第三章・変化していく 4
つくづく思う。なんと簡素な部屋なのだろう。
配置されている物と言えば、リヨンの使う木製の机。そして、真向かいにあるテーブルセット。折り畳み式の椅子も木製だ。どれもみな、華美な造りではない。
隙間なく壁面に貼られている地図や大量のメモは、そのまま、ロードレ軍の抱える苦悩を表しているようだ。
あらかた言いたいことを吐き出したせいか、不意に鼻頭が熱くなってきた。
泣きそうな顔を見られたくなくて、下を向いたとき。
リヨンのささやくような、低く優しい声がした。
「……サーヤ」
「はい」
「顔を上げなさい」
「はい」
まっすぐに、わたしを見ている。
「わたしは『次の食事までに、ハズと一緒にきみができそうな仕事を考える』と言ったばかりだが……ひとつだけ、聞いておきたい」
「なんでしょうか」
リヨンは少しだけ言いあぐねた様子で、前髪を直した。
「もう一度、きみの言葉を確認したい。本心から『ここにいる兵士たちのために、できることをしたい』のか、それとも、わたしとハズの手伝いがしたい、のか。どちらなのかな?」
もしかして最終的な意思確認なのかな。わたしのこと、心底から考えてくれているのかな。大勢の兵士を率いる立場で、更に余計なことを抱えてしまったかもしれない。
「素直な気持ちを言いました。ですから、あなたが決めてくれたことに従います」
「そうか」
リヨンはわたしを見据えたまま「ほうっ」と小さくため息をついた。合わせて揺れた喉仏が、妙にざらざらして見える。
「『ニッポン』だったか、そこにいたときにマッサージの仕事をしていたと言っていたな」
「ええ」
途端、彼の視線が逸れてハズの方へと向く。頬が軽くこわばっているように見えるんだけど。
「ハズ、マッサージの意味は」
問われたハズは、ほんの少し戸惑ったような表情を浮かべた。リヨンがなにを言いたいのか、わたしにも図りかねる。
「え、ええとですね……」
一方ハズは、わたしとリヨンを交互に見比べ、やがて思い切ったように言葉を継ぐ。
「サーヤのしていた『マッサージ』の意味は、こちらでは生殖活動やそれに類する行動も含むんですよ。リヨン中佐からは言いづらいでしょう」
聞き届けた直後、わたしは足元から崩れ落ちそうな感覚に襲われた。この人たちは、わたしのことをそういう生業の女性だと思っていたのだろうか?
体中から血の気が引いていく。いましがた私自身がリヨンとハズに訴えた言葉の数々、変に誤解されたらたまったものではない。
「ハ、ハズ? い、今、なんて?」
ハズは、こちらの視線に蹴倒されたのか。軽い後ずさりをした。そして、あわてた様子で片手を顔の前で振った。
「ぼ、ぼくたちはサーヤが、そんな淫乱な仕事に就いていたなんて思ってませんよ。あっ、もちろん、そういう仕事に就く女性をとやかく言うつもりはありません」
わたしは顔を上げ、机越しにリヨンに詰め寄る。
「リヨンも、そう思っていたの? 」
当の本人は、悠然と笑い顔を浮かべていた。わたしは彼らと出会ってからの日々、積み重ねてきた日々の情景が頭の中に散らばったままだ。
この人たちは、わたしをそんな風に思っていながら接していたのだろうか。もしもそうなら、こちらが申し入れた話もまるきり違ってくる。物騒だけど「女を、わたしを、バカにしないでよ?」とも感じた。
少しだけ、語気を強める。
「ねえ、リヨンもそう思っていたの?」
彼は首を横に振った。
「まさか。それはサーヤの誤解だ」
「本当に?」
へなへなと床に腰を落としそうになるが、リヨンの強い眼差しがそうさせない。
「はじめてサーヤに会ったときのこと、わたしは克明に覚えているよ? 無礼な兵士たちに襲われ、叫んでいたきみの姿だ」
さっきまでの態度と違うじゃないの、リヨン中佐。わたしの唇は勝手に動いた。
「じゃ、どうして『マッサージ』って言葉を、そんなにためらうの……?」
「あ、ああ。サーヤにはじめて会った時の情景と、その言葉が、あまりに不釣合いに思えたからね。わたしなりに、きみを観察する時間が欲しかったんだ。だが、今の、きみの言葉で確信に変わったよ」
「確信って?」
リヨンの唇が、かすかにためらう。
「……まだ、きみは子供なんだよ」
「こ、子供……?」
そうよ子供よ! と言いたいところをこらえ、彼を見返す。
中佐の肩書きを持つ無骨な男の頬と両の耳たぶが、赤く染まっていた。
「なにかが気に障ったか。であれば、すまない。わたしもハズも、きみに下世話な想像をし続けていたわけではないんだよ」
動揺を悟られないように、口元を隠したつもりでも。リヨンの声は、わずかに上擦っている。
なぜか急に、この人のことを可愛い……と思っている自分がいた。要は、わたしを処女だと言いたいのだろう。これ以上、こちらから問い詰めるのは酷なような、申し訳ないような心持ちになってくる。
だから、あらためて向き直った。
「リヨン中佐。今、ここで、わたしがしていたマッサージを受けてみませんか」
彼の顔が、ますます赤くなっていく。離れたところから一部始終を見ていたハズが、わたしたち二人の間に割って入ってきた。
「サーヤ、そんなに依怙地にならなくても」
わたしは右手を挙げ、ハズに向かって「にいっ」と口角を上げる。
「そんなこと考えていないよ。自分が少しでも誇りを持ってしていた仕事を、リヨン中佐に知って欲しいだけだから」
「……そうなんですか?」
無言でハズにうなずき、視線をリヨンに向けた。彼の耳たぶは、まだ赤味が引いていない。
「リヨン中佐。すみませんけれども、ブーツと靴下を脱いでください。そして、椅子に座ってください。足のマッサージをして差し上げます」
リヨンは一瞬、目を見開いた。黒く大きな瞳は、子供のような好奇心に満ちているようにも見えた。彼は観念したように、軽く肩をすくめる。
「もしも出動ベルが鳴ったら、すぐにブーツを履くよ?」
「はい。承知しています」
ハズがリヨンのそばに走り寄ってきた。ひざまずき、椅子に腰掛けた上官のブーツや靴下を、てきぱきと脱がせていく。
リヨンの素足が、わたしの目の前にさらされる。
「汗で臭うかもしれないぞ」
ぼそっと漏らした言葉を、笑って聞き流した。
「ちっとも気になりません。大丈夫です」
ハズが心配そうな声を、こちらに向かって掛けてくる。
「タオルで拭いたほうが、よくないですか?」
「大丈夫」
わたしは深呼吸をひとつして、あらためてリヨンの正面に膝をつき座り込む。
「では今から、はじめます。もしも痛かったら、仰ってください」
頭上からはリヨンの戸惑ったような声が聞こえる。
「ああ」
わたしは内心の鼓動を抑えきれずに、リヨンの足裏に触れた。あたたかく、やわらかい感触に、わたしの鼓動は更に早まる。
やわらかい土踏まずを丁寧にマッサージしていると、やがて、静かな寝息が聴こえてきた。
次回、日曜日に更新します。




