第二章・知ってしまった世界 1
わたしの名前は大島桜彩。
一昨日の二十二歳の誕生日の朝、電車の中で将棋倒しになって、気がつくと……日本ではない「どこかの世界」に、トリップしていた。
着いた直後に暴行されそうだった寸前、助けてくれた汗臭い男性がいた。その人に連れられてきた、地下要塞で暮らしている。
助けてくれた男性は軍人で、階級は中佐、名前はリヨンという。彼の相棒が、ハズという軍用アンドロイドだ。
ハズは色々なことを教えてくれる。と言っても、ここに来て丸一日しか経っていないから、大したことは学んでいない。
「元の世界……どうなっているのかな。帰りたいな……」
ベッドに寝そべり、天井を見てつぶやく。
職場は大騒ぎになっていないだろうか……そんな考えが、ふと頭をよぎる。
わたしがいなくなって本気で心配してくれる人は一体、どれだけいるんだろう。指折り数えても、片手で足りるくらいかもしれない。
鼻の頭が熱くなってきた。
人差し指で鼻の下をさすり、ベッドから降りる。それから、シャワールームの鏡をまじまじと見つめた。帰りたくても帰れない、それなら少しでも明るく過ごさないと、だめだよね……。
この世界で知り合ったリヨンもハズも、わたしのことを心配してくれている。そういうこともあるけれど、元の世界に帰りたいと言葉に出すのは憚られた。
なんとなくだけど……私は他の兵士よりも優遇されているような気もしないでもないからだ。ううん、たぶん、かなり特別扱いされている。尚更、わがままは言えない。
部屋の中をうろうろ歩きながら、ビジネスバッグの中からスマフォを取り出す。
知らないうちに、電池が切れてしまっている。充電できないんだもの、しょうがないよね。スマフォに日付や時間が表示されていることって、今まで当たり前のことだと思っていた。
当然のことを当然として享受していた自分は、すべてが普通だと思っていた。
考えこめば考えこむほど、眉間に皺が寄りそうだ。
もう一度、のろのろとシャワールームに行き、顔を洗う。ふと鏡を見ると、ほんのわずか、顔色が良くなった自分が映る。
顔の腫れや擦り傷も、ここに来た当初よりもマシになってきたように思える。
そんな些細なことで、気分が良くなるのは不思議なものだ。なにか、いいことがあるかもしれない。あったらいいなあ……。
ぼんやりしながら髪を梳かしていた時だ。ノックの音がした。
「はい」
ゆっくりドアを開けると、そこにリヨンが立っている。髭を綺麗に当たっているせいか、頬がつやつやしていた。
「お、おはようございます」
わたしを見た彼は、目を細めた。
「変わりはないか」
とても穏やかな声の響きだ。
「はい、ありがとうございます」
リヨンはこちらの返事に、更にうれしそうに目尻を下げた。
「だいぶ傷が治ってきたね」
「はい……」
続けて、彼は何事かを話しかけた。なるべく、こちらが理解しやすいように言葉を選んで。
いつのまにか、わたしは相手の眼差しが揺れる様子だけを見ていた。話の内容そっちのけだ。声を出す度ごと、まばたきするごとに、長い睫毛が細かく揺れる。
うれしい……。
素直にそう思う。
かすかに頬が熱くなる。
リヨン中佐は、わたしを親身になって心配しているのだろう。昨夜も消灯前に、この部屋に来た。確か、その時も「変わりはないか」と言ったのだ。後ろにいたハズが通訳してくれたから、意味はわかったのだけれども。
わたしは首を横に振って、一生懸命に笑顔を作った。すると、今みたいに満足そうに目を細めて、頷いてくれた。
勝手な解釈だけど、こちらの些細な変化でも見逃すまいとしているようにも思える。
わたしは、どう反応していいのかわからず、途方に暮れているだけだ。
「サーヤ、わかった? 私の話を聞いていたかい?」
今にも笑いだしそうなリヨンの声に、我に返る。
「あっ? え? な、なんでしょう?」
焦って背筋を伸ばしたけれど、リヨンは片手を上げて去って行ってしまった。
「うー。失敗しちゃった……」
入れ替わりのようにハズが、何冊かの本を持ってやってきた。
ちょうど今、ハズが部屋に持ってきてくれた薄い本をペラペラとめくっているところなんだけど……。
字も細かいし、画像やイラストの類いも少ない。と言うか、ページの上に、びっしり蟻が並んでいるような感じなのよ。
こんなん、しょっぱなからハイレベルすぎる。
わたしは横にいるハズを見上げた。
「あのう……確かに早く、ここの言葉を覚えたい意欲はあるんですけれども」
「すぐに覚えられますよ」
軍用アンドロイドは爽やかな笑みを浮かべた。
「字が読めないのに?」
「ええ、すぐに、こういう本も読めるようになりますから。それよりも一日、ここで過ごしてみて、サーヤなりに感じた疑問などありませんか?」
「んーとね……」
彼はわたしの対面に座り、きらきらと目を輝かせる。
「まず、この世界の成り立ちが聞きたいな」
「ご説明します」
ハズはわたしをじっと見つめた。




