイの訓練によって身につけた酔ったふりをして相手を油断させる高度な偽装工作なんだからっ」

「はいはい……」

 完全に出来あがっとる。まあ、美人二人が頬を染めて楽しそうにしているのは悪くない絵だけど。


「美々さん、やっぱり家とかで毎日シャンパンとか高いワインとか飲んでんすか?」

「うん、そうですわね、毎日ってことはないですわね。あまり飲むと自制が効かなくなりますからね」

 そうだよね。さすがお嬢さま。そういう活発なように見えて奥ゆかしいところがいいんだよな。


「でも、美々さんの自制が効かなくなったところも見てみたいですけどね」

「下ネタ言うとか?」ととおん。

「うふふ違いますよ」

「え、どうなんの?」ちょっと気になる。

「恥ずかしいですわ」

「そう言われると逆に聞きたくなるんだよなあ」


「私はね、お酒をいただくとお説教がしたくなりますの」すっくと立ち上がって美々さんが言った。


 う…… い、一番たち悪い酒だよ。少なくとも仁王立ちで腰に手を当てて宣言することではない。


「そもそもセミナー講師をしようと考えたのも思う存分お説教ができるからなのですわ」

 なるほどう、趣味と実益をかねて…… って地味にヤな人だな。


「ああああっ、ダメ出ししたい、ダメ出ししたい」

 突然美々さんが叫びだした。

 なっ、なんなんだ。


「睦人さんっ」

「は、はいっ?」

 美々の目はすわっていた。

「だいたいですよ、所持金三千円ってなんですかっ!」

「いや、それは悪かったって、さっき……」

「そうよ、スパイにあるまじき財布の中身だわ」とおんも同調する。

「だから、スパイではないのであって」


「そういうことじゃないのです。いいですか睦人さん、よい大人の男性が三千円でいいんですか? たとえば、女子から『今からどこかに連れてって』って誘われたときに、『えーと、持ち合わせ3千円だから今日はちょっと……』なんて言ったら、女子はどう思うかしら。甲斐性なしというのでしょうかね。そういうところが彼女いない歴=年齢という状況を作り出しているんじゃないですの」


「でも、給料安いし、給料日前はしょうがないところもあるというか……」

「言い訳ですわ。たとえ給料がお安くても、お安い給料なりにお金を管理できるようにしなければいけないのですわよ」


 お安い給料って言うなよ……

「美々さんみたいなランボに乗っている人になんかわかんないよ。湯水のように使える人には」

「いえいえ、お嬢様ほど金銭感覚に秀でた人はいらっしゃいませんよ」と馬都井くんも美々さんを擁護する。


「ケチと言っていただいてもよろしいですわ。だから資産を形成できますの。お金はね、コントロールすることよ。いい? お金を貯めるコツっていうのは、買うべきときに買って、売るべきときに売る。それだけなのですわ」


「それが分からないから」

「ううん。違いますわ。買うべきときに買うお金がないのですわよ。そして売ってはいけないときにもお金が足りなくて売らざるを得ない状況に置かれるってだけですの。お金をコントロールするには、そうする確固たる意志が必要なのです。三十万程度の給料もコントロールできないで財布が空になっているようじゃ、センスないとしか言えませんわ。とにかく、もう少し財布の中にお金をストックしておきなさい」


「やだよ。そんなの金持ちの論理じゃん。働いてる時間は俺の方がきっと長いのに…… 日本の経済システムは間違っている!」

 なんか上から言われてる感じがムカついた。


「あー、残念、今、もし睦人さんのお財布の中に五千円があったらデートしてあげてもよかったのに」と美々さん。

 絶対うそだ!

「あー残念、私も五千円あれば、睦人とムフフなところに行ってあげてもいいかなあ」ととおん。


 適当なでまかせを…… ムカつく。

「さ、これに懲りて五千円、財布の中に入れておくことにしたらいかがですの」と美々さん。

「そんな甘い言葉には負けん。金持ちとは断固戦わせてもらう。俺のプライドだ」

「なかなかですわね。よろしいでしょう」


 それで美々さんは一応引き下がったのだが……


「とおんさん、これに着替えてください」

 とおんは美々さんから水着を受け取るとその白いビキニに着替えた。リクライニングシートを倒すとそこに寝ころばされた。

「今からオイルマッサージをします」


 えっえっ? なぜオイルマッサージ。

「美々、エステもできるの?」ととおん。

「ええ、美を創造する最高の技を持っていると自負していますわ。私を脂肪を揉み出されているだけのブルジョワの豚と思ったら大間違いですわよ。エステチェーンの展開も考えたほどですのよ」


「結局はお嬢さまはエステ業界には参入しなかったのですが。と申しますのもお嬢さまの要求するレベルの手技を持つエステティシャンを揃えられなかったのです」

「さあゴッドハンド吉良守の手技を味わうがいいですわ」

 オイルをかけられたとおんの背中に美々さんの手が掛かった。プロのエステティシャンの技だった。とおんのなめらかな背中に、美々さんの指がリズミカルに触手生物のように這う。


「ら、らめえ」とおんが悶絶する。なんて甘美な世界なのだ。

「睦人さんもゴッドハンドを味わいましょうか。こちらでいっしょにオイルまみれになりませんこと」

「えっ、いいの?」ハ、ハーレムだ、これこそハーレムだ。


「五千円になります」美々さんが微笑んだ。

「え?」

 俺が持っているのは…… 三千円だった。

 くーっ! なんで三千円しかねえんだよ!

「あ、あの、後払いは?」

「現金払いのみですわ。残念ですね」美々さんの笑みは微動だにしなかった。


「三千円しかもっていねえ俺、死ねっ!」怒りの平手が太ももをペシンとはたいた。


 俺が次の給料日にしたことは、一万円札を四つ折りにして財布の奥のすきまに入れたことだった。


 たった一枚の紙幣だけど、だれかになにかを誘われたときに、とにかくYESって言える準備ができてる人になると決めたのだ。女子に関してだけじゃないよ。その日から常に使わない一万円が財布にストックされている。今のところ役には立つようなこともないけど。でも、もう絶対にあんな悔しい思いはしない。


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