第一章・通勤途中の人身事故で 1
月曜の通勤電車は憂鬱と攻撃的な雰囲気に満ちている。しかも今日の未明から降り出した雨のため、蒸し暑さが加わって余計にいやな感じ。
それになにより濡れた傘の感触が、下ろしたてのストッキングにべたべたとまとわりつく。
大島桜彩、二十二歳。誕生日の朝がコレですかそうですか……。わたしは心の中で思いっきり呪いの言葉を吐き、眉をしかめた。記念すべき誕生日に、殺人的な混み具合の車両の中で、べったりと扉にはりついているのが現実だ。
赤いシュシュでひとつに束ねた長い髪が誰かに引っ張られたけれども、首を動かすこともできない。
定期券に示してある駅に着くまでは、どうせ乗客率200パーセントになる。降りるまで、あと何駅か我慢するしかない。
こんな時、身長が160センチあって良かったと思う。もしも150センチそこそこであれば、満員電車に乗るたびに酸欠状態になってしまうもんね。
カーブのたびに、車両も重たそうに揺れる。
大体、どの電車もこの時間は一番端の車両が一番混んでいる。わたしがいるのは最後尾の車両だ。
アナウンスが次の停車駅を告げてくれる。あっち側の扉が開いたら、その時に額の汗も拭えるかもしれない。……運よく、ホームに転がりだしたりしなければ、の話だけど。
外の景色が変わって行く。あと信号機を二つほど見た後で、扉が開くのだ、とぼんやり思った。停車駅のホームにも疲れた顔をしている人が、大勢並んでいるんだろう。そう思うのも、いつもと同じ日常だった。
だが。
――ギギギーッ!
いやな音がして、いきなり電車が停った。一瞬、車両中が静まりかえる。
えっ? と思って首を左右に動かすと、わたしの胸元に倒れかかった同じ歳くらいの女性が顔を上げた。ノーメークの額に汗が浮かんでいる。
彼女は、すまなさそうに目を伏せてから、こちらに話しかけてきた。
「ま、まだ駅じゃないですよね?」
「ええ、開きませんよね。扉」
電車は停ったのはいいが、いつまで経っても扉が開かない。
車内は当然のごとく、ざわめきはじめた。始発から座席に座っている人たちも目を開け、きょろきょろと車両内を見渡している。
ほどなくして電車の中に、車掌の声が響き渡った。
「只今、先頭車両において人身事故が発生いたしました」。
狭い空間が、たちまち不安気な表情と言葉で埋め尽くされる。腕時計を見る人、携帯電話を覗きこむ人、反応は様々だ。
遮断機の辺りで誰かが飛び込んだのだろうか。それにしても迷惑な。
アナウンスは「只今より救助活動を開始いたします。今しばらくお待ちください」と変わり、「ご乗車の皆様方には、車内にいらっしゃるのが最も安全ですので、車外に出ないようにお願いします」と続いた。
なんとかビジネスバッグを左手に持ち替え、額に伝ってきた汗を指先で拭う。男性の怒った声で「窓開けてくれよ」と聞こえた。
あわてたように座席に座っている人たちが後ろを向いて、がたがたと窓を開けはじめた。ほんの少しだが、ひんやりした風が入ってくる。
傘とバッグの重みで左の肩が痛い。せめて腕を動かせる余裕もないの? そう思って、外れかけていたスーツのジャケットのボタンを留め直すと……窓の外に、ふたりの駅員が持つ担架が見える。
ブルーシートから茶色い髪と靴が脱げた白く細い足首が、はみ出ている。
思わず凝視してしまう。電車の中でもわたしと同じように目撃してしまった人が会話を交わしはじめた。
「女の人みたいだね」
「ほんと……」
想像しただけで気分が悪くなってしまう。早く扉、開かないかな……と思った時、アナウンスの声が聴こえてきた。
「電車の外には出ないで下さい。出られますと復旧の時間が遅れます」
「ただいま、人身事故のため停車しております。運転再開は、八時三十分を予定しております。お急ぎのところ、ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。発車までしばらくお待ちください」
混雑した車内が、ふたたび険悪な空気になる。携帯電話で会社に連絡を入れている人が多い。
蒸し暑さと人あたりのせいか血の気が引いて、めまいがしてきた。
しっかりしなくちゃ。
今日は早番だ。一緒に当番の仕事をする同僚に、電話の一本でも入れたいのに。
なんとかジャケットのポケットからスマートフォンを取り出した。時刻表示を見ると、ちょうど八時半をさしている。
その時、電車の車両がガタンと大きく揺れたような気がした。狭い電車の車両の中、人がドミノ倒しみたいに崩れて行く。車掌のアナウンスが、乗客たちの悲鳴と入り混じって聴こえる。
「大変お待たせいたしました。ただいまより扉を開けさせていただきます。なお、この電車は……」
アナウンスが終わらないうちに、ぎゅうぎゅう詰めの人ごみが動いた。
誰かに突き飛ばされ、転んで膝を床についたのは覚えている。頬には冷たく濡れたリノリウムの感触。扉が開いた気配がする。だけど、目を開けることができなかった。体のあちこちを蹴られたり踏まれたりしている。
このまま誰かに踏まれ続けて死んじゃうのかなあ。
痛みの中で、意識が遠ざかる。あ、こんなふうに人の意識って飛んでいくんだあ………と、どこか醒めた感情を記憶していたのが不思議だった。
なにか硬い尖ったもので、肩口をつつかれているような気がする。うつぶせになっていたわたしの意識が戻ってきた。
「い、痛ったーい……」
ヒドイよあんまりだよ駅員さん。ゴミをつつくみたいじゃない? もう少し優しくしてほしいな。毎日利用しているのに。
ぐいぐいと右肩をつつき続ける尖ったものに答える前に、まずは両手をついて立ち上がろうとした。
掌の下の感触が、なんとなくじゃりじゃりする。目の下にある風景も電車の中じゃないみたい。わたしの脳みそは頭の中で「線路まで放り出されちゃったのか」と判断した。
「会社に電話しなくちゃ……」
両手を動かして上半身だけ浮かした時、尖ったものが肩から離れた。男の人の声らしきものが聞こえる。とにかく腰が痛い。
光の方へ顔を上げて起き上がる。すると、わたしの顔を高校生くらいの暗い迷彩色の服を着た厳しい目つきの男が五、六人ほど、しげしげと眺めている。
最近、救急隊員さんの制服は変わったのかな?
「あ、だ、大丈夫……だと思いま」
あれ?
なんか違う、ここ。駅のホームでも線路の上でもない!
目から入ってくる情報と、自分が予測できていた景色が違いすぎる! この人たち、救急の人でもないみたいだし!
あわてふためいて逃げ出そうとしたけど、男の人たちの目の色が、ますます厳しく変わる。目をそらすことができない。なによりも腰が抜けて立てない。
体中が痛い、でもなんとかしなくちゃ。
いざりながら後ろに動いたわたしの腕を、乱暴に一人の男がつかんで開こうとする。ばらばらと男たちがわたしの足首やウエストを押さえつけた。
もしかして襲われてる!?
「っ……! きゃああ!」
ようやく声が出た時、野太い怒声らしき男の声が聞こえた。一喝された彼らは一様に息を飲み、わたしから力を離す。
なっ、なんなのこれ……?
わたしはパニック状態のまま、今度は土の上を這って逃げることにした。あ、バッグ! スマフォは?
その時、耳元で、ばしゅっ、という音が聞こえた。顔に泥がはねてくる。
えっ?
頭の上を硬く細長いものが邪魔をしてる。これ以上は逃げられない。観念した時、ひじをつかまれ身を引き上げられたのがわかった。
「いやあああっ!」
逃げようと思ったけど、腰から上をがっしりと抱きとめられて動けない。すごく汗臭い! ……こ、この人、なにか言ってる?
叫びながら頭をぶんぶんと振り続けた。すると、がっしりと抱きしめてくれている人が髪の毛を撫ではじめる。
「え?」
もしかして「落ち着け」っていうこと? どうなってるの?




