Feel fear of the dead! 4
「おや?随分と浮かない顔ですね。いつもに輪をかけて不機嫌そうだ」
「そういうあんたはいつもと同じように楽しそうだな」
今夜は欠けに欠けた三日月。月光だけでは全然足らず、燭台には火が灯っていた。オレは扉を閉めていつも座る席に腰かける。
「ええ。生きるのはいつでも楽しい。その楽しさに強弱があるだけです」
「あんた、よっぽどの幸せ者かよっぽど頭おかしいかどっちかだな」
神父はいつも通り静かに笑う。仮面のように静かに笑う。
「さあ、どちらなのでしょうね。貴方はどちらだと思いますか?」
「さあな。楽しいと思ったことなんてねえから知らねえよ」
そう、そんなことは一度もない。何もかもがつまらなくてどこにいても息がつまる。誰も彼もが凡俗で世界はいつでも平凡だ。
「そんなことはないはずですよ。貴方は理想を求め過ぎているのです」
「理想?」
「そう。私にとって喜びとは0より大きいことを言います。しかしあなたは違う。貴方は千を越えないとそれを喜びとしないのです」
ふうん。基準の話か。
「でもおかしいだろ。千円くれるなら喜んでもらうが1円だったらキレるぜ」
馬鹿にしてんのか、と。
「私なら喜んでもらいますよ」
「・・・・・・」
いやしいな。神父のくせに。
「道行く人から1円もらうことはそう難しくもないでしょう。話しかける勇気があれば誰にもできることです。それを千回繰り返せば同じことではありませんか?」
「ちげーよ。1円もらうたび、俺は何かを失うんだ」
死んでもやるか、そんなこと。
「そういうことなのでしょうね。喜びというのはリスクがあるものなのですよ。それを支払ってでも手にするべきか。それは人の自由です」
「だったらオレは要らねえな」
自由なんて手にするだけ無駄だ。そんなもので片手をふさいでも何一つ得はない。
「だったら私はよっぽどの幸せ者なのですよ」
「なるほどね。だてに臀部じゃねえってか」
「まあお尻ではないでしょうね・・・」
私はただの神父ですからと神父は続ける。
「何の話でしたか。・・・そうそう、貴方が浮かない顔をしているという話でした」
「水に浮くか浮かないかを顔で判断できるのか?」
「茶化しますね。でしたら浮かばれない顔、というのはどうでしょう?」
「はっ、そりゃあそうだ。オレは何もしない。だから何の結果もないし、ましてや浮かばれるはずもねぇ」
原因がなければ結果はない。行動がなければ成功もない。だが、そこには何の失敗もない。だったら文句はないだろう。
「そうでもないでしょう。前にも言いましたが、こうして話している私には意味がある。もちろんあなたにもね」
「前にも言ったが、それがあんたである必要もオレである必要もない」
神父は少し息を吐いて苦笑する。
「変わりませんね、あなたは。彼女に触れれば少しは価値観が変動するかと思ったのですが」
「それはムリだな。あいつは触れようとしても触れられないし、話そうとしても話せないし、聞こうとしても聞こえないし、近づこうとしてもそこにはいない」
俺は立ち上がる。そろそろ月が天辺に来る時間だ。
「一つ、聞いてもよろしいですか?」
神妙な声で神父が喋る。オレは振り向かない。
「生きているのが苦痛なのに、私と違って喜びを求めず、彼女と違って死を選ばず、貴方はどうして生きられるのですか?」
オレは振り返ることもなく、その言葉の真意を咀嚼する。
「死にたくないからだ」
オレの人生で唯一の本音。間違いなくオレの根幹。それだけ言って教会を出る。見上げた先の三日月は光と呼ぶには頼りない。それでもオレはその光を頼りに上を目指す。
リコは月を見上げて手を上げようとした。しかし伸ばしきることはなく、「やっぱり駄目ね」と頭を振った。
「伸ばしてみればいいじゃねえか」
「無理よ、だってくらいもの」
「暗い・・・?」
確かにそれは三日月ではあるが、太陽光の反射でしかないが、それでも光源は光源だ。
「くらい、くらいわ本当に・・・。まるで醜い世界みたい・・・」
世界は偽り。蔓延る絶望。その中で唯一白い少女。だからこそ、リコはこの世にいられない。白はたやすく黒く染まる。白く輝くそのためだけにコイツは理性を失った―――。
「汚らしいわ、穢らわしいわ。どうしてあなたまでそうなの・・・?どうしてあなたまで私を置いて闇に染まるの―――?」
傍から見なくても頭のおかしな精神病患者。それでも当人は本気で語る。本気で世界の穢れを語る。
「月だって朱に交われば赤くなるってか?」
「違うわ。ごみの中にあればどんなものでもごみなのよ」
「ごみ、ね」
暗闇はけがらわしい、か。だとしたらこの都市を照らす光源は美しいのだろうか。わかんねえな。闇も光もオレにとってはただの現象だ。
「消えればいいのに。穢れにかどかわされ闇に染まるくらいなら、いっそきれいなままいなくなればいいのに」
「お前の様にか?」
染まることを拒否して壊れた自分のように世界も死ねばいいとこいつは言う。
「あなたもそう思うでしょう?だってあなたは誰よりも狂った世界を知っているのだもの。その翼で全て見てきたはずだもの」
「思わねーな。確かにオレは世界が腐ってることを知っている。だけどな、それでもオレは生きるぜ。なんでかしらねーけど、俺はこの腐った世界でも死にたくはないらしい」
そう、別に生きたいわけじゃない。ただ死にたくない、それだけ。
オレは死後を信じない。それでもなぜあの時そう思ったのか。脳みそさえ死んじまえば後のことなんてどうでもよかったはずなのに。
「わからない。わからないわ。貴方は私と同じ世界を見てるのに、どうして直視ができるの?どうして足が踏み出せるの?どうして空を羽ばたけるの?」
「はっ、足を踏み出すくらい、お前だって毎晩やってんじゃねえか」
「違うの。これは違うのよ。貴方には見えるでしょ。私は進んでいないでしょ?」
ストン
なんて音はしねえが、多分そんな冗談みたいな音のはずで、全てがただの茶番のはずだ。それが死を選ぶこと。考えてみればなんて滑稽な光景だ。
「はっ、ははは。・・・マジで笑えねえ」
天井の三日月は雲に隠され世界は闇を取り戻していた。
「なるほどな、確かに暗い」
オレはその闇をたっぷりと肺に吸い込み、その場所を後にした。