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3時間の奇跡 〜煤だらけの錬金術師は、公爵からの【自分探し】依頼から逃げられない〜  作者: 茗子


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6/6

最終話 月下の告白と、引き裂かれる氷の公爵

王宮の絢爛豪華な大広間。数多のシャンデリアが眩い光を放ち、オーケストラが奏でる優雅なワルツの調べが、着飾った貴族たちの間を滑るように流れていく。

 しかし、そのフロアの中心で踊る二人の周りだけは、まるで目に見えない熱を帯びた結界が張られているかのように、周囲の喧騒から切り離されていた。

「ユ、ユリウス様……。あの、少し、近すぎませんか……?」

 ルクレツィアは、自分の腰を抱き寄せるユリウスの腕の力強さに、息を詰まらせた。

 社交ダンスの一般的な距離などとうに無視されている。彼の逞しい太ももがステップを踏むたびにルクレツィアのドレスの裾を割り、布越しに彼の脚の筋肉の動きや、異常なほどの体温が直接伝わってくるのだ。

 見上げれば、ユリウスの切れ長で美しい青い瞳が、逃げ場のない至近距離から彼女を見下ろしている。かつて「氷の公爵」と恐れられた冷ややかさは微塵もない。そこにあるのは、燃え盛るような青い炎と、むき出しの独占欲だけだった。

「離れるなと言ったはずだ。お前と俺の間に、紙一枚すら挟ませる気はない」

 音楽に合わせて優雅にターンを決めながら、ユリウスは低く掠れた声で囁いた。

 その吐息がルクレツィアの耳たぶを掠め、彼女の背筋にゾクゾクとするような甘い痺れが走る。

 周囲の貴族たちは、遠巻きに二人を見つめてヒソヒソと囁き合っていた。

『あのような絶世の美女、一体どこのご令嬢だ?』

『公爵閣下が、あんなにも情熱的な目をして女性を抱き寄せているなんて……』

 好奇と羨望、そして男たちからの飢えたような視線。

 ルクレツィア自身は、自分がただ「丁寧に煤を落としてドレスを着ただけ」の平民の錬金術師だとわかっている。だからこそ、この状況が恐ろしくてたまらなかった。魔法のシロップを使っていた時とは違う。今の彼女には、3時間のタイムリミットも、逃げ隠れするための「ルナ」という仮面もないのだ。

「ユリウス様、皆が見ています。私のような平民が、こんなに目立ってしまっては……」

「見させておけ。お前の美しさに当てられて、馬鹿共が目を剥いているだけだ。だが……」

 ユリウスは言葉を切ると、ルクレツィアの腰をさらに強く引き寄せ、彼女の身体を完全に自分の胸板へと密着させた。

「誰一人として、お前に指一本触れさせる気はない。お前のこの深緑のドレス姿も、その滑らかな肌も、俺以外の男の視界に入ることすら腹立たしい。……いっそ、今すぐこのフロアの灯りをすべて叩き割ってやりたい気分だ」

「なっ……!?」

 物騒すぎる公爵の言葉に、ルクレツィアは目を丸くした。

 彼が血眼になって探している運命の女性は『黄金の髪のルナ』のはずだ。それなのに、なぜ目の前の彼は、ただの錬金術師である自分に対して、ここまで狂おしい執着を見せるのか。

 もしかして、私がルナだと気付いているのだろうか。いや、それなら「お前がルナだったのか」と問い詰めてくるはずだ。彼は気付いていない。気付いていないまま、ルクレツィアという存在そのものに、完全に理性を狂わされている。

 ドクン、ドクンと、重なり合った二人の胸から、早鐘を打つような心音が伝わってくる。

 ルクレツィアの心臓は、罪悪感と、抑えきれない恋心で張り裂けそうだった。

 その時だった。

 曲が間奏に入り、二人のステップが緩んだ一瞬の隙を突いて、一人の若い貴族の男が歩み寄ってきた。派手な金糸の刺繍が入った夜会服を着た、自信ありげな伯爵家の三男坊だ。

「公爵閣下。ご機嫌麗しゅう。いやはや、今夜の閣下のお連れ様は、この会場のすべての花を霞ませるほどの美しさだ。……どうでしょう、私にも一曲、その美しいご令嬢と踊る栄誉を頂けませんか?」

 男は愛想よく笑いながら、ルクレツィアへ向かって気取った手つきで手を差し出した。

 ルクレツィアが戸惑って後ずさろうとした、次の瞬間。

 ピキリ、と。

 比喩ではなく、フロアの床の石畳が凍りつくような音がした。

「……失せろ」

 ユリウスの口から紡がれたのは、地獄の底から響くような、絶対零度の声だった。

 差し出された男の手を視線だけで切り落とすかのように、ユリウスの青い瞳が恐ろしい殺気を放つ。

「俺の女に、その汚い手を向けるな。三秒以内に俺の視界から消えなければ、貴様のその腕を肩から引き抜いて、庭の猟犬の餌にしてやる」

「ひっ……!?」

 氷の公爵が放つ、正真正銘の殺意。その場にいた誰もが息の根を止められたように硬直した。

 声をかけた若い貴族は、顔面を紙のように蒼白にさせ、ガチガチと歯の根を鳴らして「ひぃっ、も、申し訳ありません!!」と悲鳴を上げながら、無様な足取りで逃げ去っていった。

「ユ、ユリウス様……! あんな言い方をしなくても……」

「駄目だ。理性が保てん。お前が他の男に目を向けられるだけで、俺の中の何かが完全に壊れそうだ」

 ユリウスは荒い息を吐き出すと、ルクレツィアの手首を強く握りしめた。

「来るぞ。ここは息が詰まる」

 彼は周囲の貴族たちが道を空けるのも構わず、ルクレツィアを強引に引きずりながら、ダンスフロアからバルコニーへと続く大きなガラス扉へ向かって歩き出した。

 華やかな光と音楽が遠ざかり、二人は夜の闇と冷たい空気が支配する、人のいないバルコニーへと出た。

❇❇❇

 バルコニーには、静寂だけが満ちていた。

 眼下には王宮の広大な庭園が広がり、夜風に乗って甘い薔薇の香りが漂ってくる。空には見事な満月が浮かび、青白い月光が、大理石の床を冷たく照らしていた。

 ルクレツィアは、ユリウスに手を引かれたまま、バルコニーの隅、手すりの近くまで連れてこられた。

 バタン、と。背後で重いガラス扉が閉まり、完全に二人きりの空間になる。

「ユリウス様、あの……」

 ルクレツィアが恐る恐る口を開こうとした瞬間、ユリウスが振り返り、彼女の身体を大理石の手すりへと追い詰めるように、ドンッと両手をついた。

 いわゆる「壁ドン」ならぬ「手すりドン」の体勢。逃げ場を完全に塞がれ、ルクレツィアは息を呑んで彼の顔を見上げた。

 月光に照らされたユリウスの顔は、ひどく苦しげに歪んでいた。

 いつもは完璧に整えられている漆黒の髪が、夜風に吹かれて乱れ、その隙間から覗く青い瞳が、助けを求めるように激しく揺らいでいる。

「……お前は、本当に残酷な女だ」

 絞り出すような、ひどく掠れた声。

 ユリウスは、片手を大理石の手すりから離し、ルクレツィアの頬へとそっと触れた。手袋を外した彼の素手の熱さが、夜風に冷えたルクレツィアの肌に火傷しそうなほど直接伝わってくる。

「残酷って、何がですか……。私は、貴方に言われた通りに、煤を落としてドレスを着てきただけです……」

「それが残酷だと言っているんだ、ルクレツィア」

 ユリウスの長い指先が、彼女の頬から耳たぶ、そしてうなじへと滑り落ちる。

 ルクレツィアは身をすくませ、ギュッと目を閉じた。

「俺は……俺の命を救い、俺の魂を奪った『ルナ』を探し出し、彼女に一生の愛を誓うと決めていた。彼女だけが、俺の人生のすべてになるはずだったんだ」

 ユリウスの言葉に、ルクレツィアの胸の奥がチクリと痛む。

 そうだ。彼はルナを愛している。私が変身薬を使って作り出した、あの偽りの姿を。

「だが……駄目だ。お前の顔を見るたびに、お前がその深緑のドレスで俺に微笑みかけるたびに……俺の中のルナへの誓いが、音を立てて崩れ落ちていく」

 ユリウスは、まるで自らの罪を告白する懺悔者のように、苦悶の表情でルクレツィアの肩口に顔を埋めた。

「お前が他の男に見られるだけで、気が狂うほど嫉妬する。ルナを探さなければならないのに、頭の中はお前のことでいっぱいだ。……煤だらけのお前をこの手で洗い流し、極上の絹で包み込み、誰の目にも触れない場所に閉じ込めてしまいたいという、醜い欲望に支配されている」

「ユリウス、様……っ」

「俺は最低な男だ。あんなにも美しい奇跡を見せてくれたルナを裏切り、目の前にいるお前を手に入れたくてたまらない。……どうすればいい、ルクレツィア。俺は、お前を愛してしまった」

 夜のバルコニーに、氷の公爵の、血を吐くような告白が溶けていく。

 ルクレツィアは、頭の中が真っ白になった。

 ユリウスが、ルナではなく、ルクレツィア自身を愛していると言ったのだ。煤だらけで、女を捨てて生きてきた自分を。不器用で、口が悪くて、でも自分のことを一番に守ろうとしてくれた、この圧倒的な美貌の男が。

 喜びで、涙が溢れそうになる。

 だが、それと同時に、自分自身が作り上げた『ルナ』という嘘が、愛する彼をここまで苦しめ、彼に「自分は最低の裏切り者だ」という罪悪感を植え付けてしまっているという事実に、ルクレツィアの心は粉々に砕け散りそうだった。

(……ごめんなさい。ごめんなさい、ユリウス様)

 ルクレツィアは、震える両手をゆっくりと持ち上げ、自分を抱きしめるユリウスの広い背中へと回した。

「ユリウス様……。貴方は、最低なんかじゃありません」

「ルクレツィア……?」

 顔を上げたユリウスの瞳に、涙で潤んだルクレツィアの青い瞳が真っ直ぐにぶつかる。

 もう、嘘をつき続けることはできない。これ以上、彼を苦しめるわけにはいかない。

「……聞いてください。貴方が探している『ルナ』という女性の、本当の秘密を」

 月光の下、ルクレツィアはついに、自分が隠し続けてきた最大の秘密を打ち明ける決意を固めた。

❇❇❇

夜の王宮のバルコニー。

 青白い月光が大理石の床に冷たい影を落とし、遠くから微かに漏れ聞こえるオーケストラの優雅なワルツの調べだけが、この世界に取り残された二人の時間を繋ぎ止めていた。

 ユリウスは、自分の胸倉を掴むようにして苦悩を吐露し、静かに項垂れている。

『俺は最低な男だ。あんなにも美しい奇跡を見せてくれたルナを裏切り、目の前にいるお前を手に入れたくてたまらない』と。

 その血を吐くような告白は、ルクレツィアの心臓を鋭い刃でえぐるのと同時に、どうしようもないほどの愛おしさで彼女の胸を満たした。

(この人は、私が作り上げた幻の女性への義理立てのために、ここまで自分を責めて、苦しんでいる)

 これ以上、大好きな人を嘘で縛り付けることはできない。

 ルクレツィアは、ギュッと目を閉じ、小さく震える息を吐き出した。そして、自らを抱きしめるユリウスの広い背中に回していた手に、ぎゅっと力を込めた。

「……聞いてください。貴方が探している『ルナ』という女性の、本当の秘密を」

 静かな、けれど決して揺るがないルクレツィアの声に、ユリウスの身体が微かに強張った。

 彼は顔を上げず、ただ彼女の華奢な肩口に額を押し付けたまま、低く掠れた声で応じる。

「秘密、だと……? 彼女は、お前の幼馴染なのだろう。これ以上、俺に彼女の美しい思い出を語らないでくれ。俺の決意が、完全に砕け散ってしまう前に」

「違います」

 ルクレツィアは、ユリウスの肩を押し返し、真っ直ぐに彼の青い瞳を見つめ返した。

 月光に照らされた彼女の深緑のドレスが、夜風に煽られてさわさわと絹の衣擦れの音を立てる。

「ユリウス様。……ルナという名前の女性は、この世界のどこにも存在しません」

「……なに?」

 ユリウスの氷のような青い瞳が、怪訝そうに細められた。

 ルクレツィアは、震えそうになる自分の両手を胸の前で強く組み合わせ、自らが犯した最大の罪を、一つ一つ言葉にして紡ぎ始めた。

「貴方が闇のオークションで出会い、そして猛毒の迷霧の広場で再会した、黄金の髪の令嬢。……あれは、私が錬金術の極致として作り上げた、奇跡のシロップ『イマージュ・セルフ』がもたらした、一時的な姿です」

「シロップ……? お前はあの夜、工房で確かに言っていたな。細胞の不純物を一掃し、本来の最も美しい状態を物理的に引き出す薬だと。だが、あれは……」

「はい。あれを飲んだのは、他ならぬ私自身です」

 沈黙が、バルコニーに降りた。

 風の音さえも消え失せたかのような、痛いほどの静寂。

 ユリウスは、ルクレツィアの言葉の意味を脳内で反芻しているのか、ただ瞬きもせずに彼女を見下ろしていた。

「私には、どうしてもあのオークション会場へ入る必要がありました。貴方の依頼を完遂するために。でも、いつもの煤だらけのローブでは、到底中には入れない。だから、あの薬を飲んだんです。タイムリミットは、たったの三時間。魔力が尽きれば、元の煤だらけの私に戻ってしまう。だから、私はあの日、貴方の腕の中から逃げ出しました」

 ルクレツィアの瞳から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちた。

 それは月光を反射して、まるで本物の宝石のように煌めきながら、彼女の白い頬を伝っていく。

「猛毒の霧が街を覆った夜も……本当は、私があの広場に向かったんです。貴方が、私を庇って外に出してくれなかったから。……どうしても中和剤を定着させたくて、もう一度あの薬を飲んで、貴方の元へ走りました」

「…………」

「私とルナの背格好が似ているのも、瞳の色が同じなのも、偶然ではありません。私が、ルナだからです。……ごめんなさい、ユリウス様。貴方がずっと血眼になって探し求めていた運命の女性は、最初から存在しなかった。ただの、煤だらけの錬金術師の、三時間だけの幻だったんです」

 言い終えると同時に、ルクレツィアは深く頭を下げた。

 涙が次々と大理石の床に落ちて、黒い染みを作っていく。

 怖い。

 彼がどれほどルナを神聖視し、愛していたかを知っているからこそ、その正体が自分だと知った時の失望と怒りが恐ろしかった。

「俺を騙していたのか」「あの美しい思い出を返せ」と、彼から冷たい蔑みの目を向けられるくらいなら、いっそこのままバルコニーから飛び降りてしまいたいとさえ思う。

 しかし。

 ルクレツィアの予想に反して、ユリウスからは怒声も、冷たい拒絶の言葉も降ってこなかった。

 ただ、信じられないものを見るような、ひどく掠れた声が、夜気に溶けた。

「……お前が、ルナだった……?」

 ユリウスは、ゆっくりと一歩、ルクレツィアへと近づいた。

 その足取りは、ひどくおぼつかない。彼はルクレツィアの震える肩を両手で掴み、強引に彼女の顔を上げさせた。

「ルクレツィア。……もう一度、言ってみろ。お前があの夜、俺とワルツを踊り、猛毒の広場で俺と共に中和剤を打ち込んだ、あのルナだと言うのか?」

「……はい」

 涙で滲む視界の中、ユリウスの顔を真っ直ぐに見つめ返す。

 その瞬間、ユリウスの脳内で、今まで不自然に噛み合っていなかった無数のパズルのピースが、恐ろしいほどの勢いで一つの絵を完成させていく音がした。

 初めてルナを抱き寄せた時、彼女から微かに香った、薬品と甘い花の混じった匂い。

 工房のソファで眠りこけていたルクレツィアの首筋から香った、それと全く同じ匂い。

 宝石をルクレツィアの鎖骨に当てた時に感じた、あの夜のルナと寸分違わない、滑らかで温かい肌の感触。

 そして何より――ルナに対して抱いていた、魂が焼き切れるような情熱と、目の前のルクレツィアに対して抱いていた、どうしても手放したくないという深い執着。

(俺は……同じ女に、二度恋をしていたというのか)

 ユリウスの目が見開かれ、その青い瞳の奥で、カッと凄まじい熱量の炎が燃え上がった。

 絶望でも、怒りでもない。

 それは、自らを縛り付けていた鎖が完全に砕け散り、圧倒的な歓喜と、狂気じみた安堵が入り混じった、すさまじい感情の爆発だった。

「……ははっ」

 ユリウスの口から、微かな笑い声が漏れた。

 それは次第に大きくなり、やがて彼は、片手で自分の顔を覆いながら、肩を震わせて低く笑い始めた。

「あはは……っ、はははははっ!!」

「ユ、ユリウス様……?」

 突然狂ったように笑い出した氷の公爵に、ルクレツィアは戸惑い、怯えたように身をすくませた。

 あまりのショックに、正気を失ってしまったのだろうか。

「ユリウス様、ごめんなさい……! 私、貴方を騙すつもりは……ただ、入り口で追い返されないように、あの薬を……っ」

「謝るな」

 ピタリと笑いを収めたユリウスが、顔を覆っていた手をどけた。

 その顔を見た瞬間、ルクレツィアは背筋が凍るような、けれど同時に全身が燃え上がるような、強烈な悪寒と熱を同時に感じた。

 ユリウスの青い瞳は、もはや理性の欠片も残していなかった。

 そこにあるのは、純度百パーセントの、むき出しの『飢え』と『独占欲』。獲物を完全に自分のテリトリーに追い詰めた、極上の猛獣の目だった。

「あ、あの……?」

 後ずさろうとしたルクレツィアの腰を、ユリウスの逞しい腕が、先ほどまでのワルツの時よりもさらに暴力的なほどの強さで引き寄せた。

「きゃっ……!」

「謝る必要など、どこにある」

 ドンッ、と二人の身体が密着する。

 ユリウスはルクレツィアの顎をもう片方の手で強引に持ち上げ、逃げ場のない至近距離から彼女を見下ろした。

「俺は今、この人生で最大の絶望と罪悪感から解放されたんだぞ。……愛するお前を手に入れるために、愛するもう一人の女の幻を殺さなければならないという、あの地獄のような苦しみからな」

「……え?」

 ルクレツィアの脳が、彼の言葉の熱量に追いつかない。

 ユリウスは、親指でルクレツィアの頬に残る涙の痕を乱暴に拭い去り、甘く、ひどくねっとりとした声で囁いた。

「お前がルナだった。俺が狂おしいほどに探し求めていたあの奇跡の令嬢は、毎日俺の目の前で、煤だらけの顔をして薬を煮込んでいたお前だった。……これほど痛快で、これほど愛おしい真実が他にあるか」

「怒って、いないんですか……? 私が、ルナのふりをして貴方を騙していたのに」

「怒るわけがないだろう。むしろ、感謝しているくらいだ」

 ユリウスの顔が、ギリギリと唇が触れ合うほどの距離まで近づく。

 彼の熱い吐息が、ルクレツィアの震える唇にかかった。

「お前は、俺の前に現れた神聖な女神であり、俺の隣で無防備に眠る煤だらけの小鳥でもあった。俺が愛した二つの魂は、最初からお前という一人の女の中に存在していたんだ。……ああ、神に感謝しなければな。これで俺は、なんの罪悪感も抱くことなく、お前のすべてを、骨の髄まで俺のものにできる」

「ゆ、ユリウス、様……っ」

 彼の言葉に込められた、常軌を逸した重すぎる愛情。

 それはもはや、ただの恋心などという可愛らしいものではない。ルクレツィアという存在そのものを、世界から切り離して自分の腕の中だけに永遠に閉じ込めてしまいたいという、狂気にも似た執着だった。

「もう逃がさないぞ、ルクレツィア。三時間のタイムリミットなど、俺が力ずくで引きちぎってやる」

 ユリウスはそう宣言すると同時、ルクレツィアの反論を一切許さない強引さで、彼女の唇を自らの唇で完全に塞いだ。

「んっ……!?」

 それは、氷の公爵が長年抑え込んできたすべての情熱と、ルナへの飢え、そしてルクレツィアへの庇護欲が、一気に決壊した瞬間だった。

 優しく触れるようなキスではない。彼女の息吹をすべて奪い尽くし、彼女の存在を自分の中に刻み込むような、深く、熱く、圧倒的な口付け。

「……ん、ぁ……っ、ユリウス、様……っ」

 ルクレツィアは、ユリウスの広くて硬い背中に回した手を、どうすることもできずにただ強く握りしめた。

 腰を抱く彼の手は熱く、彼女の深緑のドレスの背中を這うように撫で上げる。彼の舌が強引に彼女の唇を割り、甘く痺れるような熱が体内へと流れ込んでくる。

 息が続かず、ルクレツィアが苦しげに身をよじると、ユリウスはわずかに唇を離し、繋がった銀の糸を夜風に切らせた。

「はぁっ、はぁっ……」

「……お前は、本当に愚かで、愛おしい女だ」

 荒い息を吐くルクレツィアの赤く濡れた唇を、ユリウスは親指でなぞりながら、獲物を完全に仕留めた捕食者のような、ひどく甘く危険な笑みを浮かべた。

「自分がどれほど危険な真実を口にしたか、わかっていないのだろう。……自分がルナだと明かした以上、俺がお前をこのバルコニーから帰すとでも思っていたのか?」

「……えっ?」

「今夜、お前をこのまま俺の屋敷へ連れ帰る。……煤だらけの錬金術師としての日常など、二度と送れると思うな」

 完全にたがが外れた、氷の公爵の極上の溺愛と呪縛。

 大理石のバルコニーに、逃げ場を失ったルクレツィアの甘い悲鳴が、夜風に溶けて消えていった。

❇❇❇


 王宮のバルコニーで、逃げ場のない熱烈な口付けを落とされた直後。

 ルクレツィアは、文字通りユリウスの腕に抱え上げられ、夜会の会場に戻ることすら許されないまま、王宮の裏口に待機していた公爵家の豪奢な馬車へと押し込まれていた。

「ゆ、ユリウス様……っ、降ろしてください! 私、まだ心の準備が……それに、工房の火の始末もしてきていないんです!」

 車室の豪奢なベルベットの座席。ルクレツィアは向かいの席に座ろうとしたが、ユリウスの強靭な腕がそれを許さず、彼女は彼の逞しい膝の上に横向きに座らされるという、極めて恥ずかしい体勢で完全に拘束されていた。

「暴れるな。馬車が揺れる」

 ユリウスは低く甘い声でそう囁くと、ルクレツィアの細い腰に腕を回し、逃がさないとばかりに自分の胸板へと彼女の背中を密着させた。

 彼の大きな手が、ルクレツィアの深緑のドレスの裾から覗く足首をすくい上げ、彼女の自由をすっかり奪い去る。密室の車内には、ユリウスの冷たくも熱を帯びた香水の匂いと、ルクレツィア自身の甘い香りが濃密に混ざり合っていた。

 窓の外では王都の華やかな街灯が流れていくが、この馬車の中だけは、まるで外界から完全に切り離された鳥籠のようだった。

「工房の火の始末なら、すでに俺の影の護衛に命じて完全に消火させてある。戸締まりも完璧だ。お前が気にする必要は、微塵もない」

「えっ……? 影の護衛って、いつの間に……」

「俺は常に、お前の周囲に最精鋭の騎士を潜ませていたからな。あの悪徳商人のような輩が、二度とお前に近づかないようにな」

 さらりと恐ろしい過保護ぶりを告白され、ルクレツィアは絶句した。

 自分が知らない間に、あのカビ臭い地下工房の周囲が、王国最強の公爵の私兵によって完全に包囲され、守り抜かれていたというのか。

「ユリウス様……貴方は、本当に……」

「俺は、自分の手に入れたものを絶対に手放さない主義でね。それが、俺の魂を二度も狂わせた女となれば、なおさらだ」

 ユリウスの長い指先が、ルクレツィアの結い上げた黄金の髪をそっと撫で、美しい夜会巻きを固定していたピンを、いともたやすく引き抜いた。

 ハラリ、と。月光を吸い込んだような美しい金糸の髪が、ルクレツィアの華奢な背中へと滝のようにこぼれ落ちる。

「あっ……」

「……やはり、お前にはこの髪がよく似合う。あの夜、猛毒の霧の中で俺の前に駆けつけてくれた時の、あの奇跡のようにな」

 ユリウスは、こぼれ落ちた彼女の髪のひと房を掬い上げ、自らの唇へと寄せた。

 まるで神聖なものに祈りを捧げるように、その黄金の髪に深く、長く口付ける。その所作の一つ一つに、隠しきれないほどの重い執着と、気が狂うほどの愛情が込められていた。

「もう、煤で汚す必要はない。髪を切り刻む必要もない。……俺が、お前のすべてを守り抜く。誰一人として、お前を笑うことも、不当に扱うことも許さない。だから、ルクレツィア」

 ユリウスの青い瞳が、夜の闇の中で猛禽類のように鋭く、そして甘く光った。

「これからは、俺のためだけにその美しさを見せろ。俺の腕の中だけで、その声で鳴け。……わかったな?」

 背筋が粟立つような、極上の呪縛。

 ルクレツィアは、彼を見上げたままコクンと小さく頷くことしかできなかった。もはや彼女に、この圧倒的な愛の濁流から逃れる術は残されていなかった。

❇❇❇

 馬車が到着したのは、王都の一等地にある、城と見紛うほどに広大なユリウス・フォン・クライス公爵の豪邸だった。

 深い夜の帳が下りているにも関わらず、エントランスには数十名の使用人たちが一糸乱れぬ整列で二人を出迎えた。月光に照らされた白亜の館は、ルクレツィアが今まで生きてきた路地裏の世界とはあまりにもかけ離れた、天上人の領域だ。

 ユリウスは馬車の扉が開くや否や、ルクレツィアを横抱きの体勢で軽々と抱え上げ、堂々たる足取りで屋敷の中へと踏み込んだ。

「おかえりなさいませ、旦那様」

「ああ。皆に伝えておけ。彼女が、この公爵家の新たな女主人となるルクレツィアだ。……俺の命と同等に、彼女を敬い、傅け」

 ユリウスの絶対的な宣言に、使用人たちは誰一人として疑問を差し挟むことなく、床に膝をつかんばかりの勢いで深く頭を下げた。

 ルクレツィアは顔から火が出るほど恥ずかしくなり、ユリウスの胸元に顔を埋めて「降ろしてください、自分で歩けます……っ」と小さな声で抗議した。

「駄目だ。お前のその華奢な足で、この冷たい大理石の床を歩かせるわけにはいかない」

 ユリウスは聞く耳を持たず、彼女を抱え上げたまま、屋敷の最奥――彼自身のプライベートな空間である主寝室へと向かって、絨毯の敷かれた大階段を上っていく。

 重厚なマホガニーの扉が開き、ユリウスが部屋の中へ入る。

 そして、背後で扉が閉まった直後、外側から『カチャリ』と、冷酷なまでに確かな施錠の音が響いた。

「……え?」

「念のためだ。お前は足が速いからな。またあの夜のように、俺の腕の中から逃げ出されてはたまらない」

 ユリウスは微かに意地悪な笑みを浮かべ、部屋の中央にある、天蓋付きの巨大なベッドの上に、ルクレツィアの身体を極めて優しく、壊れ物を扱うようにそっと下ろした。

 最高級の羽毛が深く沈み込み、ルクレツィアの身体をふわりと包み込む。

 広い寝室には、暖炉の中で爆ぜる薪の音だけが響いていた。

 手袋を外し、外套を脱ぎ捨てて、シャツの胸元を無造作に寛げたユリウスが、逃げ場のないベッドの上で、ルクレツィアに覆い被さるようにして両手をついた。

「ゆ、ユリウス様……あの、私……」

「ルクレツィア」

 彼の顔が近づき、その高い鼻梁が、ルクレツィアの頬に触れるほどの距離で止まる。至近距離で見つめてくる青い瞳には、彼女をただ一人、この部屋に閉じ込めてしまいたいという昏い熱が渦巻いていた。

「お前は、この部屋の居心地が気に入ると思うぞ」

「えっ……?」

「明日、お前が目を覚ましたら、この屋敷の地下を案内してやろう。そこにはすでに、王都の魔導具ギルドから取り寄せた最新鋭のフラスコ、純金の天秤、そして最高級の薬草の数々が揃えられている」

 ユリウスの言葉に、ルクレツィアは目を丸くした。

「そ、それって……」

「ああ。お前の工房は、この公爵家の地下へと完全に移管される。お前の師匠が遺したあの真鍮の天秤も、俺の部下たちが傷一つつけずに運び出している頃だろう」

 ユリウスは、獲物を完全に罠に嵌めた捕食者の、美しすぎる笑みを浮かべた。

「お前の大切な場所は、俺が買い上げた。お前の知識も、技術も、そしてお前のその身も心も、すべて俺の庇護下に置かれた。……もう、あの薄暗い路地裏の地下室に帰る理由は、お前には何一つ残されていない」

 完全に、詰みだった。

 氷の公爵の財力と権力、そして彼女に対する狂おしいほどの執着が、ルクレツィアの逃げ道を物理的にも精神的にも、完膚なきまでに塞いでしまったのだ。

「貴方という人は……本当に、むちゃくちゃです……っ」

「お前が俺をここまで狂わせたんだ。責任は、一生かけてお前の隣で取ってもらう」

 ユリウスはゆっくりと身を沈め、ルクレツィアの首筋に顔を埋めた。

 肌に触れるか触れないかの距離で、彼から紡がれる熱い吐息がルクレツィアの肌を粟立たせる。

「これ以上、俺に待てと言うのか? 愛する女が二人だと思い込み、引き裂かれるような地獄の苦しみを味わわされた、この俺に?」

 耳元で囁かれる、反則のように甘く、そして恨みがましい声。

 彼の指先が、ルクレツィアの頬をなぞり、そっと顎を持ち上げる。

「あの夜からずっと……お前をこの手で閉じ込め、俺だけのものにしたかった。ルナとして俺に見せたその美しさも、ルクレツィアとして俺に見せたその無防備な寝顔も、誰の目にも触れさせたくない」

 視線が絡み合い、互いの吐息が混ざり合う。

 煤だらけの錬金術師として、たった一人で戦ってきた日々。女を捨て、工房を守ることだけが彼女のすべてだった。

 けれど今、彼女は、王国で最も美しく、そして最も愛情深い冷酷な公爵の腕の中で、彼が織り成す極上の絹と、果てしない甘やかしの鳥籠に完全に閉じ込められようとしていた。

「ユリウス、様……。私、貴方に……」

「愛している、ルクレツィア。……俺の命が尽きるその日まで、お前を離さない」

 三度目の、そして、これまでのどんなものよりも深く、甘い口付けが落とされる。

 それは、二人の間にあったすべての嘘とすれ違いを完全に溶かし去る、永遠の誓いだった。

 もはや魔法のシロップの力など必要なかった。彼が注いでくれるこの狂おしいほどの愛と熱こそが、ルクレツィアをこの世で最も美しい、彼だけの『運命の女性』へと縛り付ける、最強の魔法だったのだから。

 月光が差し込む公爵の主寝室で、三時間の奇跡から始まった二人の焦れったいすれ違いは、甘く蕩けるような夜へと溶けていった。


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