第一章・通勤途中の人身事故で 6
リヨンの屈託のない笑顔を凝視する。厳しくて精悍な顔立ちが、打って変わって無防備そのものだ。
……まるで、ちっちゃい子供が笑ってるみたい。
またしても心臓がドキドキしてくる。同時に、体に火がついたように熱くなった。こちらにだって、男二人に聞いてみたいことは山ほどある。だが、それらの言葉が出てこない。
ひとしきり笑ったリヨンが椅子を立つ。彼はこちらを見たままで、幾分、口元を引き締めたように見える。
わたしは彼の動きを、瞬きもせずに見ていた。
リヨンは、諭すように話しかける。不届きな部下たちからわたしを救い、ぎゅっと抱きしめてなだめてくれていた時のように。
一拍置いて、背後からハズの声がした。
「部屋に戻っていてくれと、仰っていますよ」
「わかりました」
立ち上がり、リヨンへと赤いコンパクトとタオルを返す。彼は、なにか言いながら受け取った。
ぺこりとお辞儀をして部屋を出る。横にハズがついて来ていた。
「とにかく疑いが晴れて良かったですね。部屋まで、案内しましょう。ちなみに、さっきまでいた部屋よりも良いところですよ。リヨン中佐、直々のご命令です」
「そう……」
とりあえず二人とも、わたしがこんな物騒な世界の軍用スパイではないことは理解してくれたみたいだ。
やれやれ、と肩を下ろすと、隣を歩いているハズがくすくす笑う。
「なにがおかしいの」
思いっきり、恨めしい視線を投げてやる。彼は、こちらの真似をして肩をすくめて両手のひらを上にあげた。
「まあ、僕も中佐も、サーヤが『ここではないどこか』から来た人だというのは、わかりました。敵国のスパイではないということも」
当たり前じゃないの、と言いたくて、思わず大きく唇を開ける。すると、上唇がぺりっと裂ける音がした。
忘れていた。
自分の顔が、今どんな風になっているのかを。思い知ると同時、息を飲んで俯く。ひどく不細工になっているこちらを、リヨンたちは「ごく普通に」接してくれていたと知ったのだ。
ハズは俯いたわたしに素知らぬ振りをして、部屋の扉を開けた。
「今日から、この部屋でサーヤは過ごしてもらいます。あなたの処遇は今日中に、中佐と僕が相談して決めます。決定するまで、ゆっくり休んでいてください」
彼に黙って頷くと、向こうはわたしの顔を覗き込む。
「体の傷は、いつか癒えます。……中佐はあなたの『内面』に、重きを置いていたのではないかな」
「ありがとう」
ぐすん、と鼻を啜り、頭を下げた。
「サーヤの方が環境の変化に戸惑っているはずだ。中佐はあなたに『ゆっくり休みなさい』と言いました。そこは、生身の人間同士の方が通じ合ったと思うんですけれども」
ハズは目を細めて、わたしを見つめていた。
改めて彼に頭を下げ、案内された室内を見遣る。木製の机と椅子、向かい側の壁に備え付けのベッドがある。壁の色は剥き出しのコンクリートのような灰色だ。
正直言って、リヨンに尋問を受けるまで通されていた部屋と変わらないような気がする。あそこより、少し広く見えるくらいだろうか。
あんまり変わんないじゃない、そう言いかけたけれども止めた。
頭の奥、ここに来たばかりの時の様子……通路に大勢、たむろしていた怪我人の様子がよみがえったから。
そういえばリヨンがいた部屋も、必要な物以外はなにもない殺風景な部屋だった。
きっと、贅沢を言ってはいけないんだ。
わたしは頭を振って、ハズを見上げる。彼は口元を緩め、こう言った。
「奥の方には日本でいうシャワー室があります。けれども、湯を出す日は決まっています。今日は特別に、僕がこの部屋のバルブを開けますけれども、あまり使いすぎないようにしてください」
「えっ……?」
「体くらいは洗ってから寝たいでしょ」
そういうことか。彼らの気遣いに、あらためて舌を巻く。不意に、リヨンが持っていた赤いコンパクトを思い出した。
あの無骨な男に、赤いコンパクトは不釣り合いだ。彼らがわたしを助けてくれたことや、気遣いが半端ない理由が、あのコンパクトに関連しているような気がする。単なる女の勘だけど。
「どうしました?」
ハズが、心配そうにわたしを覗き込む。
「だ、大丈夫……。だと思う」
彼はこちらが頷くと、安心したようにリヨンの部屋へと歩こうとする。
この人、自分の言うべきことだけ言うと満足するタイプなのか。いや違う、人間じゃなくてアンドロイドなんだけど。
こちらも、少しでも彼らの情報は仕入れておきたかった。今後の付き合いもあることだし。
わたしは逃がすものかと、ハズの迷彩服の袖口を掴んだ。
「なんですか?」
「わ、わたし、あなた方のことをどうやって呼んだらいいの」
「ああ」
ハズの頬が大きくゆるんだ。アンドロイドのくせに、表情豊かなヤツめ。
「中佐のことですか?」
「あなたもよ」
「普通に『リヨン中佐』と、僕のことは『ハズ』で構いませんよ」
彼は楽しそうに、胸をこちらに大きく向けて見せた。
「わかった、じゃあ二人のことはそう呼ぶ」
「そうしてください。明日から、またよろしく」
ハズは人懐こい笑顔で、わたしに右手を差し出す。
「握手の習慣とか、どうして知ってるの?」
驚いたわたしに、彼は軽く頷いた。
「サーヤがびっくりするのも無理はないでしょう。ここはサーヤの世界とは違うけれども、あなたがいた世界からは、遠くもない未来だと思います。僕も中佐も、その存在を聞いてはいたけれども、まさか体感するとは思っていなかった」
「……なにを言っているのか、全然わからない」
ハズは吹き出し、すぐに生真面目な表情になった。
「いいじゃありませんか。僕たちにとってはサーヤの存在が『訳がわからない』。けれども目の前に、あなたはいる。逆から言えば同じことだ」
「まあ、そうね」
「夕食時、僕はまた、ここに来ます。その時、『互いの世界』の話もしましょう。お互いに善き話し相手になりそうだから楽しみです」
「もう一つ、聞きたいんだけど」
「なんでしょう」
「リヨンが持っていたコンパクト、あれはここにいる男性が皆、持っているものなの?」
瞬時にハズの顔から、笑顔が消えた。




