Feel fear of the dead! 6
この病院は変わっている。病院というのは治療のための施設であって、患者を退院させることが目的のはずだ。なのに内側からは開かないロックにベッドから降りるだけで鳴り響くナースコール。そこに生きるリコはまるで籠の中の鳥。月なんて大層なもんじゃない。醜いよだかもいいとこだ。
「相変わらず真っ白だな、ここは」
後ろ手に窓を閉め、ぼーっと壁を見詰めているリコを見る。反応はない。オレの声など届いていない。椅子に腰かけ、少しだけ息を吐いた。
リコの薄い唇がかすかに動いている。何かをつぶやいているようにも見えた。
「・・・違うのよ。これは違うの。間違っているの。そうじゃない。全然違う。おかしい、おかしい。こんなのじゃない」
なにを言っているかは分からない。当然だ。2次元に生きる存在が3次元を知覚できないように、違う次元に生きているこいつをオレは理解することができない。その方法があるとしたらただ一つ、こいつがオレの次元に重なるところにいるときだけだ。
だが、そんなことは不可能。こいつのZ軸はオーバー100で固定されている。届くはずもない天体になっている。Z=0に絶望したアストラエアは宇宙へ飛んで星になった。
「飛んだ先は闇ではなくて真っ白な牢獄か・・・」
飛距離が全然足りねえよ。中途半端に飛んだりするからこんなところに囚われちまうんだ。
「あはは・・・。そっか、そうなのね・・・・・・」
笑みをたたえて何かをつぶやくリコの視界にオレは入る。そのくぼんだ眼球がオレの方へとシフトした。
「どうしてあなたがここにいるの?ここは間違っている場所なのに。そう・・・。あなたも間違っているのね」
憤怒と諦観の混じった声。オレは何かを返そうとして・・・・・・やめた。
「星は壊れる、人は死ぬ。そして鳥は地に堕ちる。そう、そういうことだったのね。間違ったこの世界ではそれが当たり前のことなのね」
生まれた星も生きる人も空を翔ける鳥もいつかは死ぬ。みな例外なく逃れようなく死ぬ。死後の自分に自我はなく、死後の自分に意味はない。だから意味を持つのは生きている間。それもあんな冷臓庫ではなくまともに思考できている間。こいつは生きているはずなのにその生を見ていない。見ているのは常に意味のない者。すなわち、死後の自分。死後の世界。
「あ、あはは、あはははははは!」
リコの手が傍のテーブルの上のプラスティックフォークを掴んだ。安全面を考慮して作られたそれを自分の首筋に勢いよくつき刺す。
「あ・・・・・・」
血が出る。しかし、吹き出ない。そんなあっさりとした死はすでに先回りされている。そんな簡単にこいつは死ねない。
ウウウウウウウウ
サイレンの用に鳴り響くナースコール。この音はオレの頭の中でしているのか、それとも実際になっているのかわからない。
「ホーク!!」
背後からトモさんの声がする。どうやら音は現実のもののようで、これは現実のもののようだ。
リコは動かない。フォークを首に指したまま微動だにしない。目は開いている。だが眼球は動かない。呼吸とともにフォークが揺れる。
「大丈夫だ、たいした外傷ではない。消毒液とガーゼと包帯を持ってこい。あと一応輸血用の血液もだ。大至急!」
トモさんがスピーカーに向かって叫ぶ。オレは何もできず、ただただぼーっとその様を見ていた。
しばらくしてリコの首からフォークが抜かれ、傷口はガーゼと包帯で覆われた。失神も一時的なものらしい。もともと病的に細い体だ。ほんの少しの刺激とほんの少しの出血だけで意識を保つことを妨げる。適切な治療さえ施せば大事には至らない。
病室の外でトモさんがオレを見る。
「お前でも駄目だったか。手詰まりだな。いっそのこと医療ミスに見せかけて殺してしまうか」
ため息交じりの言葉。その相手はオレではない。
「しばらくここには近づくな。あれの事は忘れることだ。別にお前が悪いわけじゃない。あれがああなるなんていつものことだ」
「わかりました」
一礼をして病室から離れる。自然と足は速くなった。
「ホーク」
トモさんがもう一度オレに声をかけた。
「納得いかないか?もう少し続けてみたいと思うか?」
オレは振り返って自嘲気味に笑った。いや、違うな。笑ってるんじゃねえな、これは。そう言う口に形になっただけだ。
「ごめんですよ、あんなの」
少しだけ小走りになりながら病院を後にする。できるだけ早く、できるだけ遠くに逃げたかった。リコから離れたいんじゃなく、リコから逃げたくなった。
最初にトモさんに紹介された時の言葉を思い出す。オレは少しだけ蒸し暑さが和らいだ東京の空気を肺に含んだ。
「なるほどな、あれは・・・・・・怖いわ」