ep.1_季節だ。
ふと思い出すことがある。この平凡でどこか物足りない日々の始まりを。
灰色の雲が薄く広がる空の下で駐屯地に咲く満開のピンクを横目に最寄駅まで走る。
この妙に落ち着いた高揚感は宿題のために徹夜した深夜テンションのせいだけではないと思う。
踏切の閉まる音が高校生活の幕開けを急かすように合図した。
ぼくにとって今日というは他クラスの奴らよりもほんの少しだけ重要であった。中高一貫であるうちの学校では中三からコース分け制度がある。ぼくの選んだコースは唯一クラス替えがない、つまり今日という日にこれから卒業までの四年間を過ごす友が決まるというのだ。
そんな高揚を抱えながら久しぶりに電車に揺られる。
普段読まない小説なんか取り出して読んでみる。先生に勧められた「原田マハ」の「ジヴェルニーの食卓」。なかなか面白い。
いつも通り電車からバスに乗り換え、いつもの景色が通り過ぎるなか、明らかいつも通りでない違和感に気づいた。
乗客数が尋常でない。通勤通学ラッシュとはいえ、ここまでおしくらまんじゅうになるのは、大雨でダイヤが乱れた日くらいだ。
至極蒸し暑い。制服の中で汗が流れるのを感じる。淀川の向こうから巨大な夏がズシズシ歩いてくるのが見えた。
ーーーー季節だ。
カッコつけた表現をしたかったが、自分でも恥ずかしいくらい単純な言葉しか思い浮かばなかった。
それからなんだか臭い。外からの排気ガスか、あるいは隣のおじさんのガスか。
そんなしょうもないことが頭をよぎったとき、スゥーッと冷たい風が顔を撫でた。
窓の隙間から時折入ってくる風がこの地獄の唯一の癒しであった。
こんな人混みのせいで、いつもより20分はやく着くバスに乗ったはずが、道路を挟んで学校の向かいにあるバス停に着いたのはチャイムの2分前。なかなかかわらない横断歩道の信号の赤がぼくらを焦らす。
一応押しボタン式のこの信号だが、押しボタンは反応しない。それでも焦りを紛らわすためか、あるいはまだ知らないのか、ボタンを連打する生徒もいる。
ぼくも昔やってたけど、意味ないよ、それ。もちろん言えるはずもない。言おうとも特に思わない。
更にぼくらを煽るように、ゆっくりと顔を出した青色に、定時の着席を諦めた様子の女子生徒のことは気にせず走り出す。ぼくのコースは三組であるのは知っているから、きっと十数分前まで、新学級を見ようとする生徒でごった返していたであろう、新クラス表掲示には見向きもせず走る。靴箱でチャイムが鳴り始めた。
それでも上靴の踵を踏んだまま階段を駆け上がる。中三の教室は去年度よりも一つ階が上がって四階だ。しんどい。
階段の上で新たな学年主任がぼくらに怒鳴る。
「何たらたらしてんねん!」
どこを見たらそう見えるのか甚だ疑問だが、それ以前にこっちはバスの遅延のせいで遅れているのだ。事情も知らずに朝から怒鳴るなうっとしい。心から溢れ出る愚痴は自分でも聞こえないくらいの、か細い「さーせん」になって漏れた。
やっと教室に着く。
馴染みの顔も見慣れない顔も確認できぬまま白板の座席表に名前を探す。
先生も一緒に探して教えてくれた。
ぼくの名前を知っているのが意外だった。
息切れのまま靴を履き直しながら号令に従って礼をする。
これまでの二年間、散々ぼくを苦しめた遅延でまた新たな四年間が始まってしまった。
担任が軽く自己紹介で滑ったあと、体育館へ移動した。
式典は淡々と進んだ。一時間弱に及ぶ恒例の校長の長話もこの学校三年目にして慣れつつあるのが悔しい。
教室に帰ると、唐突に休み時間を与えられた。
こういう新しい環境で突如始まるコミュ力対決みたいな時間がぼくのような人種には一番きつい。
同じことを思っているであろう同人種が数人きまり悪そうに席に座っていて、そういうのを考えたこともないような奴らが、楽しそうに談笑していた。
こういう区別の仕方は少し、捻くれすぎだろうか、いやでもいくら綺麗事を並べても学生社会とはそんなもんだろう。
もっとも、今回に限ってはこの差を生み出しているのはコミュ力だけではないらしい。中学一年生の頃、変わり者や頭の切れる奴がなぜか集中して一年四組にいて、さらに異常に仲が良いという噂を聞いたことがあったが、偶然か必然か、このコースにはやけに一年四組出身が多い。
ぼくやぼくの同人種は、男女も厭わず下の名で呼び合うような、その既に形成し熟されたコミュニティにもはや怯えていた。
ただ同人種とか言っておきながら、申し訳ない、ぼくは諸君ほど路頭に迷ってはいないよ。
ぼくには去年から同じクラスで、ずっと仲良くしている甲斐がいる。所謂コミュ力お化けで、"陽キャ"の権化みたいなやつ。ぼくは自分から誰かに話しかけるような力はないが、相手からくれば意外と喋れる方なので、頻繁に話しかけてくれる甲斐みたいなやつはとてもありがたい。
今日もきっと。
ん?あれ?
甲斐はもう既に何人か友達ができてそちらと談笑しているようだった。
あまりのコミュ力の差に切なくなって一人で吹き出した。近くで本を読んでいた同種族に軽蔑の目を向けられて我に帰った。
きっと誰も気にしていなくて、自分が思っているだけなんだろうとは分かっていながらも、ぼっちでいるというのは居心地の悪いもので、誰かに見られている気がしてどこか気が緩めない。特にすることもないから中庭を見つめるエモい男を装ってみたり、ぼっちとか気にしませんから、みたいな顔で本を読むふりをしてみたり。
心優しき友はそんな哀れな少年に気づいてか、ぼくのところにも来てくれた。
来てくれた、とか思ってしまっている己の受け身姿勢を改めて不甲斐なく思った。
「うぃっす、おはよう」
「おはよう、流石、馴染むの早いね」
「いやー、最初頑張らないとやばいかなって」
「甲斐もコミュニケーション頑張るとかあんだ」
「いや、ないかも」
「ですよねー」
ぼっち回避に安堵しながら、特に目的も中身もない、学生らしい会話をしばらくしていると、担任が新学期の配布物らしきものを持って教室に入ってきた。
「じゃあまずは自己紹介からしていきましょうか。」
ーーーーグキッ
自己紹介という単語を皮切りに、こんなよくわからない擬音語でしか形容できないほど激しく、ぼくの鼓動は動き始めた。
日葛という名字のおかげで教壇に立つのはもうしばらく先のようだが、そんなことは関係ない。いずれ来る、全視線が己に向く瞬間が恐ろしく、手汗が止まらなかった。
もちろん特にカッコをつけたいとかではない。爪痕を残す必要もない。ただひたすらに好印象を残す必要がある。決してマイナスの印象を与えてはならない。さほど難しい話ではないとかいう人間が多くいるのも知っている。そして君たちがぼくのような人種を理解できないのも知っている。とにかく自己紹介というイベントはやはりヤバイのだ。
そんな状態でも他人の紹介は聞かなければならない。人としてとか、そんな綺麗な話ではなく、この既に半分形成されていると言っても過言ではない、三組という社会に溶け込むには奴等を知る必要があるのだ。頭には全然入ってこないが、それでも一人一人、名前と好きなものと一言コメントを頑張って聞いた。
「きたーー」
教壇に立った瞬間、教室の端々からそんなひそひそ声が飛び交うような男がいた。
「ん゛ん゛」
咳払いとかとも少し違う、どこから出たかもよくわからないそんな音を男が発すると、
「トムやなー」
「トム節がくるー」
教室が、正確にいうと"四組勢"から笑いが聞こえてくる。
どうやら彼はトムと呼ばれているようで、この"四組勢"の身内のりの中心人物の一人のようだった。
彼は教壇で一言
「私は生まれ変わりました。」
名前も言わない意味不明な自己紹介に、流石にぼくも笑った。無論"四組勢"は爆笑。
過去二年の間に、ぼくの知らない何かを彼はしでかしたのかもしれない。
四組勢のみが理解したその言葉の真意をぼくが知る由もないが、少なくとも彼は、どうやら変人であった。
それがトムとの、そしてこのクラスとの最初の記憶だ。
今思えば、あの教室にいた誰もが少しずつ変だった。




