第一章・通勤途中の人身事故で 5
リヨンの座っている椅子の後ろには地図があった。海を表すであろう水色の中に、緑色で描かれた楕円形の大陸が浮かんでいる。その左下に、大小の島がいくつか描かれている。
一番大きな島に、赤い色で囲いが記されていた。
なんとなくだけど、その赤くふちどられた島にいるような気がする。
地図の上には走り書きのような文字が、いたるところに綴られていた。
ドアがすべて開いた途端、なぜかリヨンの眼差しに裸にされたような錯覚にとらわれた。地図を背にして座っている彼は、迷彩服を着ているせいもあってか逞しく見える。
体が固まったのが伝わったのだろうか、彼はわずかに口角を上げた。
それからリヨンは、わたしの机の前にある椅子を指し示す。
おどおどしてしまうこちらの背中を、ハズがぽん、と叩く。少しだけ緊張がほどけた。ぎくしゃくした足取りで指示に従う。そのあいだ中、リヨンは黙って、こちらを凝視していた。
なぜか心臓の鼓動が早まる。
危ないところを助けてくれた人ではあるけれど、それだけじゃない。今までに会った、誰とも違う雰囲気の男だった。
ただただ圧倒される空気の持ち主。決して、こちらを圧迫してくる雰囲気ではない。精悍さと高潔さが全身から滲み出ていた。
そんな男が、こちらを黙って見ている。
わたしは丸椅子に腰かけた後、リヨンの強い視線に耐え切れずに俯いた。思わず、膝の上に置いたバッグを眺める。
これからなにを聞かれるんだろう……?
彼が低い声でなにかを言ったようだ。ハズがわたしを覗きこむ。
「食事はおいしかったか? って聞いてますよ」
あわてて顔を上げ、リヨンの黒い瞳を見つめる。
「はい」
無表情な迷彩服の上官は表情を変えずに頷き、机の引き出しを開けて赤く四角いものを取り出した。そして立ち上がり、カーゴパンツのポケットから丸く畳まれたタオルを出す。
彼はわたしに言葉をかけながら、それらを重ねて手渡そうとしてくる。
う、受け取れ? ですか?
でも、いいのかな?
ハズがリヨンの言葉を通訳してくれる。
――「それで顔を拭いたらいい、と。中は鏡です」
あっ……。
そういえば今朝から今まで、鏡を見る余裕がなかった。スーツは泥だらけになっているのに、顔や髪まで気が回っていなかったことを思い出した。
相手の眼を見ながら素直に手を伸べると、顎を上げつつ鏡とタオルを渡してくれる。
その時、かすかに彼の乾いた指に触れた。
リヨンが大きな黒い瞳を、軽く細めたような気がした。
わたしの顔は、なぜか熱くなった。おまけに額から大量の汗が噴き出てくる。
「あっ、あ、ありがとうございます」
リヨンの顔を見るまでは不平不満や苛立ちでいっぱいだったのに。ぺこぺこお辞儀をしているわたしは、まるで上司に優しく諭されながら叱られている気分だ。
左の胸のあたりが、ちくちく痛んでくる。なんでだろう。き、きっと、さっき助けてもらったからに違いない!
わたしの頭の中で「ヒヨコの刷り込み」という単語がひらめいた。た、たぶんそうなんだよ。うん。
ごくわずかな、ほんの何秒かの間……正確に言うと額の汗が止まるまで、そして赤いコンパクトを開くまで、わたしは指先を震わせながら落ちつこうとした。
だが。
鏡に映しだされた自分自身の顔を見て、全身が凍りつく。
顔全体がむくんでしまっている。ぎょっと大きく見開いて鏡を見つめる泣き腫れた眼の上、額とこめかみに泥がこびりついたままで乾いており、片方の頬にもべったりと黒い土がはりついている。顎と頬にいくつもの細かい裂傷があった。上唇にも裂傷がある。傷の中に細かい土が入り込んでいるのも見える。唇が大きく、ひん曲がっていた。道理で食事が取りづらかったわけだ。
まとめていた髪は、もちろんバサバサだ。シュシュもヘアピンも失くなっていることに気がつく。
「こ、こんな……」
こんな惨めな顔の女、迷彩服の男たちが凝視するはずだ。屈辱以外の何物でもなかった。
リヨンのくぐもった低い声を、ハズが通訳する。
――「早く、泥だけでも拭けばいい」
なんだってこんなことに。
連続して起こった理解しがたい出来事と、どうすることもできない歯がゆさに鼻の頭が熱くなった。次から次へと涙が出る。
対面にいるリヨンがハズを呼び寄せたらしく、二人の短い会話が聴こえてくる。タオルを顔に当てたわたしは、黙って彼らの言葉を待った。
やがて部下が目の前に膝をつき、顔を上げる。
「理解してください。僕も中佐も、あなたが敵国のスパイではないという確信が欲しいんです」
滲む視界の中、ハズを見据えた。
「なにが聞きたいの」
その問いに彼は答えない。その代わり、対面からリヨンの声がする。
わたしは顔を上官へと向けた。
「こんな女にスパイとか、できるわけないじゃない! なんでもいいから、早く元の世界に返してよ!」
ハズが膝をついたまま、こちらの言葉を相手に伝えたらしい。聞き届けた上官は、眉をひそめてわたしを見つめた。
続けて彼は大きく息を吸い、唇を開く。
リヨンから発せられる知らない言葉を、彼の部下が通訳してくれる。
「……あなたが、あそこに倒れていた経緯が聞きたいそうです」
わたしは対面にいる男を見据え、大きくため息をついた。
正直に言えば、元の世界に返してくれるの? 返せる手段とか、あるの? ……本音では、そう言いたい。とりあえず、身の安全だけは確保しなくては。
「逆に聞きたいわ。わたしが正直に話したら、あなた方はわたしを守ってくれるの?」
ハズの通訳の後、上官は唇を軽く引き結んだ。なにかマズいことでも言ったかな、ヒヤッとしたと同時、リヨンが軽く頷いた。それからハズに一言、告げた。
――「リヨン中佐は『きみ次第だよ』と仰っていらっしゃいますよ」
きみ次第、って言われても……。
ふてくされそうな心の内を、ぶちまけてやりたかった。でも、ここは我慢だ。とりあえず形式的にでも、言質は取ったということで納得しよう。
この先、いくらでも不満を吐き出せる機会があるかもしれない。
わたしは思い直し、そしてなにかを諦めた。
「大したことはないのよ? 普段通りに仕事に行こうとしていただけで」
ハズが手を軽く上げ、こちらを遮る。
「仕事? サーヤは仕事をしていたのですか?」
「ええ」
「では、その仕事の内容も教えて欲しいです。まずは、あの場所に倒れていたことから」
「わかったわ」
包み隠さず話した。こちらの話をすべて納得されなくてもいい、とにかく自分はスパイじゃないんだと訴えたかった。
災難続きなのに、おまけに軍事スパイ扱いされるなんて。あまりにもひどすぎる。
二人の男は熱心に、こちらの話を聞いている。時折、リヨンの左の眉が、かすかに上がった。ハズはこちらの臆する気持ちを汲むように、一生懸命に上官に伝えてくれている。
「……で、目が覚めた時に、集団で襲われそうになったのよ」
一通り話し終えたところで、リヨンが大きく頷いた。ハズが彼の言葉を待ち、わたしへと向き直る。
「荷物の中を見せてください」
二人の男の視線は、わたしの膝の上に乗っているビジネスバッグに向いていた。黙ってリヨンに向かって差し出す。
リヨンは顔色も変えずに、バッグの中身を机の上に並べていく。
定期入れ。化粧道具。スマフォ。財布。名刺入れ。メモ帳とボールペン。
ひとつひとつ丁寧に並べていく彼の指は長く骨ばっている。ほどなくしてリヨンは怪訝そうな顔をして、いくつかの茶色い瓶を取り出して並べた。
大きめの瓶が一つ。それより、ふた回りほど小さめの瓶が三つ。中には液体が入っている。それぞれの瓶には、小さなラベルが貼られていた。
「なにかの劇薬ですか?」
ハズの不思議そうな声に、肩をすくめた。
「全然、そんなんじゃないです。勤めている仕事にも関係してくるんですけれども」
対面にいる上官の左眉が、わずかに動く。
わたしは小さい瓶のうちの、一つの蓋を開けた。そして、リヨンへと手渡して言った。
「匂いを嗅いでみてください。劇薬なんかじゃないって、すぐにわかるから」
言われた通りにしてくれた彼の目が丸くなり、なにかをつぶやく。それから、部下に向かって安心したような笑顔を見せた。ハズが上官の言葉をわたしに伝える。
「いい匂いだね、と仰っていますよ」
「ありがとう」
素直に礼の言葉を口にした。通っていた職場は精油の輸入会社だったのだ。リヨンに差し出した瓶の中身は、檜だった。
職業の説明をしていると、ハズが途中で遮る。
「精油、とは?」
「アロマテラピーという、医療分野に用いるものです」
上官の口元が「医療」という単語を翻訳された時、わずかに緩む。わたしはリヨンの表情を見て、かすかにため息をついた。
「どういう使い道があるのですか」
部下の質問は、至極当然のものに思えた。なにしろ世界が違うのだから。
「芳香や、マッサージに」
男二人の目が丸くなる。
そんなに驚くほどのことだろうか。一体、この世界の「マッサージ」って、どんなものなんだろう。
「い、一応。研修で習いましたよ? ともかく、これでスパイの疑いは晴れましたよね?」
こちらの問いに、リヨンとハズが顔を見合わせる。二人はいくつかの言葉を交わし、ほどなくしてリヨンがわたしへと向き直った。
ハズは、こちらに話しかけてくれる。
「とりあえず我々の聞きたいことは、すべて済みました。サーヤは、なにか要望はありますか?」
わたしは大きく肩から力を抜いた。
「疲れました。眠いです」
聞き届けたリヨンが、愉快そうに笑った。




