第百五話 グレネード
ドアをたたきつけるようにして閉めて廊下をダッシュした。視界の端に白衣の研究員がドアを開けるのがよぎる。エレベーターでは待っている間に追いつかれそうだ。
エスカレーターを駆け降りて下の階に向かう。靴下は滑るしエスカレーターの金属の凹凸が足裏に当たって痛いが、そんなこと言ってられない。
ふぉれすとビルの吹き抜けに面して配置されたエスカレーターのゆっくり繰り出されるステップを駆け降りる。
ようやく一七階にまでたどり着いたときには、白衣の敵はもう一八階に迫っていた。一人、二人ではない。やはり靴を履いている方が足が速い。距離が詰まってきている。一階はまだまだ先だ。
『とおん、やばい。追いつかれそうだ』
『落ち着きなさい。こういうときこそスパイの装備があるんだから』
スパイの装備。なんだか心強いぞ。
『スメル・グレネードよ』
『おおっ、なんだかそれっぽい。グレネード? 手榴弾か? でも、えっ、死んじゃうの?』それはさすがに……
『なに言ってんの。不殺不傷、それが公安職公務員たる宵宮とおんのモットーよ。スメル・グレネード、こいつはね、におい爆弾なの。目に染みるようないやなにおいのするボール爆弾で敵の戦闘意欲をそぐのよ』
『えっ、においなんかで敵を撃退できるの? 単にくさくていやだってだけじゃあ……』
『ナメないでっ! ドリアンの五〇倍。あんたの靴下の一〇倍はくさいわよ』
『ちょっと待て。俺の靴下のがドリアンより五倍もくさいのかよ!』
『くさいわよ。つか、このグレネードの威力は、美々だって、びっくりなんだからっ』
『わ、私がびっくりってどういう意味ですのっ?』
『と、特に意味はないけど。人間スメル・グレネード的な……』
『失礼ですわっ!!』
『そうね、睦人の靴下とにおい対決をしてみればいいくらい』
『に、におい対決なんてしませんわよっ! このへっぽこスパイがっ』
『あ、あの醜い争いはやめて俺を助けてほしいのですが…… この状況はまさに窮地って言うか』
『誰が醜いのよっ、この美人を捕まえてっ!!』二人、声をそろえた。
君たちの争いがです…… 中高生の頃、外見とともに内面も美しくあれと習いませんでしたか?
「ああっ!」
ごちゃごちゃやってるうちに、白衣の奴らはすぐそこまで迫ってきていた。
『早く、スメル・グレネードを使いなさい。ピン抜いて、ボタン押して投げるのよっ』
とおんの言うとおり、俺はピンポン球より少し大きいくらいの黒い手榴弾を敵に投げた。
ポンッ。軽快な破裂音がした。そして一瞬で敵はその場に倒れ込んだ。
おおっ、すごい。さすがスパイの装備だ。
あれ、懐かしいにおいがする。かすかに漂ってきたにおいの性質は確かに俺が靴を脱いだときの中敷きみたいなにおいだった。ドリアンってこんなにおいなのか? むしろドリアンそんなにくさくないんじゃねーの。
敵は吐きそうな顔をしていた。
「鼻をつまむんじゃないっ!」失礼だろ……
スメル・グレネードのおかげで三階分くらい距離が空いた。それでも敵はまた俺を追いかけ始めた。なんとか一階まで逃げきれるだろうか?
俺は足を止めた。
奴らだ。二階下に白衣の男たちが見えた。黒いスーツの男もいる。エレベーターで下に降りて先回りされたのだ。上の階からと下の階からの挟み撃ちということだった。くそっ。
『エレベーターっ!』とおんの声が耳元で鳴り響く。
エレベーターホールに走って下りのボタンを押した。
来い来い来い来い……
チン。
「来たっ!」
乗り込んで、閉まるのボタンと一階のボタンを押した。
あ…… エレベーターに乗ったのは見られている。奴らも一階に行くんじゃないのか。
俺はB1のボタンを押した。一階のボタンは二回タップするとランプが消えて解除された。エレベーター会社の人に教えてもらった裏技だ。
『B1にしたの?』ととおん。
『ああ、でも、それも読まれてるかな』
『そうね…… 二階という手もありますけど』と美々さん。
『たしかに裏はかける。でも、いずれにせよ外部に脱出するには一階か、B1を通らなきゃいけない。プロなら、どちらにも敵が待ちかまえていると考えるべきよ』
『ど、どうしよう?』
『いいわ。B1階にしときなさい。策はある。スモーク・グレネード、煙幕弾を使うわ』
『煙幕弾?』
『B1に着いて、ドアが開いたら、敵に向かってスモーク・グレネードを投げるのよ。煙幕で攪乱して出口に向かいましょう。今、あたしたちもそっちに向かってる。援護するわ』
『わかった』
『煙幕弾はね、ピンを抜いて使うのよ』
『ああ』
『俺は安全ピンを抜いた』
『注意しなきゃいけないのはね、さっきのスメル・グレネードなんかと違ってピンが起動装置になってるから気をつけて。これはボタンはないの。ね、聞いてる?』
『あ、ああ』俺はピンを抜いていた。
『ピンを抜いて五秒で破裂して煙幕は発射されるから……』
俺の手は必死に抜いたピンを元のところに挿そうとしていた。
『以前に、新人がピンを抜いて自分の手元で爆発させちゃったことがあってさ。そんなヘマしないでね』
『んなわけないじゃん、はは』
ピンがようやく元のところに刺さった。あ、危ないところだった……
『それから、一度、ピンを抜くと、もう戻せないから気をつけてね』
「戻せんのかいっ!!」
身体が鉛直方向に押しつけられるような感覚があって、B1階にたどり着いたそのとき、ポンという音がして煙幕弾が破裂した。
『バカッ、睦人、早いわよっ!!』ととおん。
エレベーター内に黒い煙が充満する中、プンという音がしてエレベーターの扉が開く。
煙と一緒にフロアに飛び出す。
「な、なんだこれは!?」
「煙幕だ。くそっ」
誰かの身体とぶつかりもみ合いになるが、敵も視界が遮られて混乱している。
エレベーターから距離を取ると、ようやく黒い霧が晴れた。
が、同時に敵に姿をさらすことになった。四人だ。白衣の研究者が三人、それに黒いスーツの男が一人いた。煙幕から、あと二人出てきて、合計六人になった。トラムの駅舎へ向かう出入口は敵の向こうで、俺は完全に囲まれていた。