第一話 書庫に女スパイでひゃうんっ!
もお、なんで昼休みに働かなくちゃいけないんだよ。めんどくせー。
いや、ファイルを書庫に取りに行くのを忘れていたのは俺が悪いよ。でも、どうせ教えてくれるんだったら、昼休み前ギリギリにじゃなくてもいいじゃん。気を効かせて十一時半頃にするとかさあ。あるいは「先輩、僕が取りに行きます」とか言ってくれたって。いや「実はもう取ってきてますよ」とかってうれしいサプライズがあってもいい。
カードになった認証キーをドアの機械に差し込んだ。昼休みの間は、書庫係から総務課に戻すことになっているもので、総務課の女の子に社員証を見せて借りたものだ。
「やあ、久しぶりだね」って言ったんだけど、きっちり社員証を求められてしまった。同期の飲み会でななめ向かいの席に座ってたから忘れられてるってことはないはず。照れてんだな。
ピー。ドアのロックが開いて、サーバーと書庫の区画へ入った。
あーあ、書庫に秘書室の女の子でもいねーかな。ほら、学園ものとかであるじゃん。図書室で同じ本に手を伸ばしてさあ「どうぞ」「いや君こそ先に」ぽっ、とかってシチュエーション。
「きみも、この見積書に興味があるんだ」「ええ、なんだか気が合いますね、わたしたち」二人きりのひんやりした書庫の温度が少しだけ上がった、なーんて。うふっ、うふふ。
……ねえな。見積書でどう話がふくらむっての。だいたい、今、昼休みだし。さっさとすませよ。
目的の書架のところまで行くと…… あれ? 先客がいた。しかも女子っ! こっ、これは『リアル放課後の図書室』かっ?
「ごめん、君、ちょっと、そこの棚見せてもらってもいいかな?」ゆるんだネクタイを締め直してイケメン役の声優みたいな声を作った。
「ひゃうんっ!」
ひゃうんって…… なんて学園ものなリアクションなんだ! かわい過ぎるう。天使が書庫に舞い降りちゃったか?
だが、振り返ったその女の子を見て、俺の方がひゃうんってなったのだ。
「うえっ!」
そのこは顔に覆面をしていた。細い帯状で銀色に輝く布の目のところに穴があいてて、古い映画に出てくる盗賊団のようだ。
銀のスパンコールが散りばめられた覆面で目の周囲は覆われ顔は見えないが、なめらかな頬や口元の形の良さが、見えない顔の想像をたくましくさせる。きっと美人に違いない。ただ、どれだけ美しかろうが覆面した人が書庫にいるというのは変だ。
「き、君、なに?」
すらりと伸びた手足、均整のとれた身体にぴっちりフィットした黒づくめのスーツも明らかにそこらのOLではない。
「……」
俺の質問に黙ったまま、彼女は顔にかかった髪をかきあげた。細い指で触れた覆面からスパンコールがこぼれて、キラキラ光りながら床へ落ちていく。
「ここでなにしてるの?」
「愚問ね…… 平穏な人生を送るには知らないでいたほうがいいこともあるんじゃないかしら」
冷たい言葉が柔らかそうな唇から発せられた。黒のスーツは光沢があって、身体の曲線にあわせて、照明の光が反射した。
「いや、でも……」
「あなたとは住む世界が違うのよ」
たしかに彼女の言葉も、全身から醸し出す雰囲気も危険な匂いを漂わせていた。
なにものなんだ、いったい?
目の前にある非現実的な光景に、それでも、俺は、これがどういうことなのか理解しようと努力した。住む世界が違う……
「あ! なるほど」
ははーん。そういうことね。
「あの、人の趣味に口出すつもりはないけど、基本、書庫は許可がないと立ち入り禁止だからコスプレとかは別のとこで……」
「コ、コスプレっ? なんでそうなるのよ!」
「いやいや、昼休みにどうしても、コスプレ魂が抑えきれなくなって、書庫でこっそり着替えて楽しんでたってことでしょ」
彼女はこう見えて、実はリアルの世界から遠く離れたところにお住まいなのだ。残念だけど、そんな放課後図書室的なうまい話がゴロゴロ転がってるわけがない。であれば、この妙にもったいぶったセリフ回しも理解できる。危険な匂いという俺の嗅覚は正しかった。関わっちゃいけないタイプの方なんだな。あぶない、あぶない。
「違うしっ! 誰がコスプレなのよっ」
「え? いやいやいや、別に恥ずかしがらなくてもいいから。むしろ、俺はそういうのには、理解があるほうだと思うよ……」
「恥ずかしがってなんかないっ!」
「え、ほんとにコスプレじゃないの?」
ということは……
彼女の覆面に黒づくめの姿は、映画のように美しく印象的ではあるが、しかし、まったくもって不審な人間だった。
「じゃ、あの、ひょっとして泥棒?」
「……いや、そうじゃないけど」
「じゃ、なにっ? そのかっこ」
「ん…… えっと、偶然、通りがかった……パフォーマー的な」
ま、まったく分からん。てか、セキュリティでロックされた書庫に偶然、通りがかれるか? どう考えても これは……
「違うってばっ。たしかに人の目を盗んで活躍する職業ではあるけど。泥棒じゃないからっ」
「人の目を盗んで活躍する職業……? なにそれ?」
「言えないわ」
「んじゃ、まさかとは思うけど正義の味方とか?」
覆面はヤッターマンに似てなくもない。
「おっ、少し近いわね」
正義の味方が近い。そういう世界観なのだな。なら……
「んー、じゃ、秘密結社のほら、フィーとか言ってる人。ショッカーみたいな?」そう、黒ずくめはやっぱ悪もんだよね。
「違うっ!」
「じゃ、怪人?」
「遠ざかってるっ! こんな可憐な怪人がいるっ?」
悪の秘密結社には女王様的な悪者もいたと思うが。いや、むしろドロンジョだろ。ということは……
「……やっぱ、泥棒だろ?」
「違うって言ってるでしょ!」
クイズ『私は誰でしょう』に正解するというチャレンジもいいのだが、そもそも、そんなクイズにかまけていていいのだろうか。この人、ほんとに怪しいんじゃないのか。
「もう、守衛さんに来てもらおうかな…… やっぱ怪しいし」
「ちょ、それは…… ぜんぜん、怪しくないからっ」
「え~?」
「怪しくないってば。ほんと。あ、もうコスプレでいいや。コスプレね。そう。あはっ、コスプレ、コスプレ。そうそう、スパイのコスプレなのよ~」
「えっ、スパイ?」
「はっ!」
覆面しているにもかかわらず、その女の子からは、やらかしたという空気がびんびん伝わってくる。
ほ、ほんとにスパイ。あれだ。これが噂に聞く産業スパイというやつなのか。
すげえ。なんだか、うちの社の格、ちょっと上がっちゃったよ。やっぱ、だてに東証に上場してるわけじゃないな。二部とはいえ……
「い、今のなし」
「なしとか言われても……」
「スパイなんているわけないからあ。あはは」
彼女の手に分厚い背表紙のファイルがあった。ひょっとして、今、企業秘密が他社に渡るっていう危機にあるんじゃないのか? スパイ…… いやいやそれはいかんだろ。かりにも東証上場会社(二部)の社員として企業秘密は渡せない。
「そ、そのファイル、そこにあったものだよね」
「え、いや、どうだったかしら。これは筋力アップのために普段から持ち歩いてるもので……ダンベル的な」
ぜったいに普段から持ち歩くってことはしないと思うのだが……
「大人しくそのファイルを返すんだ」
「いやよ」
「やっぱりスパイじゃないかっ」
「くうっ。あたしがスパイだと見破ったことはほめてあげるわ」
「見破ったって……」自分からネタバレしたのだと思うのだが……