第4話 煤だらけの理由と公爵の静かなる熱
猛毒の迷霧事件から数日。
王都が少しずつ落ち着きを取り戻し始めた頃、ルクレツィアの地下工房には、いつものようにユリウス公爵が入り浸っていた。
「……ルナの行方は、今日も空振りだったな」
ソファに深く腰掛けたユリウスが、少しだけ疲れたような声で呟く。
彼が独自に動かしている騎士団の情報網でも、あの日広場に現れた「ルナ」の足取りは、煙のようにプツリと途絶えていた。当然だ。彼女は今、目の前でフラスコを洗っているのだから。
「そうですね……。でも、ユリウス様は本当にお強いですね。毎日公務で忙しいのに、寝る間を惜しんで彼女を探し続けて」
「俺の人生で、あそこまで魂を揺さぶられたのは彼女が初めてだからな。……だが、今日はお前も少し休め」
ユリウスはソファから立ち上がると、ルクレツィアの作業台の前に立ち、彼女が手入れをしていた古い真鍮の天秤をじっと見下ろした。
「前々から思っていたが、お前は俺が払う莫大な依頼料を何に使っているんだ。そんな目盛りも擦り切れたような古い道具など捨てて、最新の魔導具を買い揃えればいいだろう」
「捨てませんよ。これは、私のお師匠様の形見ですから」
ルクレツィアは古い天秤を愛おしそうに布で磨きながら、ふわりと柔らかく微笑んだ。
その、あまりにも穏やかで優しい表情に、ユリウスは微かに息を呑んだ。
「……お前に、師匠がいたのか」
「はい。私がまだ、路地裏でその日暮らしをしていた孤児だった頃に、拾って育ててくれた人です」
ルクレツィアの手が止まり、彼女の青い瞳が、遠い過去を懐かしむように細められた。
「口が悪くて、愛想なんてこれっぽっちもなくて……本当に、絵に描いたような頑固親父だったんですよ。『泣く暇があったら本を読め』って、いつも頭を小突かれて」
「……」
「私、小さい頃は髪の毛も綺麗な金色で……自分で言うのもなんですが、少しだけ顔立ちが目立っていたんです。そのせいで、人身売買の組織や悪い大人たちに、何度も攫われそうになって」
ユリウスの顔つきが、サッと険しくなる。
王都の路地裏で、美しい幼子がどれほど悲惨な目に遭うか。裏社会も知る彼には、容易に想像がついた。
「そんな私を助けてくれたのが、お師匠様でした。『お前のその顔は、いつかお前自身を不幸にする。身を守りたければ、知識と技術を磨け。自分の足で立て』って」
「……知識と技術」
「はい。だから私は、お師匠様から錬金術のすべてを叩き込まれました。でも、数年前にその頑固親父がポックリ逝ってしまって。残されたのは、この地下工房だけ」
ルクレツィアは、天秤をそっと棚に戻し、自分の煤だらけの頬を指でこすった。
「若い女が一人で錬金術師を名乗っても、最初は誰も見向きもしてくれませんでした。同業者からは舐められ、ならず者には工房を乗っ取られそうになって」
「……」
「だから、決めたんです。髪を切り刻んで、わざと薬品の煤を顔に塗りたくって、女であることを捨てるって。私がこの工房を守り抜くためには、容姿なんて邪魔なだけですから。……おかげで今は、誰も私を『女』として狙ってきませんし、純粋に錬金術の腕だけを見て依頼をくれるようになりました。ユリウス様のように」
ルクレツィアは「えへへ」と、少しおどけるように笑ってみせた。
彼女がなぜ、あんなにもボロボロのローブを着て、顔を汚しているのか。
それは単なる無頓着ではなく、亡き恩師との絆である「この場所」を、たった一人で守り抜くための、彼女なりの『鎧』だったのだ。
ユリウスは、声も出せずに立ち尽くしていた。
胸の奥を、ギリギリと締め付けられるような激しい痛みが襲っていた。
煤だらけの顔で笑う彼女が、どれほどの孤独と恐怖と戦いながら、今日まで一人でこの場所を守ってきたのか。
女として着飾る喜びも、誰かに守られる安心感もすべて捨てて、ただひたむきに生き抜いてきた。その健気さと芯の強さが、ユリウスの心臓を鷲掴みにして離さない。
「……お前は」
ユリウスは、気がつけばルクレツィアの細い手首を、強く、けれど壊れ物を扱うようにそっと握りしめていた。
「ユリウス様……?」
「お前は、本当に……馬鹿な女だ」
絞り出すような低い声。
ユリウスはそのまま彼女の手首を引き寄せ、驚いて目を見開くルクレツィアの身体を、自分の胸の中へと深く抱き込んだ。
「えっ……!? あ、あの、ユリウス様!?」
「もう、一人で戦わなくていい」
頭上から降ってきたのは、氷の公爵とは思えないほど、熱を帯びた震える声だった。
彼はルクレツィアの背中に腕を回し、彼女のすべてを庇うように、きつく抱きしめた。
「お前を舐める奴がいれば、俺がすべて潰す。お前を不当に扱う同業者がいれば、明日には王都から消してやる。だから……もう、お前が自分を傷つけてまで鎧を纏う必要はない」
「ユ、ユリウス様、苦しい、です……それに、私は……っ」
彼から伝わってくる、不器用で暴力的なまでの過保護と、深すぎる愛情。
ルクレツィアの心臓は、警鐘を鳴らすように激しく打ち始めた。
(どうして……? ユリウス様が探して、愛しているのは、ルナのはずなのに。どうして私に、こんな……っ)
「……ユ、ユリウス様っ! だ、駄目です、離して……!」
ルクレツィアの悲痛な声と、胸板を押し返す小さな抵抗ハッとして、ユリウスは我に返った。
自分が今、何をしたのか。
弾かれたように腕の力を緩めると、ルクレツィアは顔を真っ赤にして後ずさり、自身の胸元を両手でギュッと握りしめていた。その青い瞳が、戸惑いと微かな怯えに揺れている。
「……すまん」
ユリウスは、空を切った自分の両手を見下ろし、低く掠れた声で謝罪した。
(俺は、狂っているのか……?)
心臓が、耳障りなほど激しく脈打っている。
彼の頭の中は、今も『黄金の令嬢ルナ』の姿で満たされているはずだった。あの一夜、そして猛毒の霧の中で自分を救ってくれた彼女を、何に代えても見つけ出し、愛し抜くと誓ったばかりだというのに。
それなのに、なぜ自分は今、目の前の煤だらけの錬金術師を抱きしめた?
恩師の遺した工房を守るために女を捨てたという彼女の過去を聞いた瞬間、理性が吹き飛び、気がつけば彼女の華奢な身体をこの腕に閉じ込めていた。
腕の中に残る、彼女の驚くほど細い腰の感触。
薬品の匂いの奥底から微かに漂ってきた、甘くて柔らかい、どこかひどく懐かしいような香り。
「俺は……」
ユリウスは顔を片手で覆い、自らの不可解な衝動に激しく混乱していた。
(俺が求めているのはルナだ。だが、この小汚い錬金術師が一人で傷つくことを、俺の心がどうしても許容できない……っ)
同情か? いや、そんな生易しいものではない。
先ほど彼女を抱きしめた時、ユリウスの胸の奥で渦巻いていたのは、彼女を誰の目にも触れさせたくないという、昏くドロドロとした『執着』だった。
二人の女性への、まったく違う種類の狂おしい感情。
完璧だったはずの氷の公爵の心は、無自覚のうちに、完全に真っ二つに引き裂かれようとしていた。
「あの、ユリウス様……?」
顔を覆って押し黙ってしまったユリウスを心配し、ルクレツィアが恐る恐る声をかける。
ユリウスは深く深呼吸をして、どうにかいつもの「冷ややかな公爵」の仮面を被り直した。
「……気に病むな。お前が一人で背負い込んでいるのが、あまりにも危なっかしくてな。俺の重要な情報源であり、優秀な専属錬金術師に潰れられては困るという、ただの雇用主としての配慮だ」
ひどく言い訳がましい言葉だったが、ルクレツィアはそれを聞いて、ホッと安堵したような、けれどひどく傷ついたような、曖昧な笑みを浮かべた。
「ふふっ、ありがとうございます。でも大丈夫ですよ。私、こう見えて結構頑丈ですから」
「……」
ルクレツィアはそう言って、再び作業台へと向き直り、逃げるようにフラスコの洗浄を再開した。
その小さな背中を見つめながら、ユリウスはギリッと奥歯を噛み締めた。
(ただの雇用主としての配慮、だと? よくそんな白々しい嘘がつけるな、俺は)
ユリウスは自分が酷く滑稽に思えた。
彼はソファから外套を手に取ると、逃げるように工房の出口へと向かった。これ以上ここにいれば、ルナへの誓いを裏切り、再び目の前の彼女に触れてしまいそうだったからだ。
「今日は帰る。ルナの捜索は……引き続き、頼む」
「はい。お気をつけて、ユリウス様」
振り返りもせず、階段を上っていく重厚な足音。
重い扉が閉まり、工房に再び静寂が戻ると、ルクレツィアはその場にへたり込んだ。
「……はぁっ」
胸を強く押さえる。心臓が、痛いほどバクバクと鳴っている。
(ユリウス様に、抱きしめられちゃった……)
彼が自分を力強く引き寄せた瞬間の、圧倒的な男の力と、甘く冷たい香水の匂い。
『もう一人で戦わなくていい』という、不器用で優しすぎる言葉。
嬉しかった。どうしようもなく、胸が熱くなった。
けれど、彼が本当に愛し、探しているのは『ルナ』なのだ。最後の最後で、彼は「ルナの捜索を頼む」と口にした。
「……馬鹿みたい。私がルナなのに」
ぽつり、とこぼれた声は、ひどく震えていた。
ルナとして彼に愛されるほど、煤だらけの本当の自分は見向きもされないのだと思い知らされる。
けれど、煤だらけのルクレツィアとして彼から優しくされると、彼がルナに対して抱いている純粋な恋心を裏切っているようで、猛烈な罪悪感に苛まれる。
自分のついた嘘が、いま、自分自身の首を真綿で首を絞めるように苦しめていた。
「どうしたらいいの……ユリウス様……」
薄暗い地下工房で、ルクレツィアは膝を抱え、ただ静かに自分の募っていく恋心と嘘の重さに耐えていた。
❈❈❈
ユリウスに抱きしめられた、あの嵐のような夜から一夜明けた午後。
ルクレツィアは寝不足の目をこすりながら、いつも通り地下工房で薬草の調合を続けていた。
(……ユリウス様、今日はまだ来ないな)
普段なら昼過ぎにはソファを陣取っているはずの公爵が、今日は姿を見せない。
昨夜、あんな気まずい別れ方をしたのだ。さすがの彼も、バツが悪くて来づらいのかもしれない。そう頭では理解していても、入り口の扉をチラチラと気にしてしまう自分が腹立たしかった。
「馬鹿みたい。私が気に病むことなんて何もないのに」
自嘲気味に呟き、乳棒を握り直したその時だった。
バンッ!と、品のない乱暴な音を立てて、工房の扉が開け放たれた。
「やあやあ、薄汚い小娘! 今日もネズミのように地下でコソコソと薬を煮込んでいるのかね!」
現れたのは、ユリウスではない。
派手なだけの安っぽい絹の服を着込み、丸々と太った腹を揺らす中年の男――悪徳商人と名高い、バルド子爵だった。その後ろには、用心棒らしき柄の悪い男が二人控えている。
「……バルド子爵。お引き取りください。うちの工房は、違法な媚薬や毒薬の依頼は一切受け付けていないと、何度も申し上げたはずですが」
ルクレツィアは表情を消し、冷たい声で言い放った。
師匠が亡くなってからというもの、このバルド子爵は定期的に現れては、工房を安値で買い叩こうとしたり、違法な薬の密造を強要したりと、執拗な嫌がらせを繰り返してきた男だった。
「強情な女だ。師匠が死んでろくなパトロンもいないくせに、いつまで意地を張るつもりだ? どうせその煤だらけの顔じゃ、どこにも嫁に行けまい。おとなしくこの工房を私に譲り渡せば、一生遊んで暮らせるはした金くらいは恵んでやるぞ?」
バルド子爵は下卑た笑いを浮かべ、ずかずかと工房の中へ入り込んでくる。
そして、ルクレツィアの作業台に置かれていた、昨日彼女が磨いていたばかりの『師匠の形見の天秤』へ、その脂ぎった手を伸ばした。
「こんなガラクタばかり並べて……」
「触らないで!!」
ルクレツィアが天秤を庇うように前に出た瞬間。
「おい、その小汚い女を押さえつけろ。少し痛い目を見ないと、自分がどれだけ無力かわからないらしい」
子爵の合図で、背後の用心棒たちがニヤニヤと笑いながらルクレツィアに歩み寄る。
多勢に無勢。ルクレツィアは咄嗟に護身用の薬品瓶に手を伸ばそうと、一歩後ずさった。
――その時だった。
「……俺の錬金術師から、その薄汚い手を離せ」
地獄の底から響くような、氷点下の声。
地下工房の空気が、一瞬にして凍りついた。
「な、なんだ貴様は……っ!?」
バルド子爵が振り返った先。
開け放たれた扉の前に立っていたのは、漆黒の外套を纏ったユリウス公爵だった。
その青い瞳は、人間を見るものではない。ただの『塵』を見下ろすような、絶対零度の殺気を放っていた。
「ユ、ユリウス様……!」
「ゆ、ユリウス・フォン・クライス公爵……!? な、なぜ、貴方様のような雲上人が、こんなドブネズミの工房に……!」
バルド子爵は顔面を蒼白にさせ、ガチガチと歯の根を鳴らして後ずさった。用心棒たちも、王国最強と謳われる公爵の圧倒的な魔力と威圧感を前に、腰を抜かして床にへたり込んでいる。
「ドブネズミ、だと?」
ユリウスが静かに一歩、足を踏み出した。
ただそれだけで、足元の石畳にピキピキと霜が張り、工房の温度が急激に下がっていく。
「彼女は、俺の専属錬金術師だ。俺が王国で最も信頼し、敬意を払っているただ一人の職人だ。……それを、貴様のような腐りきった豚が、愚弄した上に手を出そうとした」
「ひっ、お、お許しを! わ、私はただの冗談で……!」
ユリウスはバルド子爵の弁明など聞く耳を持たず、冷酷に言い放った。
「貴様の商会は、裏で違法な薬物の取引をしているという噂があったな。今夜中に騎士団の査察を入れる。……明日の朝には、貴様の持つすべての財産と爵位は消し飛んでいると思え。二度と、彼女の視界に入るな」
「あ、あああ……っ!!」
ユリウスの容赦のない死刑宣告に、バルド子爵は絶望の悲鳴を上げ、用心棒たちを引き連れて逃げるように階段を駆け上がっていった。
嵐が去り、静寂が戻った工房。
ルクレツィアは、助かった安堵と、ユリウスが本当に自分のために怒ってくれた驚きで、その場にへなへなと座り込んでしまった。
「怪我はないか、ルクレツィア」
先ほどの絶対零度の殺気が嘘のように、ユリウスの声はひどく優しかった。
彼はルクレツィアの前に膝をつき、彼女の震える小さな手を、自分の大きな手でそっと包み込んだ。
「あ、ありがとうございます……。でも、ユリウス様。あんな大貴族を相手に、あそこまで……」
「昨夜、言ったはずだ」
ユリウスは、ルクレツィアの煤だらけの頬を、親指でそっと撫でた。
「お前を不当に扱う奴がいれば、俺がすべて潰すと。……俺は、二度と言葉を違えない」
彼の青い瞳は、まっすぐにルクレツィアだけを捉えていた。
昨夜の葛藤など吹き飛んでしまったかのように、そこにあるのは、目の前の「煤だらけの錬金術師」を何があっても守り抜くという、強烈な意志と独占欲だった。
「……ユリウス様、どうして……。貴方が探しているのは、ルナなのに」
ルクレツィアの口から、たまらずそんな言葉がこぼれ落ちる。
その言葉に、ユリウスは微かに目を伏せ、自嘲するように笑った。
「ああ。俺はルナを愛している。彼女を見つけ出し、妻にすると決めている」
わかっている。だからこそ、期待してはいけないのに。
「だがな、ルクレツィア」
ユリウスは、彼女の手を包む力を、わずかに強めた。
「ルナを探し出すその日まで……いや、それからもずっと。俺はここでお前を守る。お前が一人で泣くことのないように、お前の隣にいる。……それは俺の我儘であり、誰にも譲る気のない、俺自身の決定だ」
ルナへの狂おしい愛と、ルクレツィアへの深すぎる執着。
完全に矛盾した二つの感情を抱えながら、氷の公爵は、不器用すぎる宣言を彼女に叩きつけた。
「さあ、立て。今日は王都で一番美味い菓子の詰め合わせを持ってきた。茶を入れてやるから、一緒に食うぞ」
ユリウスに強引に手を引かれながら、ルクレツィアの胸の奥で、もう後戻りできないほどに熱い感情が渦巻いていた。
(……この人は、本当にずるい)
私がルナだと知った時、彼は一体どんな顔をするのだろうか。
甘くて苦い秘密を抱えたまま、二人の焦れったい工房での日々は、さらに深く交わっていくのだった。




