第一章・通勤途中の人身事故で 2
わたしをがっしり抱きしめている汗臭い男は、低い声でなにか言っている。
意味はわからないけど、安心してもいいのかな。
そう感じたら、急に左手にさげているビジネスバッグが重たくなった。それに、わたしの鼻も口も男の胸板でふさがれているから呼吸困難になりそうだ。
体の力を抜く。すると男は、わたしの髪の毛を撫でたり話すのをやめた。そして、ため息をつきながら腕を離した。
見上げると二十センチほど上に男の顔がある。
ライトブラウンの短く刈った髪、広い額、削げた頬には擦り傷がいくつかあった。意志の強そうな太い眉の下は、ぱっちりした二重の黒く大きい眼だ。少し分厚い唇の奥に、真っ白い歯が見える。迷彩服の胸ポケットに、小さく光る金色のバッジがあった。
男はわたしを見据えて顎の無精ひげをさすりつつ、整った唇を動かしてなにか言う。
やっぱりなにを言っているか、まったくわからない。
だから一旦、バッグを地面におろして両手を広げ掌を上向きにする。
「ごめんなさい。なにを言っているのか、さっぱりわからないです」
彼は首を振ったわたしを、ふっと鼻で笑った。それから「そちらを見ろ」と言いたげに、首を後ろに動かした。
わたしに襲いかかった若い迷彩服の男は全部で五人いた。彼らは、一人づつ、同じような迷彩服の男と手錠でつながっている。
捕らえてくれている人たちは皆、背が高く屈強だ。汗臭い男に向かって、直立不動で立っている。
唖然として、屈強な男たちを眺めた。彼らは微動だにもせずに汗臭い男を見つめている。この男が、迷彩服集団の上官だということは直観できた。
下手に刺激したら、再度の身の危険を味わうことになるかもしれない。もう二度と、怖い目に遭いたくなかった。
「ねえ。もしかして、安心して、って言ってたの?」
身の危険を助けてくれた男の眼を見つめ、掌を上に向けたまま肩を落とす。彼はわたしを見つめ返し、大きく頷いた。
ジェスチャーは通じるみたい。ちょっとだけ安心。
でも、ここって一体どこなんだろう? 言葉は英語でもないみたいだし……。や、英語だとしても全然わかんないんだけど。
不安な気持ちでいっぱいになった。周りを改めて見渡してみる。
「わ……」
足元には舗装が剥がれて赤い土が見える道路が、どこまでも続いていた。右手には石造りなのだろうか、二階建の白い建物がいくつも並んで見える。けれども全部、屋根から半分以上が崩れているものばかりだ。どの建物も、土気色の内装が剥き出しになっていた。
左手を見ると青い海が広がっている。海の手前には、道幅を広く取ったコンクリート造りに見える堤防があった。海沿いの道のどこかにいるんだろう。……呆然としたわたしは、気が狂いそうになる一歩手前で唇を噛みしめる。
さっきから、不思議と現実感がまったく湧かない。体中が痛いことと、暴行を受ける寸前だったことは本当だ。それを助けてくれた汗臭い男は、わたしの様子をじっと見ていた。
「教えて。ここは、どこなの?」
彼は首を横に振り、わたしに手招きをした。
ついてこい、って言うことなの?
一瞬、わたしは考えた。どうやら会社に行けそうにないことも、ここは日本じゃないこともわかった。だけどとにかく、疲れている自分がいた。この人はわたしを危険から守ってくれて「ついてこい」と言っているみたいだし、どこかに落ち着いて座りたいとも思う。
明日になったら、この人もわたしに襲いかかってくるかもしれない。
結局、男へ無言で頷く。
どうせ殺されちゃうなら、この場所じゃないほうがいいや。誕生日に殺害されて、おまけに路上に放り出されたままとか洒落にならないよ。
やけっぱちになって、男に向かって「わかったわ」とつぶやいた。それを聞き届けた彼はわたしに頷き、地面に突き刺していたライフル銃の長い銃口を引き抜く。
なんかもう、いちいち驚く気もしない。
……映画の世界ですかコレ。
男はライフル銃を肩にかけつつ振り向き、自分の命令を待っている部下たちになにかを言った。その人たちは男とは逆方向に歩き出して、わたしの視界からは消えていく。
今、海沿いの広い道をまっすぐに歩いているのは、わたしたち二人だけだ。
体中が痛みだした。頭のてっぺんから両足首まで、大勢の人に踏まれていたから当然か。顔もヒリヒリ痛み出してくる。
汗臭い男は時折、立ち止まって雲の動きを見ていた。
朝、家から出てきたときとは正反対の青空と、ところどころ舗装がはげた路上を照りつける太陽がまぶしい。
目の前には痩せてはいるが、力強い足取りの迷彩服の男がいる。
今は、この人についていかなければならない気がした。それだけが、現実を受け入れられない自分の拠り所のように思える。
せめて、この人は悪人じゃない、と思いたいんだけど……。泣きたくなった時、男が急に振り向き、手招く。
「ん?」
彼は首を傾げたわたしに口角を上げただけの笑みを浮かべ、三歩ほど横に移動した。そこには地面の直径1メートルくらいのマンホールの蓋がある。彼はそれを指した。
「ここの中に入るの?」
マジで? 狭いじゃん! パンプス脱げたらどうしよう。
ぎょっとするわたしを見ることもなく、男がカーゴパンツのポケットから無線機みたいなものを取り出して、なにか言う。すると、するすると蓋が横にずれた。ほの暗い空間を覗くと、金属製のハシゴが見える。
男が顎をしゃくって、「先に降りろ」と促す。
「え?」
思わずたじろぎ、身構える。
彼は「安心しろ」と言いたげに、自分の胸板を親指でつついた。
「リヨン」
この人の名前? こちらも名乗らなくちゃだめかな。まあ、なんでもいいや……。
「桜彩」
「サーヤ?」
うん、首を縦に振ると、リヨンと名乗った汗臭い男は目尻を下げる。そして今度は「俺についてこい」と言うように自分から地下に向かう階段を降りはじめる。
この下に入ったら、二度と「現実の『自分の』世界」に帰れなくなるような気がする。
戸惑っているうちに、リヨンの姿がどんどん見えなくなってしまう。もしも、また地上にひとり残されたら、また誰かに暴行されるかもしれない。
想像するだけで地下へと向かうハシゴを見ながら、くらっとしそうになる。やがてリヨンが大きな声で「サーヤ!」と怒鳴っているのが聴こえた。
ほの暗い空間の下方から響くリヨンの声は、とんでもなくエコーがかかっているから余計怖い。モタモタしていたら、屈強な男の集団がわたしをつかまえに地下から飛んでくるかもしれない。
覚悟を決めて身をかがめ、バッグと傘を持ったまま、ハシゴをおそるおそる降りていった。




