ベジー
生きるということ、死ぬということとは何だろうか。その二つの境目は何なのだろうか。勉強していく度にいつも考えさせられる。
私たち治療者側の人間が使う語のなかに、『ベジー』という単語がある。それはいわゆる植物状態になった人を指す。生体反応はあるが、意識レベルは低く、JCSと呼ばれる意識の尺度では三百に近づく。つねったりしてもまったく目覚めない、要するに脳死状態だ。一日中ベッドの上で寝ているまま、ほとんど何の反応もない。
ここで疑問。彼らは『生きて』いるのだろうか。映画や漫画、小説みたいに再び目覚める人などほとんどいない。眼を閉じたまま、ただ息をしているだけ。しかしこのような方々にも我々はリハビリテーションを施行しなければならない。それが仕事だ。寝ているだけでは筋力はみるみる低下してしまうし、心臓の機能もまた低下してくる。関節も拘縮をきたしてしまうこともある。
我々の仕事は身体(器)に命を吹き込むことだと言われていて、私もそう思っている。しかしその器がない場合、どうすれば良いのだろうか。
以前病院へ実習に行った際、ベジーの患者にお会いしたことがある。時おり口元を少しだけ動かすが、ほとんど動かない。排尿もカテーテルで行っている。そんな何の反応も見られない人に対しても私のバイザーは嫌な顔一つせずに声をかけ続け、必死に身体を(もちろん他動的に)動かしていた。私はそれをみていてなぜか涙が出そうになった。それを見てなぜ自分が泣きそうになっているのか、その理由が私にも分からなかった。
生きるということは、何か(目標)に向かって進むことだと、私は考える。この考えでいくと、ベジーの人たちは仮死状態になっているのだと考える必要がある。少し休憩しているだけ。
おそらく我々がやらなければならないことは『信じること』だ。青臭いセリフに聞こえるかもしれないが、他に言い方はない。万に一つも可能性はないかもしれない。このまま眼を開けないかもしれない。しかし、だからこそ信じたいと思う。祈ろうと思う。技術や知識だけでは患者を救えないことがある。だから我々は信じてリハビリを行わなければならない。その固く閉じられたまぶたが開く日を。その口から言葉が出てくる日を。
それくらいは許されるはずだ。そうでなければ、つらすぎる。