切断患者について
あなたは体のどこかを切断せざるを得なくなってしまった人にお会いしたことがあるだろうか。もし、そんな人と会ったら、あなたはどのように感じるだろうか。「かわいそう」そう思わないか。それはある意味正しい。彼らは切断した部分を失った以上、私たちが描く『普通』という状態ではなくなったのだから。
私は(目指す)職業上、そういった人にお会いする機会もある。以前、片腕がないサッカープレイヤーにも会ったことがあるが、その時は私も無知だったから、かわいそう、などと思ってしまった。しかし今では、かわいそうと思われることがかわいそうと思うようになった。
たんに事故といった外傷だけでそうなる人ばかりではない。最近では糖尿病によって、特に手足の末端の組織が腐って切断せざるを得なくなった人も、大勢いる。
しかし、切断したからといって可哀相だと思うのは間違っている。これは間違いない。
切断自体にはほとんど障害がない。といっても、何か道具を使うならば、の話だが。しかしこれらを使えば、いわゆる健常な人と同じように生きていくことが可能である。そういう面からいえば、脳卒中などで麻痺が残ってしまった人に比べればずっといい。彼らは手足があっても、満足に動かすことができなくなるのだから。この話はまた今度することにする。
私は義肢というものに感動した。膝より下を切断した患者が、装具をつけることで、これまでのように歩くことが可能になるのを目の前で拝見した。もちろん、並々ならぬ努力も必要だったが。その技術を一目見たら、あなたもきっと感動するはずだ。テレビなんかのはいけない。あれは作り込みすぎてわざとらしい。患者は本物でも、そこには必ず嘘が含まれている。『ここで感動しろよ』と強制されている気がしてしまうのだ。
今回の話はこれからの話につながってくるため、伝えたいことは結局のところ一言だけだ。
切断てのは、合併症さえなければ、充分克服できる障害の部類にはいると、私は思っている。
サブタイトルでは『患者』という言葉を使ってしまいました。これについて気分を害された方がいらっしゃいましたら、もうしわけありません。