Show me the perfect world.... 1
ここらあたりに数多く点在する廃工場。神父が指差したのはそのうちの1つの屋上。そこには確かにほかにはないものがある。
外についている非常階段を上っていく。屋上には飛び降り防止用のフェンスがついていたが、こんなもの簡単に乗り越えられる。自殺するのに必要な労力なんてその程度のものだということだろう。
「今晩は」
か細い、それでいてなぜか明るさを感じさせる声。貯水タンクに腰かける少女は、まるでピースのかけたパズルのようにはかなげだった。
何かのポリシーを感じさせる真白い服に真白い肌。病的な細い手足。腰まで届く絹のような黒髪。
「ねえ、どうして月が欠けるのか知ってる?」
かけたパズルはオレを見て、それから空を見上げてそう唇を動かした。
「月が光るのは太陽光を反射しているからだ。そして地球の公転と月の衛星軌道があるからな、そりゃ欠けない方がどうかしてる」
「そんなことは聞いてないわ」
不機嫌そうな、しかしそれでいて抑揚のない声。まるでこの世の外から語りかけられているような。
「きっとね、あれは私なの。目も当てられないような世界を見ないようにしているの。でも、ひょっとしたら世界はいい世界なんじゃないかと思ってたまに顔をのぞかせて見る。そしてまた失望するの」
「世界に失望するというのには賛成だが、おかしくねえか?この場所じゃ月から人は見えねえぞ。コンクリートだけ見て何がわかるんだ?人が生きてるのはもっと下だ」
「そうね。じゃあもしかしたらあれは私じゃないのかも」
・・・こいつ、大丈夫か?
「でも、今日はきれいな月。今日の私がここに来たのはね、あの月と私、二つの月が一緒に飛べるかな、と思ったからなの。ううん。今日だけじゃない。いつもそう。私はいつもここに来る。いつでも一緒に飛びたくて、空を飛んでみるんだけど、いつも途中で落ちてしまうの」
ああ、はいはいなるほど。了解了解。大丈夫じゃないんだな。要するに末期症状。遠目にもはかなさが伝わる。月というよりは水面のようだ。ほんの小さな石を投げるだけで、あるいは少し小さな風が吹くだけで、鏡面のようなその均衡はたやすく崩れ去る。
「当たり前だ。人間には分不相応だからな。どうしても飛びたきゃ飛行機にでも乗るんだな」
「いやよ、そんなの。そんな檻のようなものに乗ったら世界の中にいられない。私は世界が好きなの。ううん、違うわ。私が好きなのはもっときれいになった後の世界。今のこの世界じゃ駄目」
「変わらねえよ、この世界は。お前がどれだけ願っても、腐ったものが食えるようにならないようにな」
腐っている。この世界は。オレたちは全部腐った器の中にいる。だから誰もが腐ってる。もちろんオレも腐ってる。それが現実。それが全て。それで終わり。
「・・・あなたは世界が嫌いなのね」
「好きになる要素がどこにある」
オレは考える間もなく答える。当然だ、こんなものは何十何百と自問自答してきたものなのだから。
「・・・・・・あなたはカンケルね。そして私はアストラエア」
「あ?」
なんだそりゃ。
「今日はきっと見えないわ。月が明るすぎるから。だから私は月が嫌い」
はいはい、星座のことか。カンケルはかに座だったか。アストラエアは・・・確か乙女座。いや、別の説の方が定説だったか?・・・まあいい。
「嫌いって、月はあんたなのにか?」
少女は初めてオレを見る。大きな双眸がオレを見下ろす。そして薄く笑った。
「ええ、そうよ。だから嫌い。いっそのこと静かに燃える六等星でいたかった」
「ふうん、なるほどな。だとしたらオレは六等星かもな。ここでは存在すらもできない。そんな存在。オレがいれるのは何もない世界だけだ」
「そう?私にはあなたがアルタイルに見えるわ。知ってる?夏の大三角の1つでわし座にある赤い星―――」
少女は再び空を見る。月しか見えない空を見る。
「残念ながら鳥違いだな。オレはイーグルじゃない。しがないただのホークだよ」
「同じよ。あなたは生まれながらにして強い翼を持っている。だから私と違ってあの月と一緒に飛ぶことができる」
うらやましいわ、と言う少女。よくわからない。この話がどこから始まり、今どこにあり、そしてどこに行くのかが。お互いに思いつくままにしゃべっている気がする。
「つまり、あんたとか」
「え・・・・・・?」
初めて、少女の表情が変わる。親が死んだと聞かされたような驚きの表情。いや、違うな。この壊れた少女は、たとえ親が死んだとしても表情を変えることはないのだろうから。
「あんたが月でオレが鳥、そうだろう?」
「ああ、そうか、そうかもね」
少女はゆっくりと、まるでどこにも力を込めていないかのように立ち上がる。それは、座っている絵から突然立っている絵へとスライドが切り替わったかのようだった。
「・・・・・・さようなら、大きな鳥さん。私は今夜も飛ばなくてはならないから」
そう言って、一歩踏み出す少女。
いや、おいちょっと待て!立ってるところは貯水タンクの上だぞ。一歩踏み出したら次にはコンクリートまでノンストップだ。
だが、頭蓋が砕け、脳髄がまき散らされる音は聞こえない。
「なんだ、それ・・・」
フェンス越しに下を見ると、少女がはねていた。オリンピックの体操選手のようにトランポリンで華麗に跳ねているのではない。まるで想定されていたように下に置かれていた完璧な衝撃吸収マットにぶつかって、それでも衝撃を殺し切れず意志のない人形のように跳ねたのだ。
オレは1つため息をついた。
・・・・・・なんて茶番だ。