第百一話 潜入、ケルビンデザイン
『出河さん、室内の全体をまず撮影しましょう』美々さんの声だ。
俺はゆっくりと360度身体を回転させた。カメラには周囲の景色が映っているはずだ。
『室内を歩きましょう。なるべく机の上とかを眺めるようにするのですわ』と美々さん。
ゆっくりと室内を行く。不用意に置いてある机の上の文書やつけっぱなしのパソコン画面などをそれとなくのぞき込んで、カツラに仕込んだカメラに撮影させる。地味だけど、それが機密を探す作戦だった。
『その裏返しになっている文書を表に向けてみて。マル秘文書かもしれない』ととおん。
俺はその文書を手にとった。意味の分からない数値がびっしりと並んでいた。そのまま、また裏返しにして机に戻す。
とおんが求めているのは、彼女の異動を撤回させるような決定的な秘密だった。こんなデータ程度じゃ不足だろう。
『八木亜門の机を探しましょう』美々さんだ。
八木亜門の机か…… 室内のレイアウトから推理する。通常、偉い人ってのは窓際に座る。窓際には二つ机があった。一つの方が明らかに大きな机だった。椅子も機能性の高い手すりのついた高級なものだ。
『これだな』俺は小さく美々さんに向けてつぶやいて、その椅子に座った。
ファイルを手にとってパラパラとめくる。
『たいしたものはなさそうよ。机の引き出しになにかない?』ととおん。
机の引き出しには鍵がかかっていた。
「亜門様どうかなされましたか?」
えっ! 今岡だった。
「私の書類かなにかをお探しでしょうか?」
これ今岡の机か!?
俺は⑤のボタンを押した。
「いや、結構だ」
今岡は不思議な顔をしたが、それでも俺が立つと席に着いた。
ヤバかったがなんとか誤魔化せた。
「亜門様、お疲れさまです」別の奴が声をかけてきた。
俺は②のボタンを押した。
「ああ」
「先週におっしゃられてました、干渉偏位のデータがそろいましたので、お時間がよろしければご報告いたしましょうか」研究スタッフの一人が声をかけてきた。
今度は⑤のボタンを押す。
「いや、結構だ」
「は、承知しました。また後日に」
潜入作戦は順調だった。海外旅行じゃないけれども、YES・NOだけで、基本、会話はなんとかなるんだな。
『キャビネットをチェックしましょう。極秘とかって書いてあるファイルはございませんの?』美々さんの声がインカムに響く。
『ばかね、そんなガラス扉の見えるところにあるわけないじゃない』とおんだ。
『あら、じゃ下の鉄の扉の方ってことですの?』
『ふふん、甘いわね。プロフェッショナルの経験から言わせてもらえば、絶対に守らなければならない極秘の文書ってのは何気ない風を装ったところにあるものよ。そうね、たとえば電話台の下の小さな引き出しとか』
空だった。
『へ~ そうですの』美々さんの声が棒読みな感じで響く。
『あ、あるいは、その本棚も怪しいわね。角の方を押したら反転したりしない?』
『えー?』一応押したけれども、もちろん反転などしない。
『はっ! そのロッカーが怪しいわ。なぜ、こんなところにロッカーがあるの。巧妙に隠したつもりでもプロの目はごまかせないわよ』
で、開いたロッカーには、ビンゴの機械とか、ビーチボールとか。木彫りの熊とか。茶碗とか。紙袋の束とか。いらないもの置き場になってるようだった。
『ふ~ん、極秘ファイル…… 熊のくわえている鮭の中にマイクロフィルムでもあるのかしら』美々さんが言う。
『じゃ、あんた、どこを探せばいいって言うのよ。言ってみなさいよ』
えと、できれば険悪にならずにアドバイスをしてもらいたいのだが。俺、今、潜入中だし……
『効率が悪いですわ。パソコンの中を見た方がいいんじゃなくって』と美々さん。
『絵面にならないじゃない。そんな椅子に座って作業してるだけなんてスパイじゃない』
『ま、まあ、いいじゃない』とおんを取りなして、俺は電源のついている一台の端末の前に座った。
『そうね、わかりやすい名前の付いたフォルダに機密情報は入れないわ。こういう記号や番号だけのフォルダ名が案外怪しいですわね。あ、それは日付ですね。20161220。開いてみましょう』と美々さん。
『な、なんだこりゃ』
マイク片手に歌い踊る女装した男たちのはっちゃけた写真だった。どうも温泉旅館のお座敷のようだ。フォルダ名の日付からすると忘年会?
『ほーっ、たしかに、人には絶対に見せたくない極秘画像ね』とおんがバカにした口調で言う。
俺はパソコンの前から離れた。検索には時間がかかるだろうし、そもそもほんとに大事なファイルにはパスワードが設定してあると思う。
部屋の片隅にいくと、給湯室のようなところがあった。
『冷蔵庫の中が気になりますわ』美々さんが言う。
『は?』そんなところになにかあるとは……
『私、他人の家に行くとかならず冷蔵庫を見るようにしていますの』
『いっ、いやな人だな』
『探求心ですわ』
『四の五の言ってないで、さっさと扉を開いたらいいじゃないの』ととおん。
『え、まさか機密があるって言うのか』スパイの経験か。たしかに冷蔵講の中は盲点かもしれない。
『なわけないでしょ』
『じゃあ、開けなくても』
『何が入ってるか、気になるじゃないっ!』
そうですか。君も、他人の家の冷蔵庫を開けるタイプでしたか……
結局、冷蔵庫の中を見せて女性陣2人は納得した。アイスが一本だけ入った冷凍庫も、からっぽの野菜室も開けさせられたが、もちろんそこには機密情報などない。