第百十二話 さすがです、黒崎次長
始業時間の五分前から職場にメーカーの人が乗り込んできて大変なことになっていた。課長が怒鳴られ加納が怒鳴られて、しまいに俺まで呼ばれて雁首並べて怒鳴られていたのだ。
加納の椅子の発注の件だった。黒崎次長は販売先のアストラルホームにキャンセルを申し込んだ。そこまではよかったのだが、実は仕入れ元のメーカー側がもう製造していたのだ。発注をキャンセルしようとしたところメーカー側が怒鳴り込んできたのだった。
「だから契約を履行しろって言ってんだっ。注文生産で、もう作ってんだ。なんでそういうことになるんだっ」
「いや、そ、それは…… この出河君がウザいオーラをですねえ……」課長が肩を縮こめながら答える。
ちょ、俺? 課長、違うでしょ!
「オーラ? ふざけてんのかっ! オーラってなんだっ!」作業服姿に坊主頭のメーカーの人はこめかみの血管が切れそうに脈打ってる。
「ひっ、オーラというのはですね、え、えーと、生体が発するとされるある種の霊的なエネルギーのようなものでして、転じて人物が発する独特の雰囲気のような」
「そういうことを聞いてんじゃねえっ!」
「ひいいっ」
「ほんとに訴えてやる。埒があかん。もう訴訟しかねえっ!」
「そ、それだけはご勘弁を」課長は青い顔で泣きそうになっている。
「じゃあ納品させてもらうぞ。いいなっ!」
メーカーの人は携帯をかけた。
「おう、俺だけど、降ろせ。あん? かまうこたーねえ。その辺に適当に降ろしちまえっ」
えっ、えっ? なに言ってんだ、この人。
ふぉれすとビルの外を見下ろすと、大型のトレーラーが入ってきていた。荷室が開いて中から椅子が降ろされていく。
ビル正面の広場にところかまわず椅子が降ろされ、見る見る埋め尽くされていく。ご、強引でしょ。さすがにビル管理から怒られるぞ。
「勘弁してください。今日のところはお引き取りください」課長が平謝りで頼む。
「受け取ってもらうまではあの扉をくぐらねえって決めたんだ」男はガンとして引き下がりそうにない。
「とにかく今日はお帰りを」
「できねえな」
「け、警察を呼びますよ」
「警察だと。ほー、そうか。じゃ、ここから帰るわ。うちの椅子はクッションがいいんだ」メーカーの男は窓を指した。
は! 飛び降りるっての? マジ。いやいや窓の幅は狭くて出られない。はったりだ。
「くそ、狭くて出れねえ。せっかくのクッションだってのに。こいつでためしてみるか」
メーカーの男は机の上にあったマグカップを窓から投げた。一七階だぞ。
「ちょちょっ」
放物線を描いて落ちていったマグカップは見事に椅子に命中したが、大きく跳ねてアスファルトに落ち粉々に割れた。
「あぶあぶっ、危ないってばっ」こいつほんと頭おかしいって。
「ちょちょっ。やめてくだしゃあい」課長は鼻水垂らして泣いていた。
「あーやめるさ。納品させてもらえりゃな」
なんで、こんなことになってるんだ? ブラ崎のせいだ。あいつが発注をやめろと言うからだ。
「なんで、あの交差点いつも渋滞してんだよっ。道路行政が怠慢なんだよっ。拡幅するとか何とかしろってんだ」
逆ギレして睨みつけるような仏頂面で遅刻してきたのは、その黒崎次長だった。そもそも「いつも」なら、その分早く来ればいい。部下が打ち合わせに遅れたようなときは「時間厳守はビジネスの基本だろ」と叱りつけるくせに。自分を棚に上げることに関しては他の追随を許さないという持ち味をさっそく朝から発揮する。
「じ、次長、小西製作所さんが例の椅子の発注の件で」課長がすがるような目で黒崎次長を見た。
「はん? あ、ああ。小西製作所さんか」
ようやく、黒崎がもめ事に気づいた。
「あんたか、発注を取り消したのは」
「……」さすがに黒崎の顔が曇る。
「どうしてくれんだ、あんっ」
「別室で話させてもらおう」
黒崎次長と小西製作所は二人だけで打ち合わせルームへ行った。
だから発注を取り消すなんて無理だったんだ。ブラ崎のせいだ。さすがにあいつでもこの事態は厳しいだろう。相手は怒鳴り散らせばいい部下ではない。
だが五分もしないうちに二人は出てきた。黒崎は涼しい顔をしていた。
「お願いしますよ。ほんとに」小西製作所の人がすっかり落ち着いた表情で黒崎に頭を下げる。
「まあまあ、そういうことだから今回は勘弁しといてよ」
「承知しましたよ。ほかならぬ黒崎次長のお願いですからね」
あ、あれ?
小西製作所はさっきの剣幕が嘘のように、入り口のところで一礼までして引き上げて行ってしまった。
「うぐっうぐっ、ぶしゅん。さ、さすがです、黒崎次長。ありがとうございますう~」課長が鼻水をすすりながら、腰を九〇度に折った。安心したのか涙がさっきよりもっと溢れてきている。
「やっぱり黒崎次長だなっ。ありがとうございましたっ」白い歯を見せる加納も、そして課の全員が黒崎に頭を下げた。後輩の前元も。周囲に合わせて一応俺も少し下げた。
「こういう危機の時にこそ真価が問われるんだ。おまえらも頑張れよ」
「はいっ」
「もう、一生、黒崎次長についていきますっ」加納がいかにも心酔したという口調で言う。そういうことを軽々しく言う奴だった。
元はと言えば黒崎のせいじゃないか。それでも、この窮地をしのげた力量はあれだけど。
「尊敬する人は誰って質問があったら次長って答えますよ」と加納。
吐きそうだ。
眉をしかめた俺の顔を黒崎が見た。
「なんだ? 不満そうじゃないか。原因をつくった当の本人は仏頂面か。俺が解決してありがた迷惑ってのか。だったら、お前がおさめられるようになれよ」
「いえ、そういう訳じゃ」原因をつくったのは俺じゃない。あんただ。
「先輩、ここは感謝すべきでしょう」と加納。
「やだねえ、ちょっと仕事すると出来ない奴がひがむんだよな」 黒崎が顔をしかめた。
「出河君、失礼ですよ」と課長。
「昔もそういうことあったよ。前の会社でもねたまれて大変だったんだ。それで、ここに引き抜かれて転職することになったんだけどな」
そう、黒崎次長は途中入社なのだ。引き抜かれたと言っている。大手の一部上場の商社からの転職でうちの会社の人間を二部だとバカにしているようなところがあった。
「次長みたいに優秀な方はヘッドハンティングされちゃいますよね」と課長。
「次長、どこにも行かないでくださいよ」と加納。
「おまえらの心がけ次第だ。いや、実は俺は出河のことを心配してるんだ」
は?
「なんて器の大きな方だ。ねたまれても、まだ、そういうお心づかいとは。人間の器が大きすぎます」と加納。
「立場が男の器ってのを作るからな。ただ、こいつは俺の昔に似てるところがある。そんなだと上から疎まれて冷や飯を食わされる羽目になる。俺も苦労したからな」
て、てめえなんかに似てねえし。
「似てませんよ、次長。次長は先輩と違ってモテたでしょう」
「ま、モテなかったとは言わないけどな。はは」
幸いにも俺が皆ほど黒崎の活躍を喜んでいないことへの追求はそれで終わった。普段なら怒鳴りつけられるところだった。危地をやり過ごして少し黒崎もほっとしていたのかもしれない。
窓の下を眺めると、トレーラーから降ろされた椅子がもう一度詰め込まれていっていた。
よく見ると、椅子はうちがいつも扱っているオフィス用の事務椅子とはまったく異なるものだった。
妙に大きくて機械的な新幹線のグランクラスのみたいなものだ。
その椅子が大量に並べられ広場にいくつもの同心円を組み合わせた幾何学模様を作っている。
なぜ、そんな並べ方をしたんだ?
目を凝らしてみて気がついた。タイルの舗装が段になっていて。それに合わせて置いたのだ。
上空から見た幾何学模様に並べられた近未来的な椅子。一瞬、脳裏に椅子に座っているヒトでないものが幻視された。どこかで見た映画のシーンを思い出したのかもしれない。
「なんだかミステリーサークルみたいですね」俺が思っていたことを前元が言った。
「ば、ばかなことを。出河の病気が移ったんじゃないか」と黒崎。
黒崎の落ち着かない表情に、彼が今岡や八木亜門と通じていることを思い出した。これは、ほんとになんの椅子なんだ。というか、黒崎は八木亜門がUFOを開発していることを知っているのだろうか。
「でも、どうやってあの小西製作所を説得したんですか」加納が聞いた。
「あ、ああ、まあな。経験ってやつだ。百戦錬磨だからな。ははは」
その答えにはまるで内容がなかった。なんか変だ。