第5話 サファイアの結納品と、仮縫いの恋心
悪徳商人のバルド子爵が、文字通り「一晩で王都から社会的に抹殺された」という噂が街を駆け巡った数日後。
「……ユリウス様。これは、一体何の冗談ですか」
ルクレツィアは、自分の地下工房を埋め尽くすほどの『木箱』と『絹の反物』の山を前に、完全に頭を抱えていた。
カビ臭い錬金術の工房には到底不釣り合いな、王家御用達の宝飾店や最高級ブティックの紋章が入った箱の数々。それを運び込んだユリウス公爵本人は、ソファで優雅に脚を組み、満足げに頷いている。
「冗談ではない。すべてルナに贈るための結納品と、ドレスの生地の候補だ」
「は……?」
「俺は彼女を必ず見つけ出し、妻にする。いざ彼女を見つけ出した時、指輪ひとつ用意していなくては公爵家の名折れだからな。最高級の品を王都中から取り寄せた」
ユリウスの青い瞳は、大真面目そのものだった。
ルクレツィアの胃が、ギリリと音を立てて痛む。
(気が早すぎる!! まだ見つかってすらいないのに、なんで結納品が届いてるのよ!)
「そこでだ、ルクレツィア」
ユリウスは立ち上がり、宝飾箱のひとつを開けた。中には、目も眩むような大粒のダイヤモンドをあしらったティアラや、ルビーのネックレスが鎮座している。
「お前はルナの幼馴染で、親友なのだろう? ならば、彼女の好みが一番よくわかるはずだ。俺と一緒に、彼女に一番似合う品を選んでくれ」
「…………」
ルクレツィアは絶句した。
つまりこれは、『私が、私自身の結納品を、私に一目惚れしている男から選ばされる』という、新手の拷問である。
「あ、あの! ルナさんはとても質素な人で、こういう派手な宝石はあまり好まないというか……」
「馬鹿を言え。あの夜、俺の前に現れた彼女の、サファイアのドレスと黄金の髪に相応しいものを贈らなくてどうする。彼女には、俺の持ち得るすべての富を捧げても惜しくない」
愛が重い。そして財力も重すぎる。
ユリウスは真剣な顔で、次々と高価な宝石を手に取り、ルクレツィアの前に並べ始めた。
「どうだ? このピンクダイヤモンドの指輪など、彼女の白い肌に似合うと思わないか」
「……はい、とても素敵だと思います……」
ルクレツィアは引きつった笑みを浮かべるしかなかった。
大好きな人から、「君に似合うと思って」と宝石を見せられる。本来なら天にも昇るほど嬉しいはずのシチュエーションなのに、彼が想っているのは『ルナ』という架空の親友だ。
胸の奥が、チクチクと痛む。
「……待てよ」
不意に、ユリウスがひとつの箱の前で手を止めた。
彼が取り出したのは、深い海のような輝きを放つ、大粒のブルーサファイアのネックレスだった。繊細なプラチナのチェーンが、氷の公爵の指先に絡みついている。
「これだ。彼女が着ていたドレスの色……そして、あの美しく澄んだ瞳と同じ色だ」
ユリウスはそのネックレスを持ったまま、ゆっくりとルクレツィアに歩み寄ってきた。
そして、彼女の目の前で立ち止まると、無造作に彼女の首元へ手を伸ばしたのだ。
「えっ……!?」
「じっとしていろ」
ユリウスは、ルクレツィアのダボダボのローブの襟元をわずかに広げ、彼女の素肌――煤で汚れていない、白く滑らかな鎖骨の上に、その冷たいサファイアのペンダントトップをそっと当てた。
「ユ、ユリウス様……っ、何をして……」
「ルナとお前は、身長も体格もよく似ている。実際に肌に当ててみないと、宝石の輝きが彼女の肌に映えるかどうかわからないからな」
背後に回ったユリウスの大きな手が、ルクレツィアのうなじをかすめる。
ビクッと肩を震わせたルクレツィアの耳元に、彼の甘く冷たい香水の匂いと、熱を帯びた吐息が降りかかった。
「……」
ネックレスを当てたまま、ユリウスの動きがピタリと止まった。
ルナに見立てるため、ほんの少しだけ引き下げられたローブの襟元。
そこから覗く、ルクレツィアの華奢で女性らしい鎖骨のラインと、深いサファイアの輝き。彼女の肌は、信じられないほど滑らかで、宝石の冷たさに微かに粟立っている。
ユリウスは、息を呑んだ。
煤だらけで、女を捨てた錬金術師だと思っていた。だが、こうして至近距離で触れ、高価な宝石を這わせた彼女の素肌は、ひどく……いや、異常なほどに艶かしかった。
「……ユリウス、様……? あの、もう、いいですか……?」
恥ずかしさと緊張で、ルクレツィアの声が微かに震える。
見上げられた彼女の青い瞳は、サファイアの宝石よりも深く、濡れたように揺らいでいた。
ドクン、と。
ユリウスの心臓が、またしても不快なほど大きな音を立てて跳ねた。
(なぜだ……)
ユリウスの指先が、無意識のうちにルクレツィアの鎖骨をなぞる。
ルナへの贈り物を選んでいるはずなのに。俺が抱きしめ、口付けを落としたいのはルナのはずなのに。
目の前で身をすくませるルクレツィアの、その無防備な素肌に、どうしようもなく噛み付きたいという凶暴な衝動が湧き上がってくる。
「……お前は」
ユリウスは低く掠れた声で呟き、ルクレツィアの背後から、彼女の華奢な肩を両手で強くホールドした。
「本当に、ルナの幼馴染なのか」
逃げ場のない至近距離。
冷たい宝石の感触と、彼の手のひらの熱さに挟まれて、ルクレツィアの心臓は限界を迎えようとしていた。
背後から両肩を強くホールドされ、ルクレツィアは息を呑んだ。
首筋に触れる冷たいサファイアの感触と、それを覆い隠すようなユリウスの手のひらの異常な熱さ。彼の声には、単なる疑問ではなく、ひどく切羽詰まったような焦燥感が混じっていた。
「な、なにを仰っているんですか! 幼馴染に決まっているじゃないですか。背格好が似ているのも、たまたまです!」
ルクレツィアは心臓が口から飛び出そうになるのを必死に堪え、ユリウスの腕の中から強引に身をよじって抜け出した。
ペンダントトップが鎖骨から滑り落ち、彼女はローブの襟元をギュッと両手で掻き合わせる。
「そ、それに、このサファイアはルナさんのためのものでしょう? 私なんかが長く身につけていたら、宝石が煤で汚れちゃいますよ」
「……」
ユリウスは空を切った自分の両手を見つめ、ギリッと奥歯を噛み締めた。
ルナの代わりの「人形」として当てがったはずだった。だが、指先に残る彼女の肌の滑らかさと、至近距離で嗅いだ甘い香りが、ユリウスの脳髄を麻痺させている。
(俺は、どうにかしている。なぜ、この煤だらけの女を力ずくで押し倒したくなるんだ)
自分の中の矛盾した凶暴な衝動を抑え込むように、ユリウスは深く息を吐き出し、ネックレスを箱に戻した。
「……すまん。少し、当ててみただけだ。次はドレスの生地を選ぶぞ」
「まだやるんですか……」
ルクレツィアのげんなりした声を無視して、ユリウスは木箱から次々と最高級の絹やベルベットの反物を取り出した。
「ルナが着ていたのはサファイアブルーだった。だが、結婚の夜会で着るのなら、純白のシルクか、あるいは……」
様々な布地を品定めしていたユリウスの手が、ふと、ある反物の前でピタリと止まった。
彼が引き抜いたのは、深く濃い、森の奥を思わせるような『ディープグリーン』の艶やかな絹布だった。
「ユリウス様? ルナさんは、そういう渋い色はあまり……」
「じっとしていろ」
ユリウスは再びルクレツィアに歩み寄り、今度は背後からではなく、真正面からそのディープグリーンの生地をバサリと彼女の肩に掛けた。
そして、ドレスの形に見立てるように、彼女の華奢な身体に布を巻きつけていく。
「あ、あのっ、近い、です……」
布を巻きつけるたびに、ユリウスの長い指がルクレツィアの腕や腰を掠める。
ルクレツィアは顔を真っ赤にして身をすくませたが、ユリウスは布を纏った彼女の姿をまじまじと見つめ、小さく息を呑んだ。
「……やはりな」
「え?」
「お前には、この深い緑がよく似合う」
ユリウスの青い瞳が、ルクレツィアを真っ直ぐに射抜いていた。
青白い月光のような美しさを持つルナには、サファイアブルーが似合った。だが、目の前にいるルクレツィアの肌は、ほんのりと温かみを感じさせる色合いをしている。この艶やかなディープグリーンの絹が、彼女の隠された肌の温もりと、大人びた魅力を恐ろしいほどに引き立てていたのだ。
ルナの代わり(マネキン)のはずだった。
だが、ユリウスの目は完全に『ルクレツィア自身』を捉えていた。
「この生地は、お前のものにしろ」
「は……!? だ、駄目ですよ! これはルナさんの結納品のために取り寄せた生地でしょう!?」
「ルナには別のものを仕立てさせる。これはお前に似合う。だからお前にやる。何か問題があるか」
めちゃくちゃな理屈だった。
公爵の財力と暴走する過保護が、完全に方向を見失っている。
「問題大ありです! 私、錬金術師ですよ!? こんな最高級の絹のドレスなんて、着ていく場所もありませんし、作業中に薬品が飛んだら一瞬で穴が開きます!」
ルクレツィアが肩から布を下ろそうとすると、ユリウスはその手首をガシッと掴み、布ごと彼女を自分の方へ強く引き寄せた。
「着ていく場所ならある。……今週末、王宮で開かれる夜会だ」
「夜会……?」
ドンッ、と胸板にぶつかるほどの距離。
ユリウスは彼女を見下ろし、甘く、けれど決して拒絶を許さない低い声で囁いた。
「俺のエスコートで、そのディープグリーンのドレスを着て、俺の隣を歩け」
「なっ……!?」
ルクレツィアの思考が、完全に停止した。
ルナという「絶世の美女」を血眼になって探している男が、なぜ、煤だらけの平民の錬金術師を、王宮の華やかな夜会にエスコートしようとしているのか。
「お前は以前、闇オークションの時に言ったな。『こんな煤だらけの格好で公爵様の隣を歩けば、入り口でつまみ出される』と。……だから、俺が用意したドレスを着てこい。誰一人として、お前を笑わせはしない」
「……っ」
ルクレツィアの胸の奥で、甘くて苦い痛みが弾けた。
彼は本気だ。本気で、この煤だらけの自分を、最高級のドレスで飾り立てて、隣に立たせようとしている。
ルナに贈るはずだった結納品の山の中で、ルクレツィアは彼から『自分自身』への強烈な執着と愛情をぶつけられ、逃げ場を完全に失っていた。
週末。王宮で開かれる夜会の日。
ルクレツィアは地下工房の奥にある小さな浴室で、何ヶ月ぶりかに「本気の身支度」をしていた。
「……いくらなんでも、公爵様の隣を歩くのに煤だらけで行ったら、ユリウス様に恥をかかせてしまうものね」
魔法のシロップは使わない。
ルクレツィアは自作のピーリング石鹸で、肌に染み付いた古い角質と薬品の煤を徹底的に洗い落とした。さらに、ハーブを蒸留した特製のトリートメントを髪に揉み込み、鳥の巣のように絡まっていた髪を櫛で丁寧に梳かしていく。
湯上がりの姿見の前に立ったルクレツィアは、鏡の中の自分を見て小さく息を吐いた。
そこには、魔法を使った時のような「非現実的なまでの神々しさ」はない。
けれど、丁寧に煤を落とした素肌は、本来の彼女が持つ血色の良い、温かく滑らかな艶を取り戻していた。ボサボサだった髪は、光を吸い込むような美しい金糸となって肩に流れ落ちている。
彼女は、ユリウスから贈られたディープグリーンの絹のドレスに袖を通した。
ルナが着ていた冷たいサファイアブルーとは対極にある、深い森のような緑色。それが驚くほど彼女の温かみのある肌色に馴染み、大人びた艶やかさを最高に引き立てていた。
ルナと間違われないよう、あえて髪はきっちりと夜会巻きに結い上げ、うなじを見せる。最後に、ほんのりと珊瑚色の紅を差した。
「……よし。これなら、つまみ出されることはないわよね」
カラン、と。
階段を下りてくる、重厚な足音が響いた。ユリウスだ。
「ルクレツィア。迎えに来たぞ。準備はでき……」
扉を開けて入ってきたユリウスの言葉が、唐突に途切れた。
正装である漆黒の夜会服に身を包んだ完璧な公爵は、姿見の前に立つルクレツィアを見た瞬間、雷に打たれたように完全に硬直した。
彼の氷のような青い瞳が、限界まで見開かれている。
「あ、ユリウス様。どうでしょうか。……やっぱり、私みたいな平民がこんな高級なドレスを着ても、変ですか?」
ルクレツィアが少し恥ずかしそうに伏し目がちに尋ねると、ユリウスはまるで石像のように固まったまま、微かに唇を震わせた。
「……お前、なのか。本当に、ルクレツィアなのか」
「えっ? はい、そうですけど……」
ユリウスは、無意識にゴクリと喉を鳴らした。
煤の下に隠されていた、これほどまでに整った顔立ち。深い緑の絹が引き立てる、瑞々しくも艶やかな白い肌。
その顔の作りは、確かに彼が血眼になって探している『ルナ』によく似ていた。幼馴染だから似ているのかと、彼の頭の片隅で理性が言い訳を並べ立てる。
だが、そんなことはどうでもよくなるほどの衝撃だった。
魔法のような非現実的な美しさを持つルナとは違う。目の前で頬を赤らめ、少し恥じらっている彼女の姿は、ひどく人間味に溢れ、そして――ユリウスの理性を根こそぎ奪い去るほどに、狂おしく美しかった。
「……変、でしょうか」
「……いや。嘘だろう。なんで、お前……そんなに綺麗なんだ」
ユリウスは呆然と呟き、ゆっくりと彼女の前に歩み寄った。
そして、壊れ物に触れるように、手袋越しの大きな手で彼女の頬をそっと包み込んだ。
「ユ、ユリウス様……?」
「お前をエスコートして、見せびらかしてやろうと思っていたが……駄目だ。今すぐこの扉に鍵をかけて、誰の目にも触れさせたくない」
低く熱を帯びた声で囁かれ、ルクレツィアの顔が一気に林檎のように赤く染まる。
氷の公爵が、完全に魅了されている。その事実に、ルクレツィアの心臓も爆発しそうだった。
❈❈❈
王宮の夜会会場は、ユリウスとルクレツィアが足を踏み入れた瞬間、水を打ったような静寂に包まれた。
誰もが、女性を絶対に侍らせないことで有名な氷の公爵が、信じられないほどの美女をエスコートして現れたことに度肝を抜かれていた。
深い緑のドレスを纏う彼女の凛とした美しさに、会場中の貴族の男たちが釘付けになる。
「美しい……。あのような令嬢が、王都に隠れていたとは」
「公爵閣下の婚約者だろうか? いや、しかし……」
ひそひそとしたざわめきと、ルクレツィアに向けられる無数の熱い視線。
それに最も苛立っていたのは、他でもないユリウス本人だった。
「チッ……。どいつもこいつも、蠅のように見やがって」
ユリウスは舌打ちをすると、ルクレツィアの腰に回していた手にギリッと力を込め、彼女の身体を自分にぴったりと密着させた。
「ひゃっ。ユ、ユリウス様、痛いです……」
「俺から離れるな。一歩でも離れたら、あの飢えた男どもがお前に群がってくるぞ」
彼は周囲の男たちへ、文字通り「近づけば殺す」と言わんばかりの絶対零度の睨みを利かせながら、ルクレツィアをダンスフロアへと強引に導いた。
「踊るぞ、ルクレツィア。……お前が俺のものだと、あの馬鹿共の目に焼き付けてやる」
「私、貴方のものになった覚えはありませんけど!?」
「今夜は俺のものだ」
ワルツの音楽が鳴り響く中、ユリウスは彼女の手を取り、力強くステップを踏み出した。
ルナを探しているはずの男が、今、ルクレツィア(煤を落としただけ)の美しさに完全に理性を狂わされ、隠しきれない独占欲をむき出しにしている。
(どうしよう……。ユリウス様の目が、本気だわ)
至近距離で見つめ合う青い瞳。
ルクレツィアは、彼の手の熱さと、自分に向けられる狂おしいほどの情熱に、もう嘘をつき通す限界が近づいていることを悟り始めていた。
魔法のシロップを使わなくても、彼女は自らの美しさで、氷の公爵を完全に陥落させてしまったのだから。




