第百話 シークレットエージェント・シークレットブーツ
『し、視界が違う。高い、高いぞおっ。これほどまでとは』
『よかったですわ。睦人さん高い身長に憧れてましたものね』美々さんの声がインカムに響く。
『いや、別に憧れてるってわけではないけど。まるで、空を飛んでるみたいだ…… うがっ!』
スキップした足がもつれて足首をひねりそうになった。かかとの高さは諸刃の剣だった。慣れないと走りにくそうだ。
『シークレットブーツで浮かれるのもほどほどにしといてよ。アホなんだからっ』と、これはとおんの声。
にしても、背が高いというのはこういうことだったのかと思う。わずか2センチだったが、風景が異質なものに変わる。それは、ふだん俺が歩いているふぉれすとビルの廊下ではなかった。
俺は八木亜門に変装していた。顔にメーキャップをほどこし、カツラをかぶってそっくりになっていた。そして、足元は八木亜門の背格好に合わせるためかかとの高い靴を履いていたのだ。
俺じゃなくて、馬都井くんがミッションを任されなかったのは身長のこともあったのだ。八木亜門の身長は馬都井くんよりは小さく、俺よりも高い。低いのは厚底の靴で高くできるが、高いのは低くできない。長い足を切ることはできないからだ。美々さんの胸じゃないけど、大きいものを小さくすることはできない。それが、このミッションに俺が選ばれた理由だった。
シークレットブーツ…… ふふっ、なんだか極秘任務を帯びたスパイにふさわしい装備の名じゃないか。
いよいよケルビンデザインのオフィスの前だった。
『「やり残した仕事があーってね」ってのを使うのよ』ととおん。
『わかってる』
時刻は一八時をまわったところだ。八木亜門がすでに帰宅したことは、美々さんが駐車場の彼の車で確認していた。今は美々さんはとおんと一緒に彼女のオフィスのある二七階で、俺のカツラの中に埋め込んだカメラ映像に見入っている。
とおんは病院を抜け出していた。身代わりに看護師さんに例のアンプル弾を撃ち込んで眠らせ、変装技術でとおんに仕立て上げてベッドに放置していたのだ。曽根美は病院側にとおんが抜け出さないか監視するように申し入れていた。病院を抜け出したことがバレれば、もう退院可能ということになってしまい、すぐさま異動が発令されるだろう。このミッションは曽根美に知らせるわけにはいかない。手に入れた八木亜門の機密情報も曽根美ではなく、とおんに特命の指令をした国際部の上司に報告することになる。
『ところでさ、その…… ほんとに見せてくれるんだよね?』
『ええ、任務に成功すればね』
『あ、あの、わかってると思うけど、いやらしい気持ちで言ってるんじゃないんだ。それを見れば、俺があの廃鉱山跡で見たUFOとそれに乗っていた君が夢なのか現実なのか、謎を解明する鍵になると思うんだ』
『くどいわ。わかったから、とにかく任務を成功させることに集中しなさいよ』
『う、うん』
今回の危険なミッションのスパイに対する報酬はとおんのおっぱいを見せてもらうことだった。
俺はあの日とおんの裸の胸を見た。結構、ちゃんとあったのだ。決して美々さんのような巨乳ではないがいわゆる美乳というやつ……
一つの疑念が湧いた。それが俺のイマジネーションの産物ではなかったのかということだ。とおんのはもっと貧にゅ… いや奥ゆかしいものように思える。だから、あの日見たのは俺の脳内で理想化された乳なんじゃないかと…… 本物を見れば、それが俺の想像だったのか、実際のとおんの乳をかたどったものなのかがわかる。
一度は断った危険な任務だったが、謎を解きたいという気持ちが勝った。決して興味本位や破廉恥な心でとおんの胸を見たいわけではない。俺はそんなゲス野郎じゃないんだ。
数日前に八木亜門の声は二階のカフェ・ヒールで密かに録音していた。店員とのやりとりを馬都井君が同じタイミングで入店しカバンに仕込んだ集音マイクを使ってだ。その時のやり取りは……
「いらっしゃいませ。いつもありがとうございます。おひとりですよね?」
「一人だ」
「お好きな席にどうぞ」
「ああ」
「ご注文は」
「本日のコーヒー、ホットを」
「ミディアムサイズでよろしかったですよね」
「ああ、それで」
「今日はご一緒にお食事とかは?」
「いや、結構だ」
「お待たせしました」
「チョコレートチャンククッキーというのはなんだね?」
「そうですね。クラッシュしたチョコレートの固まりが入ってまして、大麦のざっくりした生地の味わいが特徴ですね」
「君は食べたことあるのかね?」
「はい。お客様には少し甘すぎるかもしれませんね」
「あれ、お帰りですか。今日はお早いですね」
「やり残した仕事があってね」
「お仕事ご苦労様です」
「ちょっと待ってくれ、小銭がある」
「ありがとうございました」
録音したやりとりの中で、八木亜門のセリフは、
①「一人だ」
②「ああ」
③「本日のコーヒー、ホットを」
④「ああ、それで」
⑤「いや、結構だ」
⑥「チョコレートチャンククッキーというのはなんだね?」
⑦「君は食べたことあるのかね?」
⑧「やり残した仕事があってね」
⑨「ちょっと待ってくれ、小銭がある」
の九つあった。
それを、携帯のタッチ画面に1~9までのボタンに割り当てて最大の音量で再生するようにしている。筋書きは、⑧の「やり残した仕事があってね」というセリフを使った後は、②の「ああ」と⑤の「いや、結構だ」のYES・NOの返答で対応するという作戦だった。それ以外のセリフは使えそうにない。
『作戦の成否を決めるのは睦人の演技よ。おどおどしちゃダメ。毅然としてなさい』とおんが言った。
『わかってる。腹はくくってるんだ』
とおんのおっぱいのことを考えていれば、なにも怖くはない。
『始める……』そう言って、ドアを開ける手が小さく震えていた。ビビっているのではない。いい意味での緊張感、武者震いだ。
ケルビンデザインのオフィスは前に来たときと変わっているわけではない。入り口のすぐそこにカウンターのようなものがあって、来客はそこで対応することとなっている。カウンターの向こうに机や椅子が並んでいて、ケルビンデザインの社員、いや、その仮面を被った八木亜門の研究スタッフたちが数名いた。
一人が顔を上げた。
「あれ? 亜門様、お帰りになられたのでは?」
俺は⑧のボタンを押した。
「やり残した仕事があってね」カフェで録音した八木亜門の声が再生される。
「そうでございましたか。お疲れさまです」疑う様子もなく研究スタッフは自分の仕事に戻った。
『よしゃ、潜入成功よっ』とおんの声がインカムに響いた。
うーん、変装すげえわ……