The high world above the hell 1
「藤田さん、今月の家賃早く払ってちょうだい!」
必要以上に音の鳴る今や骨とう品と言っても間違えないスチール製のドアをたたく音で目が覚めた。六畳一間にユニットバスと一応のキッチン。押し入れで寝なけりゃどこで寝るんだバカやろう、とキレたくなるような狭さのアパート。こんなところでも大家はしっかりと金を取り立てに来る。
「ちょっと待ってよ、大家さん。今月はもう払ったでしょ」
今は金の持ち合わせがないのでとりあえず言ってみる。人生なんでもものはためしだ。
「あれえ?そうだったかしら」
なんて、今年で80・・・あれ?90だったか?まあ、ばあさんの年齢を覚えるなんて微分積分以上に脳細胞の無駄遣いなのでどうでもいいか。とにかく、確実にボケの始まっている大家は皺くちゃの頬に皺くちゃの掌を当てながら首をかしげている。
「そうだよ!ちょっと、しっかりしてよ」
もうオレの脳内ではオレの口を必死に応援している。なんせ1カ月分の家賃がかかっているんだ。
「そう言われればそうかも・・・。ごめんなさいね」
よっしゃーーー!
「そうそう、話は変わるけど。この前くれたお茶菓子、おいしかったわ」
くそっ、このばばあ、催促してやがる。だが、まあ、こちらは1カ月の家賃代(と言っても大した額じゃないけど)浮いたんだ、それくらいの優しさは見せてやるか。
「わかりましたよ。今度給料が出たら同じものないか探してみます」
買う、という明言は避ける。このばあさん、ぼけてる癖に変なところで記憶力がいい。いや、もしかしたらぼけてないのかもしれない。
この後に来るであろう雑談の嵐を切り抜けるためにスチール製のドアを閉める。またしても小うるさい音がした。
「ちっくしょう、今日は昼まで寝るつもりだったのに・・・」
何もやることないのに起きてるなんてエネルギーの無駄遣いだ。給料日までは無駄遣いはできない。そうは言っても起きてしまったものはしょうがない。とりあえず飯でも食おうかと財布の中を確認してみる。
890円―――
十分に死ねる金のなさだ。そりゃあ親に頼みこめば振込くらいはしてくれるだろうが、まだ大学に行っていると思っている親には後ろめたくて頼めない。こういうところのプライドだけは一級品なのだから、自分で自分にちょっと引く。
「しょうがねえ、ちょっと便利な財布君に登場を願うかね」
ため息をつきながら部屋を出た。鍵をかけるとき、やはり無駄にでかい音がした。
「やだ」
財布のひもは固い。そこらへんのおばちゃんたちの口元は見習うべきだと思う。
「なんでだよ!お前金持ちだからいいだろ!」
大学で知り合い、在学中に就職が決まってオレのほんの少し後に大学を辞めた友人に見放され、必死にすがりつく。こういうところにプライドはいらない。
「ちっ、あいかわらずけちな奴だぜ・・・」
今まで自分が踏み倒してきた借金の数々を全て棚に上げてつぶやく。ようはこの棚の上のものが今全部落ちてきたわけだ。
「いらっしゃいませ、あなたの名前を教えてください」
奥から出てきた見覚えのない女にマジで驚く。しかも美人。え?なんで、あんた金さえあればどうでもいいの?と思いつつとりあえず会釈をして名前を教える。
「フジタ、タカオ様、ですね。私はエリーです」
その名前を聞いて、ようやく理解する。
「これが巷で噂のメイドロボってやつか」
値は張るが、なんかいろいろ尽くしてくれるらしい。まだ料理をするほどの技術は確立されていないが、掃除や洗濯は完ぺきだ。合成音声は綺麗な声だし、シリコン製の皮膚でちゃんと表情も動く。
「だよな、お前に彼女ができる方が驚きだもんな」
ちょっと皮肉ってみるが、鷹揚に手を広げられた。金持ちと貧乏人では心のゆとりが違うらしい。
「すげえだろ、貸してやんねえけどな」
いらねえけどな。ただでさえ狭いボロアパートをこれ以上狭くされてたまるか。
「こんなもん買う金あったら上にマンションでも借りれるだろ」
ふかふかのソファを我が物顔で占領する。ふむ、なかなかの座り心地だ。
上のマンションは化け物みたいな値段だが、メイドロボもそれに劣らないはずだ。だったらこんな汚い所じゃなく、上に住んだ方がいいに決まってる。
「余計なプライドなんて持たなきゃもっと楽しく生きられるんだよ」
などと、雑草根性万歳なセリフが帰ってくる。要するにメイドがいる生活が幸せらしい。わからん。なにがわからんってこんな破綻者を採用し、もう半年も月給を与え続けている企業の神経がわからん。
「そりゃ、お前。オレの努力が認められたってことだろ。だいたいお前もオレに金せびってばっかいないでちゃんと働けよ。いまだにフリーター生活だろ?」
そのセリフ8回目。そりゃ正論だろうけど・・・と心の中で口をつぐむのも8回目。「わかったよ、じゃあな」と帰るのは何回目だったか。
「さようなら、フジタカオさん」
「・・・・・・」
ロボットに見送られるのと名前を間違えられるのは初めての体験。
とにかく、勝手に奴の家の冷蔵庫をあさって腹を満たしたので、今日1日は何とか生きていけそうだ。問題はあほみたいに暇な時間をどう過ごすか。人間っていうのはめんどくさい生き物で、空腹よりも退屈の方が死にやすい。その証拠が10年前の自殺者数。もうそりゃすごいもんだったらしい。当時オレは地方にいたから直接は知らないんだけど。
とにかく退屈はやばい。感染力の強い病原体のようにオレの体を徐々に蝕み始めている。というわけでオレは上に行ってみることにする。
第一空中都市東京。それがオレの住んでいる街の名前。人口激減の後、さみしがりやの人間たちは寄り添うように都会に集まった。国としての人口は半分近くになったのに、東京の人口は倍になったというのだから驚きだ。だが、知ってのとおり、東京の面積は小さい。ではどうするか。簡単だ。横に狭いなら上に広がればいい。
というわけで東京では化け物クラスのビルが高さを競い合うように作られ、それに合わせるように道路は天に向かって伸びていった。大概の商社や企業は上、と呼ばれる高い所にあり、煙よりも高いところが好きな金持ちどもはこぞって上に住まいを構える。まあ、利便性を追求していけば分からない話でもない。
下はごく普通の市民から、学生、貧乏人が住む世界。上の奴らにはスラムと揶揄されることもあるらしい。不快感はなはだしいが、不潔感も甚だしいので、わからないでもない。何が不潔かって21世紀が半分たっても人間が太陽をつくることはかなわないので、要するに日が差さないことだ。かと言って年中涼しいかと言えばそうでもない。うだるような暑さは密閉されたこの空間をさまよい続ける。まあ、オレが住んでいるようなボロアパートでもエアコンくらいはついているからさすがに死ぬことはないけど。
さて、今は必死に階段を上っている。何年か前につくられた日本で最も高いタワー。中心にエレベーターが通っているのだが、残念ながらそんなことに金は払えない。
「あー、なんで上ろうとか思っちゃったんだろ」
職務上、体をなまらせるわけにはいかないということを考えていたみたいだが、この繰り返される同じ光景を前にしてやる気だけが死んでいく。テレビで見たことのあるホイールの中のハムスターの気分。
「もうこの辺でいいか」
上る前は確か最上階まで行くつもりだったが、改めて考えるとあほらしい。一応太陽が見える位置まで来れたんだし、文句はないだろう。もともと誰が文句を言うわけでもないけど。
タワーの中層にある展望台。いや、台ではないか。とにかく360度ガラス張りのここならば周囲が全て見渡せる。オレは少し息を整えて、南東方向を眺めて見た。
故郷は見えない。はっきり言って見たくもない。あそこには何もなかったし、ここにも何もない。それを承知でここに来た。無から無を眺めているのだから、そこに何かが生まれるはずもない。
「あほくさ」
ため息とともによぎりかけた記憶を吐き捨てる。今にも未来にも意味がないように過去にだって意味がない。そんなもの捨ててしまうべきだ。
何も考えるまでもなく、道路を走る車を見る。十年ほど前にアメリカでつくられた浮く自動車の数は少ない。道路との摩擦を零にし、速く走れるという触れ込みだが、ほかの車も速く走らなければあっという間に渋滞に巻き込まれるので意味がない。そんなのに金を使うのは馬鹿じゃないかと思う。結局燃費のみをつきつめた昔ながらの自動車が仲良く並んで軍隊のように進んでいく。彼らは各々の戦場へ行くのだろう。
「うわっ、やべ!今日バイトだった」
どうやらオレも相当な馬鹿らしい。もう遅刻は必至。とはいえ最近心証が悪いので、少しでも早く行かなくてはならない。結局、行きは節約して使わなかったエレベーターをわざわざ使わなくてはならなくなった。財布の中身がさらに値引かれてしまったわけだ。