第3話 猛毒の迷霧と2度目の奇跡
ユリウスが自分の外套をルクレツィアに掛けていったあの日から、二人の関係はどこか奇妙な輪郭を帯び始めていた。
彼は相変わらず「ルナの捜索」を名目に工房へやってくるが、口うるさくルクレツィアの食事の世話を焼き、彼女が少しでも咳き込めば血相を変えて飛んでくるようになった。
ルナへの狂おしいほどの情熱と、目の前のルクレツィアに対する過保護な執着。ユリウス自身もその矛盾に無自覚なまま、甘く焦れったい日常が永遠に続くかと思われた――その矢先のことだった。
「ルクレツィア! すぐに中和剤を頼む!!」
鼓膜を震わせるような怒声と共に、地下工房の重厚な扉が蹴り開けられた。
いつものように高級な外套を優雅に羽織った姿ではない。銀色の装甲に身を包み、帯剣した完全武装のユリウス公爵だった。その美しい顔には微かに土埃がつき、息を荒らげている。
「ユリウス様!? どうしたんですか、そのお怪我は!」
ルクレツィアは作業台から弾かれたように立ち上がった。ユリウスの左腕の装甲がひどく腐食し、そこから紫色の不気味な煙が立ち上っている。
「俺はかすっただけだ。それより、王都の貴族街がパニックになっている。先日の闇オークションの残党が、逃走の際に『腐死の魔石』を暴走させやがったんだ」
「腐死の魔石……! あんな危険な禁制品を、王都のど真ん中で!?」
ルクレツィアの顔から血の気が引く。
それは、空気に触れるだけで猛毒の迷霧を発生させ、吸い込んだ者の細胞を数時間で死滅させる最悪の魔導具だ。
「すでに騎士団の先遣隊が数名、霧に巻かれて倒れた。俺が風の魔術で霧の進行を抑え込んではいるが、根本の魔石を破壊しなければ全滅する。お前の腕で、あの霧を無効化する中和剤を作れないか」
「作れます。すぐに調合しますから、少し待っていてください!」
ルクレツィアは一切の無駄な動きを捨て、棚から次々と薬草や鉱石の粉末を引きずり出した。
愛する人が危機に瀕している。その事実だけで、心臓が冷たい手で掴まれたように痛い。彼女は震えそうになる指先を強い意志で押さえつけ、乳鉢とフラスコを超高速で操った。
「……ユリウス様、腕を見せてください。解毒の応急処置をします。痛みますか?」
「いや、なんともない。お前のその手際の良さを見ていると、痛覚すら忘れる」
薬液の温度を調整しながらユリウスの腕に解毒の軟膏を塗るルクレツィアを、彼は愛おしげに見下ろしていた。緊急事態だというのに、彼の青い瞳は驚くほど優しく、熱を帯びている。
「できました! これを魔石の中心に打ち込めば、迷霧は水蒸気に分解されます。ただし……」
ルクレツィアは、完成した透明な中和剤を特殊なガラスの注射器に詰めながら、唇を噛んだ。
「この中和剤は非常に不安定です。魔石に打ち込む瞬間に、錬金術師である私が直接魔力を流し込んで『定着』させなければ、効果が発揮されません。私も同行します」
「駄目だ」
ユリウスの答えは、氷のように冷たく、一刀両断だった。
「えっ……? でも、私が行かないと……」
「貴族街の封鎖エリアはすでに猛毒の濃度が限界を超えている。俺たち騎士団の肺活量と魔力障壁なら数十分は耐えられるが、お前のような華奢な平民の身体では、霧に触れた瞬間に倒れるぞ」
ユリウスはルクレツィアの細い両肩を、大きな手でガシッと掴んだ。
「俺が代わりの術式をなんとかする。お前は絶対に、この安全な地下工房から一歩も出るな。いいな」
「そんなの無理です! 代わりの術式なんて間に合うわけがない! 私が行かなければ、ユリウス様だって死んでしまうかもしれないのに!」
ルクレツィアが必死に叫ぶと、ユリウスは一瞬だけ苦しげに顔を歪め、そのまま彼女の身体を力強く引き寄せ、装甲越しの胸に抱きしめた。
「ユリウ、ス様……?」
「……失いたくないんだ」
頭上から降ってきた、絞り出すような低い声。
彼はルクレツィアの煤だらけのボサボサの髪に顔を埋め、震える声で囁いた。
「俺は、俺が惚れたあの美しいルナを絶対に探し出したい。だが……それと同じくらい、お前が傷つくのが怖いんだ、ルクレツィア。お前が俺の目の前で倒れるくらいなら、俺は魔石ごとあの街を吹き飛ばす」
完璧で冷酷なはずの公爵が、なりふり構わず、ただ「彼女を失う恐怖」を露わにしている。
ルクレツィアの目から、ポロリと涙がこぼれ落ちた。
(ユリウス様は、私のことを、こんなにも大切に思ってくれている……)
その事実が嬉しくて、たまらなく愛おしくて。
だからこそ、ルクレツィアは彼を死なせるわけにはいかなかった。
「……わかりました。ここでおとなしく待っています。どうか、ご無事で」
「ああ。必ず戻る」
ルクレツィアが小さく頷くと、ユリウスは安堵したように彼女から身を離し、中和剤を奪い取るようにして工房を飛び出していった。
重い扉が閉まり、静寂が戻った工房。
ルクレツィアは、彼が出て行った扉をじっと見つめ、すぐに袖で涙を乱暴に拭った。
「馬鹿ね、ユリウス様。錬金術師が、自分で作った薬の定着を他人に任せるわけないじゃない」
彼女は振り返り、金庫の奥に厳重に保管してあるあの小瓶――黄金色のシロップを取り出した。
ユリウスは言った。『お前のような華奢な平民の身体では、霧に触れた瞬間に倒れる』と。
確かに、いつもの引きこもりの錬金術師の身体では、猛毒の霧の中を走り抜ける体力も、魔力を防ぐ抵抗力もない。それに、貴族街の厳重な封鎖線を、煤だらけの平民が突破できるはずがなかった。
「でも、私が持つ『細胞の最も理想的な状態』を引き出せば……毒への抵抗力も、走る体力も、一時的に跳ね上がるはず。おまけに、あの姿なら高位貴族だと勘違いされて、封鎖線だって顔パスで通れるわ」
本来は自分を美しく飾るためではなく、人間の身体のポテンシャルを極限まで引き上げるために作った薬なのだ。
もう一度、あの姿になる。
彼が血眼になって探している『ルナ』として、彼の前に現れれば、正体がバレるリスクは跳ね上がるだろう。けれど、そんなことはどうでもよかった。
「待っていてください、ユリウス様」
ルクレツィアは覚悟を決め、黄金の雫を一気に飲み干した。
再び身体を駆け巡る熱い奔流。煤が落ち、ボサボサの髪が黄金に輝き出し、最高級のサファイアブルーのドレスが身体を包み込んでいく。
ひび割れた姿見の前に立つ彼女は、再び、誰もが息を呑む絶世の美女へと変貌を遂げていた。
凛とした青い瞳には、愛する人を救うという強い決意が宿っている。
彼女は砂時計をひっくり返し、ドレスの裾を強く握りしめた。
「タイムリミットは、3時間」
猛毒の霧が渦巻く貴族街へ向け、黄金の令嬢は駆け出した。
❈❈❈
王都の特権階級が住まう貴族街は、異様な静寂と死の気配に包まれていた。
視界を遮るほど濃密な紫色の『迷霧』が石畳を這いずり回り、触れた街路樹の葉は瞬く間に変色して枯れ落ちていく。
「ここから先は立ち入り禁止だ! 猛毒の霧が充満している、下がれ!」
封鎖線に立つ騎士たちが、大声で叫びながら槍を交差させた。
しかし、彼らの前に現れた人物を見た瞬間、屈強な騎士たちは全員、言葉を失って呆然と立ち尽くした。
サファイアブルーのベルベットドレスを翻し、息を切らして駆けてきたのは、誰もが息を呑むような絶世の美女だった。
艶やかな黄金の髪が夜風に揺れ、透き通るような白い肌が街灯の光を弾いている。その気高くも圧倒的な美しさは、この絶望的な光景にまったく不釣り合いな『奇跡』そのものだった。
「通してください! ユリウス様の元へ行かなければ!」
「な、しかし……令嬢、この先は……っ」
騎士が戸惑う隙を突き、ルクレツィアは交差された槍の下をくぐり抜けた。
本来の『細胞の最も理想的な状態』を引き出されている彼女の身体は、驚くほど軽く、そして強靭だった。猛毒の霧の端に触れても、活性化された細胞と魔力がそれを瞬時に弾き返す。
(ユリウス様……! どうか、無事でいて……!)
ルクレツィアはドレスの裾を強く握りしめ、紫色の霧が最も濃く渦巻く中心地――広場へと向かって全力で駆け出した。
❈❈❈
広場の中心では、凄惨な死闘が繰り広げられていた。
石畳の中央に転がる『腐死の魔石』から、間欠泉のように猛毒の霧が噴き出している。
「……くそっ、瘴気が濃すぎる……!」
ユリウス公爵は、自身の周囲に強力な風の魔術障壁を展開し、かろうじて霧を弾き返していた。しかし、先遣隊を逃がすために魔力を使いすぎた彼の呼吸は荒く、銀色の装甲は無惨に腐食して黒ずんでいる。
彼の手には、ルクレツィアから奪い取るようにして受け取った、ガラスの注射器が握られていた。
彼女は言った。『錬金術師である私が直接魔力を流し込んで定着させなければ、効果が発揮されない』と。
ユリウスは氷のような青い瞳で、暴走する魔石を睨みつけた。
(あの煤だらけの阿呆に、絶対に外に出るなと言いつけた手前、俺がここで死ぬわけにはいかないからな)
錬金術師の魔力がないのなら、自分の命を削ってでも強引に中和剤を定着させるしかない。
ユリウスが決死の覚悟で魔石へと一歩踏み出そうとした、その時だった。
「――ユリウス様!!」
紫色の霧を切り裂くように、銀の鈴を転がしたような、凛とした声が響いた。
ユリウスは弾かれたように振り返る。
視界を埋め尽くす猛毒の霧の向こうから、黄金の光が駆けてくる。
サファイアブルーのドレス。信じられないほど美しい、朝露を浴びたような黄金の髪。そして、自分を真っ直ぐに見つめる、深く澄んだ青い瞳。
ユリウスは、自分の目が狂ったのかと思った。
どんなに情報網を駆使しても見つからなかった、俺の人生を狂わせた運命の令嬢。彼女がなぜ、こんな死の街の中心に現れたのか。
「ルナ……? いや、幻覚か……?」
呆然と立ち尽くすユリウスの胸に、ルクレツィアは勢いよく飛び込んだ。
ドンッ、と装甲越しに伝わる、確かな熱と柔らかさ。そして、あの夜と同じ、甘くて瑞々しい花の香り。
「馬鹿ですか、あなたは! 錬金術師がいないと定着しないと言ったでしょう!」
幻覚ではない。本物の彼女だ。
ユリウスの心臓が、恐怖と歓喜で爆発しそうに跳ね上がった。
「お前……! なぜここにいる! ここは猛毒の中だぞ!」
「私にも、魔力の心得がありますから! それより、早く中和剤を!」
ルクレツィアはユリウスの手を――注射器を握る彼のごつごつとした大きな手を、自分の白く滑らかな両手で包み込んだ。
瞬間、ルクレツィアの体内から黄金色の魔力が溢れ出し、ガラスの注射器を満たしていく。
「ユリウス様、一緒に打ち込んでください! せーのっ!!」
ユリウスは彼女の言葉に反射的に従い、二人の手が重なったまま、中和剤の針を『腐死の魔石』の中心へと突き立てた。
パァンッ!!という甲高い破裂音と共に、黄金の光が爆発的に広がる。
光の波紋が広場を駆け抜けると、それまで猛威を振るっていた紫色の迷霧が、嘘のように澄んだ水蒸気へと分解され、夜風にさらわれて消えていった。
月明かりが、再び広場を照らし出す。
危機は去った。魔石は完全に機能を停止し、ただの石ころに成り果てていた。
「……終わった……」
ルクレツィアは極度の緊張と、魔力を一気に放出した反動で、ふらりとバランスを崩した。
その細い身体が石畳に倒れ込むよりも早く。
ユリウスの屈強な腕が彼女の腰を強く抱き留め、自分自身の胸の中へと、乱暴なほどに引き寄せた。
「きゃっ……!?」
見上げたルクレツィアは、息を呑んだ。
ユリウスの氷のように冷たかったはずの青い瞳が、今までに見たことがないほど激しい感情に揺さぶられ、血走っていたからだ。
「ルナ」
地を這うような、切迫した低い声。
彼はルクレツィアの背中に回した腕にギリリと力を込め、逃がさないとばかりに彼女の身体を拘束した。
「探した……。どれだけ探したと思っている。お前は幻のように消えて、二度と俺の前に現れないつもりかと思った」
「あ、あの、ユリウス様……苦しい、です……」
「離さない。もう二度と、俺の前から逃がさない」
ユリウスは彼女の耳元に唇を寄せ、執念すら感じる声で囁いた。
「なぜ、俺を助けに来た。俺がお前に惚れ込んでいると知って、現れたのか」
至近距離から注がれる、狂おしいほどの独占欲と愛情。
本当は「あなたが地下工房で私を庇ってくれたから」だと言いたい。けれど、ルナの姿でいる以上、そんなことは口が裂けても言えなかった。
(どうしよう。タイムリミットまで、あとどれくらい……?)
ルクレツィアの胸の中で、焦燥感と、彼に抱きしめられている甘い痺れが混ざり合う。
このままでは、彼の腕の中で魔法が解けて、煤だらけの錬金術師に戻ってしまう。
絶対に正体がバレてはいけない絶体絶命の状況で、ルクレツィアは再び、彼からの逃亡を図らなければならなかった。
「探した……。どれだけ探したと思っている。もう二度と、俺の前から逃がさない」
猛毒の霧が晴れた広場。
ユリウスの屈強な腕に強く抱きすくめられ、ルクレツィアの心臓は早鐘を打っていた。
彼の氷のように冷たかった青い瞳は、狂おしいほどの独占欲に燃えている。装甲越しに伝わる彼の体温と、力強い鼓動。
このまま彼の腕の中にいられれば、どれほど幸せだろうか。けれど、体内では刻一刻と、奇跡のシロップの魔力が底をつき始めているのを知らせる、チリッとした痛みが走り始めていた。
(まずい、あと数分で魔法が解けちゃう……!)
こんな至近距離で、黄金の令嬢から「煤だらけの錬金術師」に戻る瞬間を見られるわけにはいかない。絶対に。
ルクレツィアは必死に頭を回転させ、工房から飛び出す直前に、ローブのポケット――今はドレスの隠しポケットに放り込んできた「ある物」の存在を思い出した。
「ユ、ユリウス様……! あ、あそこに残党が!」
「なっ!?」
ルクレツィアが悲痛な声を上げて広場の隅を指差すと、歴戦の騎士であるユリウスは反射的にそちらへ視線を向け、彼女を庇うように腕の力をわずかに緩めた。
その一瞬の隙を、ルクレツィアは見逃さなかった。
彼女はポケットから銀色の小さな玉を取り出し、足元の石畳に思い切り叩きつけた。
パァンッ!!
「うおっ!?」
炸裂音と共に、真昼の太陽のような強烈な『閃光』と、視界を完全に奪う『白煙』が広場を包み込んだ。錬金術で作った特製の目くらまし玉だ。
「くそっ、何事だ!? ルナ、俺から離れるな!」
目が眩んだユリウスが宙を掴むが、ルクレツィアはすでにその腕の中からスリ抜けていた。
「ごめんなさい、ユリウス様! 私にはどうしても、帰らなければならない場所があるんです!」
「待て、ルナ! 残党などどうでもいい、お前は俺が守るから……!」
白煙の向こうで叫ぶ彼の声を背中で聞きながら、ルクレツィアはドレスの裾を高く持ち上げ、兎のような身軽さで夜の王都を全力疾走した。
(ごめんなさい、ごめんなさい! でも、絶対にバレるわけにはいかないのーっ!!)
細胞が活性化しているおかげで、足の速さだけは一流の騎士にも負けない。
ルクレツィアは王都の路地裏を風のように駆け抜け、自分の地下工房の階段を転がり落ちるようにして飛び込んだ。
ガチャン、と重い扉に鍵をかけた瞬間。
全身からふっと力が抜け、淡い光と共に、黄金の髪はボサボサに、美しいサファイアのドレスは煤だらけのローブへと逆戻りした。
「はぁっ、はぁっ……! ぎ、ギリギリ、セーフ……っ!」
冷たい床にへたり込み、ルクレツィアは荒い息を吐き出した。
極度の緊張と魔力切れで、指先ひとつ動かせない。彼女はそのまま冷たい石の床で、泥のように眠りに落ちてしまった。
❈❈❈
「ルクレツィア!! 無事か!!」
翌朝。鼓膜を破るような勢いで扉が蹴り開けられ、ルクレツィアは跳ね起きた。
飛び込んできたのは、昨夜の装甲を脱ぎ捨て、少し着崩れたシャツ姿のユリウスだった。彼の顔には疲労の色が濃いが、その瞳は異様なほどギラギラと輝いている。
「ゆ、ユリウス様……」
「ああ、よかった。ちゃんとおとなしく工房にいたんだな」
床で丸くなっていたルクレツィアを見て、ユリウスは心底安堵したように息を吐き、彼女の肩をポンと叩いた。
「お前が作った中和剤のおかげで、街は救われた。だがな、お前が外に出なくて本当に正解だった。昨夜の広場は地獄のような有様だったぞ」
「そ、そうなんですね。それは大変でしたね……」
(私、その地獄のど真ん中に突っ込んでいったんですけどね……)と内心でツッコミながら、ルクレツィアは引きつった笑みを浮かべた。
ユリウスはソファにどっかりと腰を下ろすと、隠しきれない興奮を滲ませて身を乗り出した。
「聞いてくれ、ルクレツィア。昨夜、あの猛毒の霧の中に……ルナが現れたんだ!!」
「ひゃっ!?」
ルクレツィアの肩がビクッと跳ねた。
「あの絶望的な状況で、彼女は一筋の光のように俺の前に舞い降りた。そして、俺と一緒に中和剤を魔石に打ち込んでくれたんだ! 彼女は、俺の命の恩人だ……。やはり、彼女こそが俺の運命の女性に間違いない!!」
ユリウスは両手で顔を覆い、天を仰いだ。
完璧な冷血公爵が、完全に恋に浮かれた青年のようになっている。
「で、ですがユリウス様。彼女はまた、煙のように消えてしまったんでしょう?」
「ああ。謎の閃光玉を使ってな。だが、今回は大きな収穫があったぞ」
ユリウスは顔を覆っていた手をどけ、獲物を追い詰めるような鋭い瞳で、ルクレツィアを真っ直ぐに見据えた。
「ルナが使った中和剤は、お前が俺に渡そうとしていたものと全く同じだった。さらに、逃げる時に使った閃光玉。あれも、お前の工房に転がっている錬金術の試作品と同じ匂いがした」
「……っ!」
ルクレツィアの背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
ユリウスが、ゆっくりと立ち上がり、ルクレツィアの目の前まで歩み寄ってきた。
「お前、ルナと知り合いだな?」
逃げ場はない。
ルクレツィアの頭の中で、緊急警報がガンガンと鳴り響いた。
「い、いやだなあ、ユリウス様。なんのことですか?」
「誤魔化すな。俺が止めたにも関わらず、お前はどうしても現場に中和剤を届けようとしていた。だが自分では霧の中に入れない。だから、運動神経のいい『知り合いのルナ』に、薬を託して俺の元へ走らせた。違うか?」
ユリウスの完璧すぎる(そして見当違いの)推理に、ルクレツィアは心の中でガッツポーズをした。
(ナイス推理、ユリウス様! そういうことにしておきましょう!)
「そ、その通りです! 実はルナさん、私の幼馴染でして……。たまたま工房に遊びに来ていた彼女に、薬の定着をお願いしたんです。彼女、足が速いので!」
「やはりそうだったか! なぜもっと早く言わない!」
ユリウスは歓喜の表情を浮かべ、ルクレツィアの両肩をガシッと掴んで前後に揺さぶった。
「でかしたぞ、ルクレツィア! なら話は早い。今すぐルナをここに呼べ!!」
「えっ」
「彼女に命を救われた礼をしなければならない。それに、俺は彼女にプロポーズをするつもりだ。結納の品も、王都中の宝石商から取り寄せさせている」
公爵の行動力が早すぎる。
ルクレツィアの胃が、ギリギリと悲鳴を上げた。
「あ、あの! ルナさんはとてもシャイで、人前に出るのが苦手でして! それに今は遠くの村に帰ってしまって……」
「ならば俺がその村へ赴こう。馬車の用意をさせる。村の名前は?」
「ええっと、その、すごく山奥の、名前もないような村で……!」
嘘に嘘を重ねるルクレツィアと、ルナの正体が目の前の小汚い錬金術師だとは微塵も疑わず、距離を詰めようと暴走するユリウス。
「……まあいい。お前が彼女と繋がっているとわかっただけで十分だ。逃がさないぞ、ルナ」
ユリウスは甘く低い声でそう呟くと、ルクレツィアのボサボサの頭を、大きな手でポンポンと優しく撫でた。
「お前も、よく俺の言いつけを守って工房に残っていてくれた。お前まで危険な目に遭ったら、俺は……ルナと出会えた喜びよりも、お前を失った絶望で発狂していたかもしれないからな」
「……え?」
不意に落とされた、不器用で、けれどあまりにも真摯な言葉。
ルナへの狂おしい情熱の裏にある、ルクレツィアへの深すぎる過保護。
(私が行ったんですけどね……。でも、そんな顔で言われたら、胸が……)
彼の大きな手の温もりに、ルクレツィアの顔がカッと熱くなる。
二人のすれ違いは、もはや後戻りできないほどに拗れ、そして熱を帯びていくのだった。




