愛しくて
これは、2、3年前にある作品をモチーフに勢いだけで書いたものです。データを整理してたらたまたま出てきたもので、あえて、手を加えずに載せてみました。
日常の中に潜む静寂。
時間の流れを静かに感じるとき。僕は、ふと彼女のことを思い出す。そして、僕の記憶の中にとどまる彼女を思うたび、僕は彼女に祈る。何を祈っているのか、自分でも分からない。それでも、僕は祈る。ただ、祈るのだ……。
深夜というにはまだ早すぎる時間だった。それでも、僕にとっては、夜の十時も十一時も、深夜、と呼ぶには十分な遅い時間だった。いつもは、夜の九時半にはベッドの中にいるのだから。
深夜の小学校。こんな夜遅く、学校に来たのは初めてだった。なぜ、九時半にはベッドの中にいる、模範的な小学五年生の僕が、深夜……と言ってもまだ十時を少し回っただけなのだが、夜更けの小学校に侵入するという、泥棒のような真似をしているのか。それは、一人の幼馴染のせいだった。
僕は閉じられた門の前に立ち尽くして、軽い身のこなしで、向こう側に飛びうつる真美の姿を呆然と見つめていた。
真美は、見事に着地を決めると、門の向こう側から僕に言った。
「何してるの。早く公平も来て」
「いや、来てって」
僕は自分よりはるかに背の高い門を見上げてから、門の向こうにいる真美に目を向けた。
「無理」
「なに言ってるのよ。あたしに出来るんだから、男の公平にも出来るって」
「いや、無理ですから」
「無理でもやって」
真美の声から、それはお願いではなく命令だと僕は理解した。長い付き合いだ。真美の考えなど僕には手に取るように分かる。僕は、仕方なく真美がやったように、真ん中あたりにある出っ張りに足をかけて、体を伸ばした。
ぎしぎしといやな音を立てて、門は僕を左右に揺さぶった。僕は思い切り腕を伸ばして、何とかてっぺんに手を置くと、一気に体を持ち上げた。
「そうそう、やれば出来るじゃない」
真美はパチパチと手をたたいて、門の上に見事のっかった僕をたたえた。
「うん、でもさ……どうやって降りればいいのかな」
「飛び降りればいいのよ」
「そうだね……」
僕は意を決して、門から飛び降り――わけもなく、てっぺんに手をかけたまま、恐る恐る体をまたがせ、慎重に足を門から下ろした。が、足は地上に届くわけもなく、僕は門につるされたまま身動きの取れない、ばんざいの体勢になった。そして、その体勢のまま僕は真美にアドバイスを求めた。
「どうやって降りればいいかな」
「手をはなせばいいのよ」
「そうだね……」
今度こそ意を決して、僕は命綱である僕を支える両手を門からはなした。そして、見事地面にしこたまお尻を打ちつけて、僕は着地に成功した。
「やれば出来るじゃない」
「どうも」
「じゃ、行こう」
「行くって、どこに?」
「夜の学校に忍び込んでやることといえば、一つしかないでしょ」
というか、忍び込むこと自体駄目なんじゃないのだろうか。とは口には出さず、僕は真美の答えを待った。真美は、分からないの? 駄目ねえ、とため息をついてから答えを言った。
「プールよ。プール」
「プール? 行ってどうするの?」
「泳ぐに決まってるでしょ、馬鹿」
「お、泳ぐって、何の用意もしてないのに……」
僕の苦情を無視して、真美はさっさとグラウンドを突っ切って、校舎の横にあるプールへと向かった。
「泳ぐなら泳ぐって、先に教えてくれればいいのに」
僕はため息をついた。
今夜十時、学校の前に来て。待ってるから。
夕飯を摂り終えたとき、真美は電話で僕に言った。そして、何も言い返すまもなく電話は切られた。待ってると言われて、無視をするわけにもいかなかった。それに、真美の気持ちを考えると行かないわけにはいかなかった。
長い付き合いだから――。
プールに着くと、真美はいつの間にかスクール水着に着替えていた。
「あ、水着、着込んでたんだ」
「まあね」
真美はそう言うと、プールに飛び込んだ。
バシャア、と派手な音を立てて、水しぶきは僕の顔を襲った。僕は、やれやれ、とプールサイドに腰を下ろして、真美の泳ぐ姿を見つめた。
真美はあっという間に、向こう側までの二十五メートルをクロールで泳ぎきった。そして、少しもペースを落とさないで、プールの中を何度も往復した。
「ふう」
真美は息を少し切らしながら、プールから上がった。気持ちよさそうな顔をする真美を、僕は黙って見つめた。
「何よ」
僕の視線に気づいた真美がぶっきらぼうに声を出す。
「いや、別になんでもない」
「そう」
真美はよいしょ、と声を出して僕の隣に座った。そういえば、こうして二人っきりでいるなんてこと、最近はなかった。真美の横顔を見ながら、僕はそう思った。
「きれい……」
「え?」
僕は真美の見上げる先につられて、顔を上げた。
「ほんとだ」
暗闇にちりばめられた、いくつもの光。雲ひとつないそこに見えるのは、数え切れないほどのきらめきだった。
僕は、後ろに手をついてそこを見つめる真美の横顔を見つめながら声を出した。
「明日だね」
真美は、そのままの格好で「うん」と呟いた。光に照らされた真美の横顔からは、悲しみの色も、不満の色も、何も感じなかった。
真美は明日転校する。そして、両親のどちらかと必ず離れて暮らすことになる。
「逃げちゃえばいいのに」
僕はぽつりと呟いた。それを聞いて、真美はクスっと笑った。
「そうね。逃げちゃいたい」
「だったら、逃げればいい」
それが無理なことは分かっていた。でも、僕には大人の事情なんて分からなかった。大人の現実なんてものも分からなかった。
真美は僕の肩をとん、ひじで小突いた。
「なによ、公平。寂しいの?」
「……当たり前だろ」
「馬鹿ね、学校が変わるだけよ」
「それでも、遠くに行くんだろ」
「そうだね。もう、会えなくなるかも」
僕は、真美を見つめた。真美も僕を見ていた。
「真美は、嫌じゃないの?」
「……嫌だよ」
「だったら、逃げればいい」
「駄目」
「どうして」
「だって、私に逃げ場なんてないから」
真美は、笑ってそう言った。
「だから、私は行かなきゃね……」
なんでだろう。なんで、こんなことになるんだろう。真美は何も悪くないのに。真美はそれを望んでいないのに。僕には納得できない。でも、真美の顔を見ると、何も言うことは出来なかった。
「ねえ、公平。自由ってなんだと思う?」
「え?」
「自由って、なに?」
からかうわけでもなく。おちょくるわけでもなく。真美の目は、まっすぐに僕を見つめて、答えを求めていた。
「どう、したの?」
「私の自由なんだって」
「え?」
「お母さんについていくか、お父さんについていくか。私の自由なんだって」
「……」
「なんだかなあ……」
真美は、ぐっと唇をかんで、天を仰いだ。
そんな真美、初めてだった。涙をこらえる真美なんて僕は知らなかった。
僕に初めて声をかけたとき、一緒に遊んでいるとき、友達とおしゃべりをしてるとき、僕と一緒にいるとき。真美はいつでも笑ってた。
真美は強いと僕は思ってた。
「真美だと思う」
僕は声を出した。
「え?」
「自由は、真美だと思う」
真美は、目を丸くして僕を見た。きらきらと輝いた真美の目には、僕はどんな風に映っているのだろう。
「自由が、私?」
「うん」
「なんか、よく分かんないけど……一応、言っとく」
真美は、涙を拭って僕に笑いかけた。
「ありがと、公平」
「うん……」
僕にはどうすることも出来なかった。そして、真美にもどうすることも出来なかった。
小学五年生の夏。最後に真美といた夏は、あっという間に過ぎていった。
人生って、なんだろう。それを考え始めてもう一週間が過ぎていた。そして、何の答えも得られないまま、一週間が過ぎていた。それにしても、僕はどうしてそんなことを考え出したのだろう? たかだか、十八年生きた程度の僕に、そんな壮大な問題に対する答えを導き出せるはずもない。
人生って、なんだろう。そう自分に問いかけた五秒後には、思考は停止する。そして、何も考えない間に時間は過ぎていく。この一週間、その繰り返しだった。
「馬鹿げてる」
僕は呟いた。この一週間、食べて、寝て、起きて、それしかやった記憶はない。一体、僕はどうしちゃったんだろう。初めのうちは、そう思っていた。でも、そんなことを思うことも馬鹿らしくなってきた。そう、馬鹿らしいのだ。僕はいつからか、そう思うようになっていた。それはいつからだったか……。考えるのも、面倒くさかった。そして、今度は口に出して呟いてみる。
「馬鹿げてる……」
「それはあんた」
そう、それは僕……って。
僕は目を開けた。ぼんやりと輪郭の浮かぶ視界。その中に現れたのは、真っ青な空ではなく、百合姉の顔だった。
「あれえ、百合姉。どうしたの?」
百合姉は、五つ上の僕の姉だった。二年前に結婚して、家を出ていってからは、あまり百合姉と会う機会もなくなった。それが、どうしてここにいるのだろう?
百合姉は、仰向けに寝転んでいる僕の体をまたいで、立っていた。そして、僕と目が合うと、分かりやすくため息をついた。
「あんたねえ、一体なにやってんのよ」
「なにって、人生について考えてたとこ」
「こんなとこにねっ転がってたって、そんなの分かるわけないでしょ。大体、あんたにそんなことが分かるぐらいなら誰も苦労しないのよ」
始まった。百合姉の説教だ。こうなったらもう、本人の気が済むまで止まらない。
僕は、くどくどと人生を語る百合姉の言葉に相槌を打ちながら、適当に時間が過ぎるのを待った。時間にして、十分程度だろうか。今日はまあ、ましなほうだな。
「それよりさあ、どうして百合姉がここにいるの? もう英也さんに捨てられたの?」
英也さん、とは百合姉の白馬の王子様の名前だ。がさつで、気の強い百合姉をお嫁にするなんて、かなり勇気のある人だな、と僕はひそかに思っている。
「んなわけないでしょ、馬鹿」
百合姉はそう言うと、僕の隣に腰を下ろした。
「母さんが真由子を家に連れて来いってうるさいから。ここに来たのはそのついで」
「ふうん。ついでね」
「文句ある?」
「ありません」
僕は横目で百合姉を見た。やっぱり、母親になると人は変わるものなのだろうか。百合姉の横顔は、ただの姉だった頃とはぜんぜん違うような気がした。なにが違うのかはよく分からないけど。
「そういえば、真由子ちゃん、何歳になったの?」
なんとなく会話が途切れたので、僕は声を出した。
「ん、二歳と十ヶ月。今が一番大変な時期ね。とにかくやんちゃだから」
「そりゃ、百合姉に似たんだな、きっと」
「どういう意味?」
「元気が一番。そういう意味」
「馬鹿なこと言って」
百合姉はそう言って、僕の目をじっと見つめた。
ああ、来るな、と僕は瞬時に悟った。大事な話をするとき、百合姉は決まって相手の目から目をはなさない。
「受験、失敗したんだってね」
「まあね」
「それで、いつまでここで腐ってるつもり?」
「それは、神のみぞ知ることです」
「大馬鹿」
「どうも」
「なんていうか、意外だわ」
百合姉は僕から顔をそらして、川べりで遊ぶ子供たちのほうへ目をやった。僕も、それにつられて、彼らの姿を目で追いながら声を出した。
「意外って、僕の受験失敗が?」
「そうじゃなくて。あんたが受験に落ちたぐらいで腐ってることがね」
「落ちたぐらいって、百合姉だって一浪したとき、けっこう荒れてただろ。毎日顔を合わせるたびにけりいれられて、僕はひどい目にあった」
あはは、と百合姉はおかしそうに笑った。
「そうね。まあ、あんたの気持ちは分かるわよ。でも、あんたなら親に心配かけるようなことはしないって、私は思ってたの」
「どうして?」
「だって、あんたって抜け殻みたいだから」
「抜け殻?」
「そ。いつからか、あんた自分のことにも周りのことにもあんまり関心を示さなくなった。だから、自分が大学に受からなくっても、別にいいかってな具合になるかとね」
「なんだよ、それ」
「実際、馬鹿らしいとは思っても、悔しいとは感じてないでしょ?」
百合姉は子供たちから、僕へ顔を戻した。横でそれを感じても、僕は百合姉に顔を向けることは出来なかった。そして、何も言えなかった。
「私は、悔しかったわ。でも、馬鹿らしいとは思わなかった。だから、今の私があるのよ」
「そういえば、僕に当り散らしたりしても、勉強だけはやってたね」
僕は、なぜかおかしくなって笑った。
「自分のためにね。でも、あんたがいなきゃ、きっと今の私はなかったわ」
「そりゃどうも」
僕は言った。そんな僕を見て、百合姉はふうと息を吐いた。
「あんた、いつまでそうやって引きずってるつもり?」
百合姉はそう言った。僕は百合姉の目を見て「何のこと?」と声を出した。
「さあね」
百合姉はよいしょ、と立ち上がった。百合姉の顔が寂しそうだったことに、僕は気づかないふりをした。そして、言った。
「帰るの?」
「真由子を相手に母さん一人じゃ大変だからね」
「そう」
「帰る前に一つ」
百合姉はそう言うと、僕を見下ろして、声を出した。
「やる気が出ないんなら、勉強しろとは言わない。でも、母さんたちには心配かけるな」
「それは、勉強してるふりをしろってことかな」
「せめて、ね」
百合姉はクスッと笑って、土手を歩いて行った。僕は、百合姉の後姿を黙って見送った。
「馬鹿らしい……か」
いつからだったろう。受験に失敗したとき? 今の恋人に、好きだと告白されたとき? テストで0点を取ったとき? それとも――真美が僕の前からいなくなったとき?
僕は、川べりを夢中で走る子供たちに目をやった。
いつからだったろう。僕の心の中に、風が吹き出したのは。夢中、を忘れたのは。
「真美……」
僕は呟いた。妙に冷たい風が、僕を吹き付けて通り過ぎていった。
四月に入ると、いよいよ僕の浪人生活がスタートした。浪人生活、と言っても、日がな一日時間を持て余すだけで、勉強などしないのだが。それでも、百合姉の忠告どおり、僕は勉強をするふりをするようにした。昼からは、バッグに参考書を詰め込んで、近所の図書館に行くふりをして、外をぶらつく。そして、図書館の閉館時間には家に帰る。それからは何もしない。それが、僕の生活習慣だった。
本当に、大学に行く気があるのだろうか? 他の浪人生が僕を見ればきっと呆れることだろう。でも、僕にはもう、そんなことはどうでもよくなっていた。そもそも、何のために大学に行くのかさえ、僕には思い出せなかった。初めから、理由などなかったのかもしれない。親の期待、周りの流れ、そこに、僕の意思はなかったような気がする。
「あ、公平君」
川べりをぶらぶらと歩いていたとき、土手の上から誰かが僕の名前を呼んだ。僕は足を止めて、土手の上へ顔を向けた。スーツ姿の女性が、上から僕のほうを見ていた。そして、その女性は、土手をおぼつかない足取りで降りてきた。
誰だっけ……? 僕はその女性が近づいてくるのを待ちながら、首をかしげた。だんだん近づいてくるその女性の顔を確認する。やっぱり、知らない人、のはずだった。
「公平君、久しぶりだね」
僕の目の前まで来ると、その女性は、さも私はあなたの知り合いよという顔で声をかけてきた。その気を許したような笑顔に、僕はあいまいに微笑むしかなかった。
「あの、元気にしてた?」
彼女は、気を取り直したように、顔を伏せて控えめに声を出した。
「え? う、うん。まあね」
「その、ごめんね。いろいろ忙しくて、連絡とれなくて」
「う、ん」
一体、誰だろう? いまさら「あなたは誰ですか?」とも言えず、僕は失礼にならない程度に、相手の顔を見つめた。
ある程度整った顔立ち。うっすらと施された化粧。肩まで下ろした、すらりとした髪。よく見ると、なんとなくまだ子供っぽさの残った顔は、それでも大人の雰囲気を備え、スーツを身に着けたその姿は、どこからどう見ても、大人の女性だった。ただ、僕とそう歳は違わないだろうことは、見た目からも、口調からも察することは出来た。
「この一ヶ月間、毎日研修で。あ、今図書館に行こうとしてたの? おうちの人から公平君、毎日この時間は図書館で勉強してるって聞いたから」
「ああ、うん」
「その、勉強がんばってる?」
「うん。まあ、ぼちぼちね」
「そっか。大変だろうけど、がんばってね」
「うん」
「……」
「……」
次にどんな言葉を発すればいいのか、僕には分からなかった。せめて、彼女が僕のどの程度親しい知り合いなのかが分かれば、それなりの対応も出来るというものだが……。
今の僕には、彼女の態度からそれをつかむことしか出来ないのだ。そして、肝心の彼女が黙り込んでしまえば、僕も黙り込むしかない。なので、僕は彼女が何か言葉を発するのをじっと待っていた。
「あの、帰るところだったの?」
ようやく彼女は口を開いた。僕は、悟られないようにほっと息を吐くと、声を返した。
「うん、まあね」
「そう、ごめんね、勉強で疲れてるのに」
「お互い様だよ。そっちも相当疲れた顔してるよ」
「え、やだ、本当?」
彼女は恥ずかしそうに頬に手を当てた。僕は、ははと笑って、探りを入れた。
「えっと、そういえばどこの会社に勤めるんだっけ? ど忘れしちゃって」
「青山商事だよ」
「あ、ああ、そうだったね」
僕は内心で驚きながら、それを表情に出さないように声を出した。青山商事といえば、おそらく、誰もが一度は耳にしたことがあるぐらい有名なところだった。確か、うちの高校からは推薦枠が一本しかなかったはずだ。最低でも学年で十番以内の成績でないと、そこに勤めることは無理だろう。そして、僕のような人間には縁のない場所だということは言うまでもない。
「どうしたの?」
彼女は僕の顔をうかがいながら声を出した。
「ん、なんでもない」
僕はそう言って微笑んだ。
「岡倉って、確か家はこの辺だったよな?」
間違いない。信じられないが、目の前にいるこの女性は、岡倉昌美だ。僕はそう確信した。なぜなら、青山商事へは、うちの高校からは一人しか選ばれていないのだから。
彼女は、ううん、と首を横に振った。
「え、この辺じゃなかったっけ?」
「ここからは、電車で二駅先なの。新しく越したアパートで、今は一人暮らししてて」
「え、家出たの? でも、家から勤め先までそんな遠くもないだろ?」
「うん。でも、高校卒業したら一人でやっていくって決めてたから」
「へえ……」
僕とは大違いだな。
「じゃあ、家まで送るよ」
「え、ええ?」
彼女は驚いて目をぱちぱちさせた。そんなに驚くこともないんじゃないか? と思っていると、彼女は言った。
「そんな、いいよ。公平君、勉強で忙しいだろうし――」
「忙しいって言ったって、時間は腐るほどあるよ。それに、恋人の家を知らないってのもあれだしさ」
「う、うん」
「大丈夫だよ。襲ったりしないから」
僕の冗談に、彼女は不器用に笑って応えた。そして、僕はたった今思い出したばかりの恋人を、家へと送ることになった。
「おーい、森下。ちょっと、こっち来て」
桜が咲くにはまだ少し早い三月。その日は、卒業式だった。厳粛に行われたその式も、終わりさえすれば、ただの祭りであり、教師、生徒入り混じっての大規模なお別れパーティーでしかなかった。一足先に桜の散った僕は、わいわいとはしゃぐクラスの中で、完全に孤立していた。そして、そんな時、クラスのある女子が僕に声をかけてきた。
「なに?」
クラスの中でも、目立っていたその女子生徒は、ニヤニヤ笑いながら「いいから、こっち来てよ」と僕を廊下に連れ出した。
しぶしぶ廊下に連れ出されると、そこには一人の女子生徒が立っていた。僕を連れ出した奴は「じゃ、ごゆっくり」と言い残すとドアを閉めて、教室の中に消えた。
締め切られた教室からは、それでもわいわいと生徒たちのおしゃべりがこだました。僕は、憂鬱な気分になりながら、少し離れたところにちょこんと立っている女子生徒に目を向けた。
それが、岡倉昌美だった。彼女とは二年のとき同じクラスで、顔と名前ぐらいは知っていた。まあ、有名どころに採用が決まって、生徒の間でもけっこう噂になっていたので、クラスが変わっても名前ぐらいは頭に残っていた。
彼女は、黒ぶちのめがねの奥から、控えめに僕に目を向けた。そして、おどおどした調子で声を出した。
「あ、あの……ごめんね」
「いや、別に……。僕に何か用?」
何か用? なんて、いかにも白々しい台詞だった。だが、こういう経験のない僕に、さりげなく自分を好きだと相手に言わせる方法など期待されても困る。
「あの、私……」
彼女は思い切ったように、伏せていた顔を上げた。そして、小さな声で言った。
「森下君のことが、好きなの」
「そう」
僕の薄いリアクションに、彼女は戸惑ったようだった。まあ、当然だろう。まったく気にも留めていなかった同級生にいきなり好きです、なんて告白されれば普通はびっくりする。ただ、僕は普通じゃないのだ。でも、生真面な彼女は、僕の薄いリアクションを、まったく違うふうに受け取ったらしい。
「あの、ごめんね。こんなときに――」
そう、僕は後一ヶ月もすれば、お先真っ暗の浪人生活に突入する。まさに、こんなときに、だった。ただ、僕はそんなことは微塵も思っていなかった。
「いや、別にそんなこと気にすることないけど」
彼女は顔を赤くして、言った。
「もう、会えなくなるから、その前にどうしても気持ちだけ伝えたくて……」
「岡倉って、確か青山商事に行くんだよね」
「う、うん」
「そこって、地元にあるんだよね」
「う、うん」
「僕も、一年は浪人だし。別に会えなくなるってこともないと思うけど」
「え……。でも、付き合ってもないのに、そんな会ったりなんて……」
「じゃあ、付き合う?」
「え!」
彼女は音程の外れた声を出した。そんな彼女を見て、僕は笑った。
「そうすれば、会えなくなるってこともないだろ?」
「う、うん。でも――」
「じゃあ、これからよろしく」
僕は彼女の前に手を差し出した。彼女は、目を泳がせながら、最後に恐る恐る僕の手を握った。
どうでもよかった。ただ、彼女がそうしたいだろうと思ったから、そうした。
そこに、僕の意思はなかった。
なるほどね。
僕はその建物を見上げて、そう思った。彼女が、目をぱちぱちさせて、僕の申し出を断ろうとするわけだ。
駅から、歩いて十分。彼女が足を止めたその先にあるアパートは、とても人が住めるとは思えないような、廃墟のようなアパートだった。一体、築何十年なのだろう? 上のほうにつけられた、浦和荘、の文字は肉眼ではすでに確認するのも困難なほど風化していた。
彼女は、さびだらけの小さな門扉をくぐって、雑草のおおい茂った、人一人が通るのもやっとの狭い敷地の中に入った。
「そこ、段差あるから気をつけてね」
「う、うん」
僕は足元に気をつけて、門扉をくぐった。メッキのはげた、さびだらけの階段を彼女は上った。僕も、その後に続いた。
一歩一歩足を運ぶたび、床は規則正しくいやな音を立てて、踏み出した衝撃に悲鳴を上げる。よくもまあ、こんなになってまでまだ持つものだ、と思っていると、彼女は奥から二番目のドアの前で足を止めた。バッグから鍵を取り出して、ドアを開ける彼女を、僕は黙って見守った。
「どうぞ、上がって」
「お邪魔します」
彼女のあとに続いて、中に入る。
何もない。率直に言えば、そうだった。六畳程度の畳の上にあるものといえば、小さなちゃぶ台と、古びたタンス、冷蔵庫。後は小型のテレビぐらいのものだ。質素、といってしまえばそれまでだが、これが、これから新しい生活を始めようとする、希望に燃える新社会人にふさわしい部屋だろうか? 帰る場所がこれでは、とても希望に燃える気にもなれない。少なくとも僕なら。
「あの、座ってて、今お茶入れるから」
「あ、うん」
彼女は、バッグを隅に置くと、手際よくお茶を入れて、ちゃぶ台の上に置いた。
「驚いたでしょう?」
彼女はそう言って、微笑んだ。
どうして、こんなところに住んでるの? そんなことを聞くのは、立ち入りすぎなような気がして、僕はあいまいに笑って見せた。
「ここ、驚くほど家賃安いの」
「だろうね」
彼女はくすっと笑った。
「でも、若い女性が一人暮らしをするには、ここはちょっと物騒じゃないかな」
多分、ドアに鍵をかけても、外敵から身を守ることは出来ないだろう。私を襲ってください、と自ら言っているようなものだ。
「うん」
彼女は平然とうなずいた。
「でも、私にはここしかないから」
「え?」
僕は彼女の顔を見つめた。でも、何かを汲み取るには、彼女の表情はあまりにも複雑すぎた。そして、彼女もそれを僕に話す気はないようだった。
彼女はそっと僕から目をそらすと、何もない空間に視線を留めた。僕は、横からそんな彼女を眺めた。
初めて彼女を見たとき、彼女だと分からなかったのは、ただ単に黒ぶちの眼鏡を外して、見た目が変わったからだけじゃないようだった。今の彼女と、僕の知ってる岡倉昌美は、別人だった。というより、ただ単に僕は本当の彼女を知らなかったのだ。そして、別に見ようともしていなかった。
「聞いてもいいかな」
「え?」
「ここしかないって、どういう意味?」
僕はそう聞いていた。そうしないと、彼女が壊れてしまいそうな、そんな気がして。
「多分、言っても分からないと思う」
彼女は、そう言って笑った。
――だって、私に逃げ場なんてないから。
なぜか、彼女の笑顔が、あの時無理をして僕に笑って見せた真美と重なった。
ただの強がりだった。本当は逃げ出したかった。それを知ってて、あのときの僕は真美に何もしてあげられなかった。
「分からなくても、聞いてみたい」
僕は言った。そして、彼女は僕に目を留めた。
無理にとは言わないけど。その僕の言葉で、彼女はあきらめたように、控えめに微笑んだ。
「ちょうど、こんな部屋だった」
彼女は、僕から目をそらして、風化しきって今にも崩れてきそうな壁をじっと見つめた。まるで、そこにある見えない何かを見つめるように。
「しみだらけの畳に、ぼろぼろになった壁。そして、私の記憶の中にあるその人は、流しの前に立って、今日の夕飯を作ってて。いつも、私はその人の横で、お手伝いをしてた」
僕は、口を出さずに彼女が続けるのを待った。少しの間の後、彼女は続けた。
「なんにもない生活だった。周りの子にはあって当たり前のものが、私にはなかった。でも、私はそれでもよかったの。狭い部屋で、何にもなくて。それでも、お母さんの隣で、今日の夕飯のお手伝いをすることが、私には一番だった。お母さんがいてくれれば、私にはそれだけでよかった。でも、私が小学三年生のとき、お母さんは死んだ。そして、私は、おばあちゃんに引き取られて、この町で生きてきた」
お父さんは? そんな分かりきったことを聞く気にはとてもなれなかった。
彼女は、僕をチラッと伺ってから、声を出した。
「まだ、小さかったから記憶はあいまいなんだけどね。それでも、毎日夕飯を二人で作ってたことと、ある約束をしたことだけは、はっきりと覚えてるの」
「約束?」
「私が大きくなったら、いっぱいお金を稼いで、お母さんに楽をさせてあげるって」
彼女はそう言うと、ふふ、と笑った。
「おかしいでしょ? もう約束した相手はいないのに、私はずっと、その約束をかなえるためだけに生きてきたの。いっぱいお金を稼ぐために、勉強して、いいところに就職して。そして、たどり着いたのがここ」
馬鹿みたい。彼女は呟いた。
「もう、戻れないって分かってるのに。約束なんて、もう守りようもないのに。私、なにやってるんだろ」
ただ、大好きな人のそばにいたかった。彼女のその気持ちは、なぜか僕には痛いほど理解できた。
「本当に、馬鹿なのかな」
僕は、呟いた。
「守りようがなくても守ろうとすることは、本当に馬鹿なことかな」
「……違う。私はただ、すがり付いてるだけなの」
「いいと思う」
「え……?」
「それが間違ってたって、僕はいいと思う。だって、まだ僕たちには未来があるんだから」
「……」
「僕に岡倉の気持ちを否定する権利なんてない。けど、今からじゃ、もうやり直しはきかないのか?」
彼女は僕から目をそらした。そんな簡単なものじゃない。それは僕にも分かっていた。でも、僕は言った。
「こんな僕でよければ、協力するから」
「……参ったなあ」
彼女は、顔を上げて言った。
「てっきり、笑われると思ってたのに」
「この状況で笑う男はいないと思うよ」
「そう?」
「多分ね」
「じゃあ、この状況で笑わない男は、キスしてくれると思う?」
僕は少し考えるふりをしてから「多分ね」と声を出した。
ぶえっくしょん! どこからか、派手なくしゃみが聞こえてきた。
なぜか歩きたい気分だった。駅まで送る、という彼女を部屋にとどめ、僕は線路の横を一人で歩いていた。
四月に入ったとはいえ風はまだ冷たさを残していた。吹き付ける風を寒いと感じるのは、一人だから余計なのかもしれない。でも、僕は今までそうやって生きてきた。
確かに、親に育てられ友達も持った。僕の周りにはたくさんの人間がいた。でも、僕は一人で生きてきた。誰にも僕の本心を話したことはなかったから。
でも――。
今からじゃ、もうやり直しはきかないのか?
冷たい。冷たい風が僕の中で吹いていた。
僕と同じ痛みを知ってる彼女となら、僕はやり直せる。そんな気がした。でも、それは真美を忘れるということに他ならなかった。
まあ、僕が悪いのは分かる。文句の言える立場じゃないってことも分かる。でも、僕だって人間だ。文句を言われればある程度むっとはするし、さらに怒鳴られればむかっともする。
「この馬鹿息子!」
そこまではよかった。そこまではどんなに嫌味を言われようと、文句を言われようと、怒鳴られようと、よかった。でも――。
「いいか! お前みたいに何にもしない奴はろくな大人にはならないんだ! お前みたいに甘ったれた奴がやっていけるほど、社会ってのは甘くないんだよ!」
赤くなった顔をさらに赤くして、親父は怒鳴った。
それも聞き流せばよかった。そうするつもりだった。でも、意思とは反対のことを僕はしていた。
「うるさいんだよ」
僕は呟いた。いや、呟いていた。
「なに?」
「うるさいんだよ!」
僕は初めて親に向かって怒鳴った。
一瞬、室内はしんと静まり返った。その一瞬の静けさが、僕にはこっけいに思えた。
親父は気を取り直したように僕の胸倉をつかみあげた。
「親に向かってうるさいとはなんだ!」
「知るかよ」
「なんだと!」
「大人? 社会? そんなもん知るか! こっちだって大人になんてなりたくないんだ。あんたみたいにはなりたくないんだよ!」
そう怒鳴った瞬間だった。僕は驚いた。そして、それ以上に親父は驚いた。その瞬間、黙って親父の隣に座っていた母さんが、机の向こうから身を乗り出して僕の頬をはたいた。
時間は止まった。その中で僕の目に映った光景は、驚いた顔を母さんに向ける親父の顔と目に涙を浮かべた母さんの顔だった。
そして、家を出た僕は当てもなくいつもの土手に座り込んでいた。
「はあ……」
なにやってんだろ。
まあ、いつかばれるとは思っていた。大体、何の警戒もせず近所の土手に毎日ねっころがっていては「おたくの公平君、毎日あそこで寝てるけど」と噂話の好きな主婦に目をつけられないはずがない。
大体、二ヶ月か。桜は散り、もう季節は梅雨に差し掛かっていた。
昨日から降り続く雨は、今も僕を容赦なく濡らしていた。
家には帰れない。もうあそこに僕の居場所はなくなった。いや、元からあそこに僕の居場所なんて――。
僕は顔を上げた。
冷たい雨。見えない空。そこにいつか見たきらめきを、見つけることは出来なかった。
「どうしたの?」
玄関の外にずぶぬれで立っている僕を見て、岡倉は目をぱちくりさせた。
「やあ……」
思わず笑みが浮かんだ。彼女の顔を見て僕は心の端っこで安心していた。そんな僕を見て、彼女は何も追及せずに「上がって。そのままじゃ風邪引いちゃう」と僕を玄関の中に入れた。
「悪いね」
「お湯まだ残ってるから、お風呂使って」
「いや、いいよ」
彼女は腰に手を当てて僕をにらんだ。
「いいから。そのままじゃ風邪引いちゃうでしょ。それに、この部屋には男物の服なんてないのよ。公平君が入ってる間に、今着てるもの乾かしちゃうから」
「え、もしかして下着も?」
「わがまま言わないの」
彼女は、子供を諭す母親のように声を出した。そんな彼女を見て、僕はくすっと笑って、彼女の言うとおりにした。
風呂から上がるとさっきまでずぶぬれだった僕の服が、乾かされて畳の上にたたんで置かれていた。僕は流しの前に立っている彼女の背中に声をかけた。
「もう乾いたんだ」
「うん。ドライヤーでね」
「そっか」
「あ、こっち向いてるから、服着て」
「あ、うん」
僕は下着を着けて、その上に何の柄もない青のシャツと短パンをはいた。少し熱気の残ったぬくもりが僕の肌をやさしく包みこんだ。
ブーン……。静かな部屋に電子レンジの音だけが響いた。三十秒ほどレンジが動いている間、僕はずっと彼女の背中を見つめた。
チーン! その音で彼女はレンジから湯飲みを取り出した。そして、ちゃぶ台の上にそれを置いた。
「今、お茶の葉切らしてて。麦茶だけど、我慢してね」
「ありがとう」
僕は両手で湯飲みを持ってそれを口に運んだ。
「まず……」
「わがまま言わない」
彼女はくすっと笑って言った。
暖かいな……。僕は彼女を見て思った。
あの日、僕に自分のことを話してから彼女はどことなく雰囲気が変わった。それはきっと、彼女が今までの自分と向き合ったからだろうと思う。彼女がどんな答えを見出したのかは分からないけど、彼女は確実に変わっていた。
「ご両親と、けんかでもした?」
彼女の言葉に僕は素直にうなずいた。
「まあね」
「それで、いつまでここにいるつもり?」
「一週間ぐらい。駄目?」
「いいけど、条件がある」
「なに?」
「帰ったら一番に仲直りすること。じゃなきゃ泊めてあげない」
「分かった。そうする」
もともとどうこう言える立場じゃない。僕は湯飲みをちゃぶ台に置いて、うなずいて見せた。
「よし」
彼女は満足そうに声を出した。そして、ふふ、と笑った。
「なんだか母親みたいね、私」
彼女の笑顔に僕は声を出した。
「思いっきり駄目な子供のね」
「あら、そうでもないわ」
彼女はおかしそうにそう言って、僕の頭をなでた。
何かが僕の中で崩れていた。あるいは、僕はそれを吐き出すためにここに来たのかもしれない。気が付くと僕は声を出していた。
「いいや、悪い子さ。受験に失敗して、両親に散々心配かけたあげく、その人たちをだますような真似をした。そして、いい加減な気持ちで好きでもない女と付き合って、困ったからってその女の家に転がり込んでるんだからね」
「え?」
彼女の目が困惑の色でいっぱいになった。僕はそんな彼女を見つめて「僕は、最低なんだよ」と呟いた。
「どうして君はこんな僕を好きになったんだ?」
「……」
「僕には理解できないよ」
いつかは言おうと思っていた台詞を今言った。ただそれだけのことだった。きっと、今じゃなくても僕はこの台詞を言ったと思う。もう一人ですべてを抱え込むことに僕は疲れた……。
理解できないよ。僕はもう一度呟いた。すると、彼女は言った。
「それは私も同じよ」
「同じ?」
意味を図り損ねた僕は彼女の顔へ目を向けた。でも、彼女の顔を見ても意味は分からなかった。
「どういう意味?」
「そのままの意味よ。私もどうしてあなたを好きになったのか分からないの」
「なに、それ……」
「さあ」
彼女はこともなげに首を横に振った。
「でも、そんな恋もあっていいんじゃない?」
「それを恋っていうの?」
「誰かを好きになるのが恋でしょ? だったら今の私はあなたに恋してるわ」
「そういうの、あんまり軽々しく言わないほうがいいよ」
「どうして?」
「嘘っぽいから」
嘘っぽい……。彼女は呟いた。そして、僕を見つめて声を出した。
「そうね」
「そうねって……」
「でも、私があなたを好きになったのにはきっと意味があると思うの。私はきっと見えないなにかに引き寄せられて、あなたを好きになった」
「ふざけてるの?」
彼女は僕の言葉を無視して続けた。
「きっとそういう恋もある。見えないなにかに引き寄せられて、誰かを好きになって。どうして好きになったのか、そのわけを知るのは好きになってからでも遅くない。私があなたを好きになったのはきっと、そのわけをあなたの近くにいて見つけるためだと思うの」
「それが、君が僕を好きになった意味なの?」
「ええ。だって私はもう見つけたから」
「え?」
「あなたを好きになったわけ」
「……」
「だから私はあなたに恋してる」
「……」
「自分のこと最低って――。公平君が今一人でなにを抱えてるのか、私には分からない」
彼女は立ち上がって僕の後ろに回った。そして、後ろからそっと僕を抱きしめてくれた。
「でもね、公平君」
「……」
「今からじゃ、もうやり直しはきかないの?」
僕は彼女の細い腕に手を乗せた。こんなに暖かい感触は初めてだった。
「まだ……遅くないかな」
僕は呟いた。次に彼女が言ってくれる言葉はもう分かっていたから。
「うん。私にだってできたんだから」
「……うん」
「うん」
僕の耳元で彼女の声が優しく響いた。そして僕はこのぬくもりを失いたくなかった。
「――約束してくれないか」
「え?」
「いなくならないでくれ」
「公平君?」
「もう、僕の前からいなくならないでくれ」
「うん」
彼女は僕の耳元で小さく呟いた。その声は僕の涙を優しく受け止めてくれた。そして、僕は初めて誰かの前で泣いた。優しく僕を抱きとめてくれる人の前で。
「あんたねえ、一体いつまで彼女のとこに転がり込んでるつもりよ」
久しぶりに会った百合姉は、僕の顔を見るなりいきなり説教を始めた。ここ最近、百合姉には説教しかされた覚えがないのは気のせいだろうか。
「転がり込むってね」
「転がり込んでんでしょうが。大体ねえ、あんた馬鹿じゃないの? こんな家の近くの土手で寝っ転がってたら、近所の人に僕は勉強をサボってますって言ってるようなもんでしょうが」
「せめて勉強してるふりだけでもしろって言ったのは、百合姉だろ」
「いちいち見つからないようにって言わなきゃ駄目なの?」
百合姉の強烈な嫌味に僕は黙り込んだ。
「それで、彼女はなんて言ってるの?」
「一応、一週間泊めてくれる承諾は得た」
「今日で何日目よ」
「……十日目」
「馬鹿?」
「うるさいな。説教するためにここに来たんなら帰ってくれよ」
「まったく、あの娘もこんな奴のどこがいいのかねえ……」
一応、百合姉は彼女のことを知っている。僕が彼女のアパートに転がり込むことになって、当面の資金と必要なものを百合姉に頼んだ。必然的に彼女と百合姉は顔をあわせることになったわけだ。
彼女と直接会って話をした百合姉いわく、彼女は僕にはもったいない、そうだ。それはまあ僕も同感だけど。
「うるさいな。用がないならもう帰るぞ」
僕はそう声を出して立ち上がった。
「帰るって、彼女のアパート?」
「夕飯作るのは僕の仕事なんだよ」
「主婦か、お前は」
「なんとでも言ってくれ」
「あんた、あの娘のなんなのよ」
「え?」
振り返ると百合姉は座ったままで、下から僕の顔をまっすぐ見つめた。
「あんたはあの娘のなに? あんたにとってあの娘はなんなの?」
「どうしたのさ、急に」
「あの娘があんたのこと想ってるのは分かる。じゃあ、あんたはあの娘のことどう思ってるのかって聞いてるのよ」
「だから、急にどうしたのかって聞いてるんだよ」
「いいから、答えろ」
「なんなんだよ、一体」
百合姉は威嚇するように僕をにらんで、一言こう言った。
「別れろ」
「は?」
「あの娘と別れろ。そう言ったのよ」
「意味分からないんだけど」
ほんとに、急になにを言い出すんだこの姉は。
僕が呆れていると、百合姉は「座れ」と命令口調で自分の横の芝生にポン、と手を置いた。僕は仕方なく言うとおり百合姉の隣に座った。
「なんなんだよ、彼女と別れろって」
「あんた、真美ちゃんのことまだ吹っ切れてないでしょ」
「……真美って誰?」
「とぼけるな、大馬鹿」
「馬鹿馬鹿言うな」
僕は百合姉の顔に文句を言った。百合姉は、僕の文句を無視して清んだ川の流れに目を向けた。
「真美ちゃんが転校する前の日の夜、いつも夜の十時にはベッドに入るあんたが、その時間を過ぎてから、家をこっそり抜け出したのを私は知ってる」
「なんなんだよ、百合姉」
「母さんにこっぴどくしかられた後、あんたが夜中に三時間、風呂場でシャワーを頭からかぶってたのを私は知ってる」
「……」
「あんたが、三時間ずっと泣いてたのを私は知ってる」
「……」
「あんたが、あの子のことをずっと忘れてないのを私は知ってる」
「だからなんなのさ」
「真美ちゃんが来た」
「え?」
百合姉はゆっくり僕に顔を向けた。そして、声を出した。
「今日、真美ちゃんがあんたに会いに家に来た」
「冗談だろ?」
はい、そうですか。なんて納得できるわけがなかった。第一、今までずっと音信不通だった真美がどうして今更僕に会いに来るというのだ。
「私が笑えない冗談を言わないのは知ってるでしょ」
「いや、まあ百合姉の冗談は笑えるって言うより、人を傷つける割合のほうが大きいけど」
「そんなことはどうでもいい」
それを決めるのは言われる相手のほうだろ。とは言わず、僕は声を出した。
「それで、真美が何の用で僕に会いに来たって?」
「……あんた、驚かないの?」
「分かってるよ。かまかけてんだろ。僕の岡倉への気持ちを確かめるためにさ」
「あんたは、今友達の家に泊まってるってことにしといた」
百合姉は僕の声を無視するようにそう言った。
「は?」
「あの娘の伝言をそのまま伝える」
「百合姉?」
「今日、あの時と同じ時間に最後に会った場所で待ってる。もし気が向いたら会いに来て」
「嘘だろ?」
「嘘じゃない」
「信じられるかよ」
「信じる信じないはあんたの勝手。でも、これは嘘じゃないってことだけは言っとく」
「……」
百合姉は静かに僕の様子を横から伺っていた。そして「真美ちゃんに会うの?」と呟いた。
何も言えないでいる僕に、百合姉はため息をついた。
「あんたにはもう大切な人がいる」
「……」
「昔は昔、今は今。本当に大切にすべきものを見失ったら――」
僕は百合姉に目を向けた。百合姉は僕と目が合うと静かに声を出した。
「あんた、大切なもの全部失くしちゃうよ」
違った。彼女に対する気持ちと真美に対する気持ち。それは、まったく違うものだった。あの時、小学生だった僕が真美に抱いていた感情は、好きとか嫌いとかそういうものじゃない。ずっと僕が胸の中にとどめていた想いはそういうものじゃなかった。
真美が僕の前からいなくなったとき、僕は真美のことを忘れるべきだった。今になって僕は後悔してる。
ずっと真美を想って生きてきたことを。そして、彼女に会おうとしてる自分を――。
僕は後悔していた。
やっと上がったと思っていた雨は夜になってからまた降り出した。彼女の部屋を出たときにはまだ雨は降っていなかったので、僕は傘を持っていなかった。
しとしと、雨は降り続けた。
何度も小学校の前を通ったことはあった。でも、当たり前だけど中に入ったことはなかった。
僕は閉じられた校門の前に立った。あの時は僕を見下ろしていた校門を、今は僕が見下ろしている。懐かしさに包まれる前に僕は校門を飛び越え、ぬれたグラウンドを横切った。
しとしと、雨は降り続けていた。そして、僕は背の低い柵の外からプールサイドをのぞいた。
暗くてよく見えなかった。でも、誰かがそこに立っていたのは分かった。僕はその人影をずっと瞳の真ん中に入れて、中に入った。
僕は入り口に立ってプールサイドに立っている真美を見つめた。真美はぽつんとプールサイドの端っこに立っていた。両腕をだらりと下げて、顔を上げて雨に打たれていた。僕は声をかけることが出来ずにゆっくり真美に近づいた。
僕と真美の距離はなくなった。それでも真美はずっと上を向いたまま雨に打たれていた。僕も声をかけられないでいた。
長い時間の流れを埋められる言葉を僕たちは見つけられないでいた。
しとしと、雨は降り続けた。
しとしと、しとしと……。
――最後に真美といた夏の記憶。あのときの真美の顔。小学生だった真美のあの笑顔が忘れられなくて、だから、僕はここに来た。
もう決めたことだから。
「真美」
僕はそっと声を出した。
「公平だ」
真美の声が返ってきた。その声は僕の知ってるあの声と同じものだった。
「うん」
僕は言った。
「真美」
振り返った真美の顔は雨のせいでよく見えなかった。でも、僕の前に真美がいることをあふれる懐かしさが教えてくれた。
「久しぶりだね、公平」
真美の声が弾んだ。そして僕はあの頃に戻ったような、そんな気がした。
「久しぶりね、じゃないよ」
「え?」
「今までずっと何の連絡もよこさないでさ」
「怒ってるの?」
「当たり前だろ。あのときの僕がどれだけ打ちのめされたと思ってるんだ」
「オーバーねえ」
真美はおかしそうに声を出した。
「相変わらずね、公平は」
「僕だって変わったさ」
「じゃあしりもちはつかなかったわけだ」
「……からかうために僕を呼んだの?」
「それもあるわね」
真美は笑ってそう言った。
「変わってないな、真美は」
ため息をつく僕に真美は不満げな声を出した。
「なによ、悪いの?」
「悪いとは言わないけど、どうしてわざわざこんなところに呼び出したの。あの時はまだしゃれで済んだだろうけど、今は見つかったらしゃれじゃ済まないぞ」
「男がいちいち細かいこと気にしないの」
「じゃあ女の真美が気にしてよ」
「何か言った?」
「いや、別に」
僕は声を小さくして言った。チラッとそらした視線を戻すと真美と目が合った。そして僕たちは同時に吹き出した。
あの頃と同じように僕たちは笑った。まるで、僕たちがここにいるのが当たり前のことで、毎日をこんな風に過ごしているみたいに。僕たちは自然に笑い合えた。
僕は思った。僕たちの止まっていた時間は今動き出したのだと。
「じゃあ、行こうか」
「行くって?」
「このままじゃ風邪引いちゃうだろ」
「ホテルに連れ込む気?」
「そんな気はないよ」
「……もうちょっと面白くツッコんでよね」
真美はつまらなそうに呟いた。僕は聞こえない振りをして真美の手を引いた。
「ほら」
「行くってどこ行くの?」
「僕の家」
「なるほど。そこに連れ込むわけだ」
「そういうわけだよ」
僕は笑って言った。
そして、僕たちは学校を出て家まで続く土手沿いを並んで歩いた。
お互いの過ごした時間を語り合いながら――。
しとしと、雨は降り続けた。
この雨が上がったら真美はいなくなってしまうんじゃないだろうか。なぜか、そんなことを僕は頭のはしっこで思っていた。
「真っ暗だね」
真美は言った。
「うん」
僕は素直にうなずいた。
「真っ暗だ」
僕はぼんやりと自分の家の前で明かりの消えている我が家を見上げた。
まあ、十時を過ぎればもう就寝という家庭は探せばあると思う。でも、間違いなくうちの親は十時を過ぎればもう就寝、という家庭ではない。十時に就寝なんて早すぎるだろ、と文句を言う家庭だ。
まだ十一時にも満たないこの時間に明かりがすべて消えているということは、家を空けているということに他ならなかった。
雨は門扉の前で立ち尽くしている僕たちを容赦なくぬらした。
「家の人、いないみたいだね」
真美は言った。
「うん」
僕は素直にうなずいた。
「いないみたいだ……」
「しらばっくれて」
「え?」
「まさか、知らなかったなんて言うつもり?」
もちろんそのつもりだった。十日間家に帰っていない僕が、両親が今日たまたま家を空けていることを知らなくてもしょうがないと思う。でも、真美に見つめられ、僕は知らなかったとは言えなくなった。でも、これだけは言っておいた。
「そんなつもりはない」
「言ってることとやってることが違うんじゃない?」
そのとおりだな、と思った。
「そんなつもりはない」
強情に言い張る僕を見て真美はおかしそうに声を出した。
「で、どうするの?」
「多分、鍵はそこの花壇の下にある」
「それで?」
「それで、とりあえず玄関に入れる」
「連れ込む気?」
「……」
「ま、いいわ」
真美はくすっと笑うと「これぐらいで勘弁してあげる」と言って門扉をくぐった。
「どうも」
玄関に入ると僕は明かりをつけた。まぶしい光に一瞬目がくらんだ後、僕の目に真美が映った。
真美はTシャツにジーンズというラフな格好をしていた。細みの体にぴったりくっついたTシャツが濡れて、胸の部分から下のものが透けていた。僕はそこから目をそらして真美の顔を見た。真美は肩まで下ろした髪をこすりながら、からかうように言った。
「なに照れてるのよ」
「別に照れてない」
「顔が赤くなってる」
「そんなことない」
「そう?」
にっと口のはしを上げて、真美は言った。
「とりあえず、風呂使ってくれよ」
「それより部屋行こ」
「え?」
「公平の部屋」
真美はそう言うと、ぬれたままで玄関を上がった。
「ちょ、ちょっと――」
つられて、僕は靴を脱いで玄関を上がった。
一体どういうつもりなんだ……。
僕が部屋の前に着くと真美は電気をつけて部屋を観察していた。
「そのままじゃ風邪引くだろ」
僕は入り口に立って声を出した。
「懐かしいな」
僕の声は真美に届かなかったようだ。
真美は両手を背中の後ろで組んで一通り僕の部屋を見終わると、勉強机の上に置いてあった写真を手に取った。
「これ、公平の彼女?」
真美は写真に目を落としたまま声を出した。僕は素直に返事した。
「うん」
「そう。かわいい子だね」
「まあ」
真美は数枚の写真に目を通してから、それを机の上に戻した。
「私の写真はないんだ?」
真美はからかうように声を出した。
「あるよ」
「え?」
僕は真美を見つめて言った。
「真美の写真は机の引き出しの上から三番目の奥の、高校のときの卒業アルバムの下に入ってる」
「……」
「言ったろ。真美がいなくなって僕は打ちのめされた」
「駄目」
「え?」
「私は、もう私じゃないの」
「なに言ってるの?」
「私は公平の知ってる私じゃないの」
真美はカーペットに手をついて、崩れるようにその場に座り込んだ。
「私は、違うの……」
「どうしたんだよ。なに言ってるのか分からないよ」
「私は公平が自由だって言ってくれたあのときの私とは、違うのよ」
「え?」
「つまらない男を好きになって、つまらない離婚をして……。私はもう、あのときの私とは違ってるの。公平が自由だって言ってくれた私とは違う。どこにでもいる、つまらない女に私はなっちゃったのよ」
「真美は、真美だろ?」
「違う!」
真美は震える声で叫んだ。
「私、もう……」
真美の細い肩は小刻みに震えていた。僕は、その震える肩に手を置いた。
「今を生きてるのは、あの頃の真美じゃないだろ」
「……」
真美はうつむいたまま僕の手に自分の手を重ねた。そして、ゆっくり顔を上げた。
涙にぬれた真美の目はまっすぐ僕を見つめていた。そして、真美は言った。
「彼女とは、寝た?」
「うん」
僕は素直にうなずいた。
「私と、寝たい?」
僕は素直にうなずいて真美を見つめた。涙にぬれたそこには、あの頃真美の目に宿っていたきらきらした光が確かにあった。
僕が真美に抱いていたものは、きっとこれだったんだ。僕はあの頃からずっとそう思ってた。真美を抱きたいと、そう思ってた――。
でも……。
「でも、寝ないんだよね」
真美は言った。
「うん」
僕は言った。
「寝ない」
きっと、もう戻れない。僕たちは別々の場所で別々の時間を生きてきたから。
「僕は真美のことが大好きだった」
「……」
「でも――」
「分かってる」
真美はくしゃくしゃの笑顔で呟いた。
「だから、それ以上言わないで」
しとしと雨は降り続けた。真美の代わりにその雨は涙を流していた。
その雨が止むまで、僕たちは一緒にいた。
目が覚めると雨は止んでいた。そして、部屋にはもう真美の姿はなかった。
時計は六時ちょっとすぎを指していた。僕は昨日彼女に散歩に行くと言って出かけたまま何も連絡していなかったことを思い出して、簡単に身支度をして家を出た。
雨上がりの外の空気は少し湿気を帯びていた。僕は散歩がてら歩いて彼女のアパートへ向かった。
確か今日は会社は休みだといっていた。
まだ寝てるかな。そう思いながら、僕はドアに合鍵を差し込んだ。
「あれ?」
ドアに鍵はかかっていなかった。僕は不審に思ってドアを開けた。
狭い部屋。ちゃぶ台の前に彼女は座っていた。
「起きてたんだ」
僕は中に入って彼女の背中に声をかけた。彼女は僕の声を聞いても無反応だった。
沈黙が部屋を包んだ。
「どうしたの?」
僕は言った。
「昨日――」
「え?」
「昨日、どこ行ってたの?」
「あ、ああ。ごめん、何の連絡もしないで。家に帰ってたんだ。ほら、雨が降ってきたからさ」
「雨が降ってきたから……」
「なに?」
「傘を持っていったの。公平君が風邪引いちゃいけないと思って」
「え……」
「どうして嘘つくの?」
彼女は振り返って僕を見つめた。
「……つけてたの?」
僕の声を無視して彼女は言った。
「あの人、誰なの? 今まであの人と一緒にいたの?」
「あれは――」
僕は彼女を見つめた。
彼女の髪は、ぬれたまま乾いていなかった。そして、赤く充血した目からは涙が浮かんでいた。
僕は口をつぐんだ。どんな言い訳をしても僕が彼女を傷つけたことに変わりはなかった。
「帰って」
何も言わない僕に彼女は呟いた。
かすれる声で言った。
「帰って……」
ごめん。
呟いて、僕は部屋を出た。
――あんた、大切なもの全部なくしちゃうよ。
百合姉の言ったとおりだった。そのとき、僕の手から大切なものは全部零れ落ちていた。
それから五日経ってから僕は知った。真美が自宅のマンションから飛び降りて、死んだことを。
そのとき、僕は悲しくなかった。辛くもなかった。でも、目から涙がこぼれたとき僕は真美が死んだことを想った。そして、ただ祈った。
真美のために――。
彼女の家を出てから五日間、僕は百合姉のマンションに転がり込んでいた。英也さんは、百合姉を自分の妻にするほど寛大な人だから、いやな顔せず僕を迎え入れてくれた。真由子ちゃんは一日中遊んであげるという条件付で、僕を歓迎してくれた。そして百合姉は、どうして私があんたの世話までしなきゃなんないの、とぼやきながらも一週間だけの条件付で僕をいやいや迎え入れてくれた。
真美が死んだのを知ったのは、そんなときだった。
僕はあの時真美に言った。今を生きてるのはあの頃の真美じゃないって。でも、僕には分かってた。真美が求めていたものは未来にはないものなんだって。真美が失くしてしまったものは、未来では取り戻せないものだった。
真美は僕と同じように苦しんでいた。いや、僕よりずっとあの頃に縛られていた。だから、真美は僕に止めてほしかったのかもしれない。
――僕に……。
「真美ちゃんが死んだのは、あんたのせいじゃないよ」
雨の上がった昼下がり。僕と百合姉は昼寝している真由子ちゃんを英也さんに預けて、散歩に出ていた。散歩といっても僕が家に帰ると言い出して、ただ家に帰っているだけだった。百合姉がついてきたことに僕は何も言わなかった。
「真美ちゃんが死んだのは、あんたのせいじゃないよ」
百合姉は繰り返した。まるで諭すように。
「百合姉の言ったとおりだった」
僕は言った。
「大切なもの、僕は全部なくしちゃったよ」
「……」
「ねえ、百合姉」
「……なに?」
「どうして人は、過去にとらわれるんだろう」
「……」
「誰も過去に操られることなんてないのにね」
「公平……」
「あの時、僕があんなこと言わなかったら、真美は死なずに済んだのかな」
「……」
「あの時、真美を抱いてたら……」
「――あんたは、悪くないよ」
百合姉は呟いた。
「あんたは悪くない」
「大丈夫だよ」
「……」
「僕は、大丈夫だよ」
「……馬鹿」
「……うん」
少し強い風が僕たちを吹き付けた。その風が僕のほほをなでたとき、僕は初めて自分が涙を流していたことに気づいた。
悲しくなかった。辛くもなかった。
ただ、言葉にならない感情は涙になって僕のほほを伝い落ちていた。
ごめんなさい。
案外素直に謝れば物事は思うより簡単に収まるものだ、と僕は知った。ただ、それは僕が半月ほどの家出をしていたせいかもしれなかった。人間なんてよっぽどのことがあっても、日が経てば忘れてしまう。忘れなくてもそのとき感じたとおりの感情が持続するわけもない。よって僕はこれから予備校に通うことと、決してサボらないことを条件に家に戻ることを許された。
「これで、振り出しか」
僕は土手に寝転がって呟いた。
でも、どうしてだろう。なぜか二ヶ月半前までとは違う。なぜか馬鹿らしいとは思ってなかった。
僕は変わったのだろうか。もし変われたとしたのなら、それはきっと――。
ここだったな、と僕は思った。川べりをあてもなく歩いてたとき、あの時彼女は僕を呼び止めた。そして――。
「終わりにしなきゃな……」
明日から僕の新しい生活が始まる。
もう、後戻りは出来ないのだから。
久しぶりに訪れたそのアパートの前で僕は足を止めた。小さな門扉をくぐり、雑草の多い茂った場所を横切り、階段を上る。きっとぎしぎしと音を立てる床が、彼女に来客の存在を知らせただろう。
僕は彼女の部屋の前で足を止めた。そして、そのまま僕は動けなくなった。
きっと、真美が死んでもこうして僕が立っていられるのは、彼女がいたからだった。僕の中で一番大切な人は、あのときから真美じゃなくなっていた。彼女の前で泣いたあのときから、きっと――。
ドアは抵抗なく開いた。そして、僕の目には彼女の背中が映った。
懐かしいにおいがした。そこにあるものすべては、もう僕の手から離れているのに。
「久しぶり」
僕は部屋に上がって彼女の背中に言った。
「五日」
彼女はぼそりと呟いた。
「え?」
「謝りに来るのを決めるのに、五日もかかったのね」
「……うん」
僕は彼女と向かい合って座った。合鍵をちゃぶ台の上に置くと、彼女は顔を上げて僕を見つめた。
「いやな思いさせて、ごめん」
「これは?」
彼女はちゃぶ台の上のものを見て言った。
「別れよう」
「本気で言ってるの?」
「うん」
「どうして?」
「僕は君を傷つけた」
「そうじゃなくて」
彼女は僕を見据えて声を出した。
「え?」
「どうして、何も話してくれないの」
「なに、言ってるの?」
「お姉さんから全部聞いた。公平君と彼女のこと。彼女がマンションから飛び降りたことも」
「……」
「どうして、一人で全部背負おうとするの。辛いなら辛いって、何で私に言ってくれないのよ」
「……ごめん」
「約束したじゃない」
彼女は僕の手をとった。そして、言った。
「私は、あなたの前からいなくなったりしない」
「……」
「もう一人で背負い込まないで。お願いだから……」
「笑われると思ったからさ」
「え?」
僕は彼女の手を握って、微笑んだ。
「こんなこと話したら、笑われると思ったから」
「……そんな話聞いて、笑う女はいないよ」
「そう?」
「多分、ね」
「じゃあ、そんな話を聞いて笑わない女は、キスしてくれると思う?」
彼女は少し考える振りをした。そして、言った。
「多分ね」
僕たちは、一緒になって吹き出した。そして――。
確かなぬくもりを感じ合った。
日常の中に潜む静寂。
時間の流れを静かに感じるとき。僕はふと真美のことを思い出す。そして――。
「ねえー、公平おじさん。プール連れてってよう」
「あー、真由子ちゃん。あのねえ、僕はまだ二十歳にも満たない未成年なわけだよ。君から見ればまあ、おじさんかもしれないけど、世間から見ればまだ立派な青少年なんだ。それとねえ、僕はお勉強が忙しくてねえ――」
「えー、プール連れてってよう。お願いー。プール、プールゥー」
「でもねえ、多分そこの市民プールは人でいっぱいだよ。行っても満足に泳げないよ」
「やあだあー! プール行くのお! おうちに泊めてあげたじゃないー」
「……分かったよ。じゃあ、人のいない貸切で泳げるとこに行こうか」
「えー? そんなとこあるの?」
「あるよ」
「ほんとに? どこ? どこ?」
真由子ちゃんは目を輝かせて、声を上げた。
この子の目に宿るきらきらした輝き。そこに、君と同じ輝きを見つけた、なんていったら……真美、君は笑うのかな。
「ねえ、それってどこお」
真由子ちゃんは、僕の腕を引っ張りながら声を出した。
「よし、じゃあ行こうか。その代わり、ママには内緒だぞ?」
「うん! 約束する!」
僕たちは、手をつないで小学校までの道を並んで歩いた。
季節は夏。今日も太陽は、カンカンに僕たちを照らしていた。
了