第百二話 クリーンルームは土足禁止
『あ、あの部屋は何ですの?』美々さんが言った。
ちょうど白衣姿のスタッフが出てきたのだ。
『行ってみて』
とおんの言うとおり、俺はその部屋へ向かい扉を開けた。
入った場所は前室で下駄箱が並んであった。
『開発用のクリーンルームね。内部は土足禁止か。マズいわ。靴を脱がないといけない。背が低くなるし変装がバレるかも……』とおんが言う。
『おいおいそんな靴脱いだくらいで…… 脱いだって二、三センチしか変わらねえし』
『いいえ、五センチは違うわよ』
『そんな違わねえし、一、二センチだろ』
『だんだんさば読む量が増えてってるじゃない』
『いっ、いいじゃないか。徐々になら自然な感じに俺の身長イメージが高い方にシフトしていくんじゃないかなって……』
『い、意味が分からん』ととおん。
『でも研究に関する情報はここにあるんじゃなくって。睦人さんの身長の件は危険だけれども、やってみる価値はありそうですわね』と美々さん。
だから別に危険って言うほどじゃ……
俺はかかとのシークレットシューズを脱いで下駄箱に入れた。
クリーンルームの扉には機械がついていた。
『生体認証ね。タイプは? ……やっぱり指紋ね』と、とおん。
『生体認証もいろいろあるけど虹彩なんかは日常的に出入りするには時間がかかって面倒ですからね。指紋と読んで準備しておいて良かったですわ』 と美々さん。
事前に八木亜門の声を録音したときに、コーヒーカップから指紋を採取していた。そのシートを俺の人差し指に貼り付けてある。
指で触れると機械のランプが緑に点灯し、シューっと自動の扉が開いた。
ひんやりとした空気が皮膚に伝わる。ここだけ隔離されて空気が動かないのだろう。匂いのない部屋は、雑然としてまだ人間味のあるオフィスとは異なった風景で、ガラスのチューブや計測機械などの無機質なものが立ち並びとてもふぉれすとビルの一角とは思えない。
このビルの外にぶらさがっていたのだと思い出した。そこから俺は黒い板を見た。あれはUFOの機体と同じ材質だった。 とすると、ここは別会社のトマトーマなのだ。やはり内部で繋がっていたのか。
「あ、亜門様。まだお帰りじゃなかったんですね」白衣の研究スタッフが声をかけてきた。
⑧のボタンを押す。
『やり残した仕事があってね』俺の代わりに機械がしゃべった。
「お疲れさまです。あ、あれ、亜門様、お痩せになりましたか。一回り小柄になったような……」
くっ、小さいって分かったのか?
だが、その研究員はそれだけ言うと自分の実験の方へ行ってしまった。
『ほらっ』ととおん。
『やっぱりね。身長は誤魔化せないですわね。まずいですわ』と美々さんまで。
「亜門様、この実験データですけど…… あれ? 背……縮みました?」別の研究員だ。
な、なんだよ。そんなの一、二センチだろっ。にらみつける。
④のボタンを押す。
「ああ、それで」機械が返答した。
背が縮んだのを認めたような答えになってしまった。機械の答えはバリエーションが少なすぎる。でも「いや、結構だ」では答えにならない。
『つま先立ちで身長を伸ばしなさいよっ』とおんが指示する。
その研究員はちんぷんかんぷんなデータのことをまくしたてると行ってしまった。
『やはり、五センチも身長が低いんじゃ明らかに違和感がありますわね』と美々さん。
『だから、二、三センチくらいだってば』
『とにかくつま先立ちだからね』ととおん。
「亜門様。あの基材の製法の検討なんですが、いろいろ、成分量を変動させて試行してはいるんですが、どうしても期待される数値までは達しないのですが…… ん、亜門様…… 背が? あれっ?」
こいつもかよっ。
『だから、つま先立ちっ!』とおんの声だ。
『わかってるよ』すでに、つま先立ちにしていたが、さらにかかとを高く上げる。くそっ、ああっ、あ、足の裏がつりそうだ。
②の「ああ」を押そうとした。
「チョコレートチャンククッキーというのはなんだね?」
⑥のボタン! 押し間違えてしまったのだ。さんざん、ちっちゃいとかコンプレックスをえぐられ平常心が揺さぶられたからだ。無理なつま先立ちのせいで手も震えるし。
だいたいこのボタンいらねえよっ!
「え、と…… チョコレートチャンク…… ですか? 食べたいということでしょうか?」間の抜けた顔で男が答える。
⑤のボタンを押す。
「いや、結構だ」
「……」気まずい沈黙が数秒流れた。
「はうあっ! ひょ、ひょっとして、チョコレートチャンククッキーにこの研究のブレイクスルーが隠されているという先生なりの啓示なのではっ!? そうか、素材の不均質性がもたらす許容値の弾力化に製法の鍵が……」
いやいやいや、チョコレートチャンククッキーには、ブレイクスルーは隠れてないと思うのだが。
ん! いや、これは、むしろ……
⑦のボタンを押す。
「君は食べたことあるのかね?」
この勘違いを利用すればいい。
「は、買ってまいりましょうか?」
⑨のボタン。
「ちょっと待ってくれ、小銭がある」
よし、これで、こいつは追い払える。
ん! こっ、小銭ねえじゃんっ! 千円札は? なっ、ないっ。
結局、財布にあった5千円札を俺は渡した。
「ただちに探して参ります」研究員は俺のお札を持って行ってしまった。
ああ…… 高額紙幣が。
やはり、録音した八木亜門の声だけで会話するのは相当無理があった。