第一章・通勤途中の人身事故で 4
わたしは、木製の机の上にある料理とハズを交互に見て言った。
「まさか毒とか入ってないよね? 睡眠薬とか?」
彼は途端に、大声で楽しそうに笑い出した。
「あはは! サーヤは愉しい人ですね、あははは!」
「なっ、なにがおかしいのよ」
朝から踏んだり蹴ったり……いや、踏まれたり蹴られたりと言った方がいいだろう。
若い男の集団に暴行されそうになるわ、なんだかわからないうちにこんな部屋に入れられるわ、たまったものじゃない。腹が立つのも当然だ。
ムカムカしていると、ハズが頬をゆるませながら私の顔を見つめた。
「失礼しました。疲れたり空腹の時に、こんな風にされたら確かに疑ってしまうかもしれませんね」
自分自身、本当はわかっている。単に、言葉が通じる相手に対して八つ当たりしているだけだってことくらいは。
でも今は素直に謝りたくない。
彼はこちらの気持ちを見透かすように、にこにこしながらトレイを覗いた。
「同じものをリヨン中佐も召し上がっています、なにも心配はありません」
ドアを閉める前、ハズはふたたびわたしに話しかけた。
「食事が終わる頃に、もう一度まいります。その後、中佐と僕とで、なぜサーヤがあの場所にいたのか、事情を聞かせてもらいます。よろしいですね」
結構です、遠慮しときます、って言っても力づくで尋問されそうだ。わたしはリヨンの無愛想な顔と、一瞥しただけで屈強な男たちを従える雰囲気を思い出した。
「わかりました」
煮るなり焼くなり好きにして。
ここまで来たらヤケクソだ、わたしは心の中で彼ら二人に毒づいていた。とにかく言葉だけでも従順さを装うことにしよう。
ハズは「にいっ」と唇の端を上げ、金髪をかきあげながらドアを閉める。
改めて、彼が持ってきてくれた昼食らしきものを眺めた。日本で食べていた料理とあまり変わらない。ちなみに箸はない。トレイの右脇に大きめのフォークとスプーンがあるだけだ。
「いただきます……」
胸の前で両手を合わせ、お辞儀をしてから手をつけた。ポテトの冷製スープ、野菜サラダ、鶏肉と人参のソテー。レーズンのパン。
気のせいか少し口が開けづらい。少しずつ緊張がほどけてきたせいか、改めて体中の痛みが増した。正直言って、食欲はない。
けれど、頭の中のもう一人の自分が告げた。
次に、いつマトモな食事にありつけるかわからない。もしかしたら、これが人生最後の食事になるかもしれない。だったら、文句を言わずに食べることに専念しよう。
結局、目の前にあるものを全部いただいてしまった。トレイの上には青磁器に見えるポットがあり、中はブラックコーヒーが入っていた。
お腹がいっぱいになると、体の痛みが少しだけ軽くなったような気がした。
さっきハズが言ってたことは本当かもしれない。人はお腹が空いている時、余計に悲しくなるって。
「あっ、でもコレってタダじゃあ……ないよねえ?」
ベッドに腰かけてコーヒーを飲んでいる時、急に不安になってきた。まあ財布の中には、諭吉さんが二枚は入っているはずだ。
「でも、ここじゃ通用しないとは思うけど。両替みたいなの、あったらいいんだけど」
バカバカしい。無銭飲食って責められたら、その時はその時じゃん。
リヨンや部下たちが、わたしを見つけた場所に放りだせば済むことだ。それで、この人たちの煩わしいことが一つ消えるんだからいいじゃないの。
自分で自分の考えがマヌケすぎて、またまた、しんみりしてきそうだ。気をまぎらわせようと思い、ジャケットのポケットからスマフォを取り出す。時刻は十二時半を指している。
ネットは案の定つながらなかった。地下だから、という理由ばかりではないだろう。
それに、この世界でスマフォを充電させてもらうことは無理な気がした。少なくとも電池が切れるまでは「日本時間」を感じることができる。
ふたたび思い知った。
――ここは日本じゃないんだ。今まで過ごしてきた「日常」には戻れそうにないんだ。
黒のスーツは泥だらけになっている。それが余計に自分の惨めさを際立たせた。
くすん、と鼻を鳴らした時、誰かがドアをノックした。顔を上げると、ハズがにっこり笑っている。
「どうやらサーヤの食事には、毒は入ってなかったみたいですね」
「あっ、ご、ごめんなさい。ごちそうさまでした」
あわてて礼を言うわたしに構わず、彼はトレイを持って手招く。
「サーヤがここに持ちこんだもの、一緒に持ってきてください」
ビジネスバッグと傘のことだろう。素直に従うことにした。
わたしたちは無機質な長い通路を歩き、いくつかの部屋の前を通りすぎた。ハズが赤い色のドアの前で立ち止まる。
「少し待っててくださいね」
こちらに軽く断りを入れると、彼は一人でトレイを持ってドアを開けて入る。すぐに手ぶらで出てきた。
「ここは食堂みたいなところなんですか?」
「ええ、まあ」
それからほどなくして、ハズは真っ黒なドアの前で立ち止まり、壁に取り付けてあるインターフォンのボタンを押した。
リヨンの声が聞こえてきた。
ハズがなにごとかを返事をした。ごとん、と音がして両開きの自動ドアが開く。いつのまにかハズが、直立不動で敬礼の姿勢を取っていた。
部屋の一番奥のスチール製の机がある。そのまた奥の、入口と対面になる位置にリヨンが座っている。
無表情なリヨンはわたしの顔をじっと見つめつつ、ハズに一言なにかを命じた。それを受けた彼が、日本語でわたしにささやいた。
「僕はサーヤと中佐の通訳になります。正直に答えてくださいね」
正直もなにも。あんたら怖すぎだよ。
まるでテレビ番組「警察密着24時! 刑事が犯罪を供述させるテクニック! 怒鳴ると怖い刑事と優しい刑事は実はペア」そのものじゃん!




