幕間・二 開かれた扉
壕を作るよう、部下たちに命じていた。敵軍が島に上陸するのは時間の問題だろうと考えていた。いつ皆の住居として使用している要塞が、破壊されないとも限らない。万一に備えてロードレ人民の避難壕だけでなく、軍が使用する壕を一箇所でも多く作ることが急務であったのだ。それらを地底で結ぶ通路も含め、なるべく多くの安全弁となる場所を確保しておくこと。
ひとりでも多くの部下を生かすことにもつながるなら、思いつくことはなんでもしておきたい。そう遠くない将来、ルーンケルン国民たちも避難してくるかもしれない。であれば、できるだけ「避難所」となる地下壕は多い方がいいに決まっている。
あの夜は管理者として、立ち会っていた。
夜間作業者と早朝作業者の交代時間からほどなくして、女性の悲鳴が聞こえた。
ここからさほど遠くない場所だろうと直観する。交代にあたる兵士の幾人か、疲れ切った顔を見合わせる。
一番年下の兵が、まっすぐにわたしを見た。
「中佐、今の声は」
鷹揚にうなずいてみせた。
「もしかしたら島内に生存者がいるのかもしれない。行ってくる。きみたちは作業を続けて」
言ったあとで後悔した。生存者? この激戦地から逃れて生きているだって? 自分自身の言葉が白々しく聞こえるのは、こんなときだ。
いや、もしかしたら元々の島民女性が避難をいやがって逃亡しつづけていたのかもしれない。それが、たまたま今、誰かに見つかったのかもしれない。
「お言葉ですが機関銃を」
「わかっている」
前夜からの雨のせいで地盤がゆるみ、壕を掘るにも一苦労だった。体力ある兵士たちとはいえ、皆が疲弊しているのは一目瞭然だった。数十センチ掘り進めるだけで、虫や泥が大量に体中にへばりつく。そんな作業を終えて地下要塞の寝床に帰ろうとしていたときに、聞こえた女性の声だった。
敵軍の攻撃から、命からがら逃げ延びていた人であってほしかった。それ以上に、妹のマリーであってくれたらいい、と思う気持ちもあった。急ぐ視界に入ってきたのは、細く白い脚をバタバタさせている人間と我が軍の迷彩服集団だった。
「貴様ら!」
なりふり構わずに飛びかかっていた。わたしに殴りつけられ驚嘆し、ひるんだ部下たちの頬を張る。すると、怒号を聞きつけた兵士が何人か集まってきていた。
駆けつけてくれた部下たちは、わたし以上に殺気立っている。皆が、こちらの心情を知っていたのだろう。逆に、女性を暴行しようと企てた者たちは、つい最近、生活のために入隊した青年たちばかりだった。
わたしは部下たちに、規律を乱した者を然るべき場所に連行するように命じた。ふと視線を地面に移すと、長い黒髪をひとつに束ねた黒い上着の女性が、這いつくばってこの場所から逃れようとしている。
泥まみれであったが、はじめてみる服装だった。肩からは大きめなバッグが下げられている。放っておいたら、体から離れてしまいそうにも見えた。あんなもの、女が使うものなのか?
そしてなにより、めくれあがったスカートから伸びている真っ白い脚に目を奪われた。逃げようと意志を持った女性の姿は不様だった。もしもマリーがこんな目に遭ったら……と考えると眩暈がする。
と、同時に、ひとつの考えが脳裏をよぎる。
この女は敵か味方か。
通信兵からは、本国から援軍となる兵士や物資が来るなどと聞いていない。であれば敵国からの手の込んだ潜入なのか。
威嚇のためにも銃口を彼女の頭上、ほんの数センチ上方をめがけて深々と大地に刺した。
「きゃっ」
かすかな声が聞こえる。女性は怯えきって息を止め、全身をすくめた。抵抗する気はないらしい。
わたしは女性の体を引き上げようとした。彼女はこの世の終わりのような悲鳴を上げ、駆け出しそうに体をよじる。どうやら悲鳴として発せられる言語は、今わたしが生きている世界のものではなさそうだ。
だが女性を、逃がしてはならない気がした。自然と力を込め、女性の体を抱きしめている。
「マリー、落ち着いて」
わたしは自分の唇から出た言葉に驚いた。相手は必死で逃れようとしている。妹は幼い頃、水浴びが嫌いだった。それを抱きしめながら世話をしてやったことを思い出す。
やわらかい、と思った。そして、まずは彼女を落ち着けようと試みた。
「わたしは襲わない」
彼女の全身から、ほんの少しだけ力が抜けた。わたしも同時に、力をゆるめる。泥まみれになった顔。泣き腫らした赤い目。頬や唇についた複数の裂傷。それらが勢いよく、視界に飛び込んでくる。
赤くなった両目は、ぱちぱちと不安そうにまばたきを繰り返していた。
「襲わない」
言いながら身を離す。一瞬、瞳が心もとなげに揺れた気がした。その表情は、どことなく懐かしかった。
「安心しろ。きみを強姦しようとしていた連中は、全員が処罰の対象だ」
彼女は重たそうなバッグを地面に下ろし、両手のひらを空へと向ける。それから、ぼそぼそっとなにかを言った。
わたしの言葉が彼女に通じないように、彼女の言葉もわたしに通じていない。しかしながら、興味深い。言語が通じないなりに、コミュニケーションは取れそうな相手だと思えたからかもしれない。
向こうは不安いっぱいの雰囲気を漂わせているが、わたしを脅威的な存在とは考えていないように見えた。
わたしたちは似た者同士なのかもしれない。そうではないのかもしれない。
いつになくナイーブな感情に襲われる。それを否定するためだけに、軽くかぶりを振っていた。




