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第一章・通勤途中の人身事故で 7

「失敗した!」と思った。

 ずっと、のんびりした笑顔を浮かべていた軍用アンドロイドの表情が急変したのだ。彼の表情は、のっぺりと無機質なものになってしまった。

 ハズの眼だけが、くりくり泳いでいる。

 彼はリヨンの忠実な部下だ。多分、上司から色々なことを打ち明けられているにも違いない。おそらく赤いコンパクトにまつわることは、リヨンの「触れられたくない『なにか』」が隠されているのだろう。ハズはそれを知っている。

 わたしの軽はずみな好奇心は、親切にしてくれている人たちを傷つけてしまう……すぐに、そう思った。

 背中に大量の冷や汗が伝っていた。あわてて彼に向かい、両手を横に振る。

「あっ違うの! ただ思っただけだから! あんまり気にしないで! こっちも、二度と聞かないから……! ごめんね!」

 いつのまにか、調子に乗ってしまったのかもしれない。そう思って一所懸命、ハズに謝った。やがて彼の眼の焦点が合ってきた。

「まいったなぁ」

 ハズは自分自身を正気つけるように、片手で自分の頬を撫でさする。

「なにが?」

「いや……僕のキャパを超える質問を、まさかされるとは思ってなくて」

「どういう意味?」

 こちらの素朴な疑問に、彼は鼻の頭をぽりぽり掻いた。

「あくまでも軍用アンドロイドだし、女性のそんな感覚主体の発言は……ああ、喋りすぎたかもしれません。今の言葉は忘れてください」

 急にかしこまったハズの背後を、迷彩服の集団が通り過ぎて行く。

 リヨンの部下は軽く息をつき、手を動かして部屋に入るように促す。後ろ手にドアを閉めた彼を、あらためて見上げる。

「あのう」

「なんでしょう?」

「と、とにかく、ありがとう。それだけなんだけど……」

 泣きそうになるのを堪えた。ハズの温かい声が、頭上から聞こえる。

「僕の立場で言うのは変だと思うのですけれども……人は、生きているだけで、なんとかなるものです。色々なことがありますが、秒単位で忘れて前を向いた方が善いことも多くあるでしょう」

「そんなものかしら」

 彼は鼻声になったわたしを軽く覗き込み、頷く。

「とりあえずシャワーを浴びて、横になった方がいい」

「そうする」

 ハズは軽く手を振り、出て行った。わたしは、今日何度目かの大きなため息をついた。


 バスルームは想像していたよりも広かった。

 シャワーホルダーの横に、小さいながらも鏡が付いている。顔を洗っている時、この地下要塞に来た折りに遭遇した、負傷兵たちを思い出した。

 彼らを思うと、贅沢に湯を使うことは犯罪みたいに思えてくる。わたしは手早くバスルームを出た。

 髪を乾かしながら、リヨンの執務室で取り出した瓶を机の上に並べてみる。

 大きい瓶にはホホバオイルが入っている。マッサージをする時、精油を希釈して使うものだ。他の小瓶を、中身の少ない順番からホホバの右側に置いて行った。

 檜、ラベンダー、フランキンセンス、ティートリー。

 どれも昨日まで通勤していた会社で、サロン売上の上位を誇っていたものばかりだ。わたしの好きな香りの精油たちでもあった。

「たった四本しかないのかー」

 独り言をいいながら、檜の小瓶の蓋を開ける。

 こんなことになるなら、もっと社員販売で買っておいたら良かった。

「これが劇薬だなんて、笑っちゃうよね」

 そっと、枕カバーに振りかけてみた。これで熟睡できるはずだ。何気なしに壁を見る。二つあるフックにはハンガーが掛けてあった。そのうちの一つを、泥だらけのスーツ用に使わせてもらっている。

 わたしはベッドにもぐり込み、眼を閉じた。

 これからなにがあるのかは、わからない。この世界が、どうなっているのかもまだ知らない。自分のことなのに、まだまだ現実感が湧かない。

 ……今朝の出来事から順番に考えてみる。

 通勤ラッシュの殺気立った大勢の人に踏まれた痛みは、まだ生々しく体に残っている。それからリヨン中佐に助けてもらったことも。

 汗臭い迷彩服の胸元にぴったり押し付けられて、窒息しそうだったことも克明に思い出した。

「厳しそうだし無愛想だけど、いい人に助けてもらって良かった……」

 体を洗わせてもらったせいもあるのかもしれないが、リラックスしてきた自分を感じる。うとうとしているわたしの脳裏に、リヨンの無邪気な笑顔がちらついていた。

 とにかく、少し眠ろう。目が覚めてからのことは、それから考えよう。


 ――ドアのノック音で目が覚めた。ブラウスのボタンを直し、ウエストにシーツを巻きつけながら、おそるおそるドアを開ける。小脇になにかを挟んだハズが、トレイを持って立っていた。

「夕食ですよ」

「あ、ありがとう。こんな格好でごめんなさい」

「やっぱり、持ってきてよかった」

 彼は机の上にトレイを置いた後で、わたしを見て口元を緩めた。それから、脇に挟んでいたものを差し出してくる。

「我々と同じ迷彩服が、二着あります」

 丁寧にたたまれたそれは、新品に見える。わたしは手を出すことをためらった。

「こ、こんな綺麗なもの。まだ新しいみたいだし、わたしがいただいていいの?」

 ハズは軽く肩をすくめる。

「基地にいるのですから、着て当然です。あまり気にしないでください。夕食後、消灯時間までは自由に過ごして結構です」

「自由に……って言われても、なにをしていいかわからないよ?」

 軍用アンドロイドは「まあまあ」と、なだめるように片手を上げた。

「明日の朝からサーヤには、この世界の言葉や慣習を学習してもらいます。ある程度の言葉を覚えた時に、あらためて仕事が言い渡されるでしょう」

「リヨン中佐から?」

「そうです」

 彼の口調はきっぱりしていた。

 その響きに、この場所で生きていかなければならないことを思い知らされた。




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