第2話 すれ違う心と、始まった【自分探し】
「ルクレツィア。俺の話を聞いているのか」
地下工房の空気を震わせるような、低く熱を帯びた声。
ルクレツィアは乳鉢に薬草を入れたまま、完全に硬直していた。
目の前には、王都中の令嬢が羨望の眼差しを向ける、超絶美貌のユリウス公爵が身を乗り出している。
いつもは氷のように冷ややかで、隙ひとつ見せない完璧な男。しかし今の彼は、漆黒の髪をわずかに乱し、冷たいはずの青い瞳に熱病のような光を宿らせていた。
「もう一度言う。昨夜の闇オークションの会場にいた、黄金の髪の令嬢だ。名をルナという。彼女がどこで生まれた誰なのか、現在どこに住んでいるのか、お前の錬金術師の独自の情報網を使ってすべて洗い出してくれ。費用はいくらかかっても構わない」
(どうしよう。ユリウス様が、本気だ)
ルクレツィアの背中を、ツーッと冷や汗が流れていく。
彼が血眼になって探している『ルナ』という絶世の美女。それは他でもない、昨夜、奇跡のシロップを飲んで3時間だけ本来の美貌を取り戻した、ルクレツィア自身である。
シロップの魔力が切れ、いつもの煤だらけでボサボサ髪の姿に戻った自分に向かって、ユリウスは「俺の妻に迎えたい」とまで言い切ったのだ。
「あ、あの、ユリウス様……。その、お気持ちは痛いほどわかりますが、たった一夜の出会いでそこまで……?」
「一夜で十分だ。あんな衝撃を受けたのは、俺の人生で初めてだった」
ユリウスは作業台に両手をついたまま、熱っぽく語り始めた。
「艶やかな黄金の髪は、まるで朝露を浴びたように輝いていた。月光を透かしたような白い肌に、気高くも儚げな佇まい……。あの完璧なまでの美しさは、この世の奇跡としか思えなかった」
「ひっ……!」
ルクレツィアの口から、変な声が漏れた。
大真面目な顔で、しかも至近距離で自分の容姿をベタ褒めされる破壊力は凄まじい。普段、女性を路傍の石ころのように扱う男の口から出ている言葉だからこそ、余計に心臓に悪い。
「ルクレツィア? どうした、顔が赤いぞ。徹夜明けで熱でも出したか」
「な、なんでもありません! 薬草の成分を吸い込んだだけです!」
彼女は慌てて顔の前でパタパタと手を振った。
ユリウスは怪訝そうな顔をしたものの、すぐにまた真剣な表情に戻り、懐から上質な羊皮紙を取り出して乱暴に広げた。
「いいか、彼女の特徴を書き出しておく。ドレスはサファイアブルーのベルベット。瞳の色は……そう、お前の瞳の色とよく似た、深い青だった。身長も、ちょうどお前くらいだったな」
ユリウスの氷のような視線が、ふとルクレツィアに向けられる。
ルクレツィアはビクッと肩を震わせた。
(ば、バレる!? さすがに同じ顔の作りだし、気づかれるんじゃ……!)
彼女は思わず息を止め、乳棒を握る手に力を込めた。ユリウスはルクレツィアの煤だらけの頬、ボサボサの髪、そしてダボダボのシミだらけのローブをじっと見つめ……ふっと短く息を吐いた。
「いや、無駄な例えだった。お前とあの美しい人を比べるなど、彼女に対して失礼極まりないな。忘れろ」
「…………」
(失礼極まりないって何よ! 同一人物なんですけど!!)
ホッとしたと同時に、理不尽な苛立ちがルクレツィアの胸をよぎる。
だが、冷静に考えれば当然だ。片や、誰もが息を呑むルネサンス絵画のような黄金のマドンナ。片や、風呂にも入らず薬品の臭いをプンプンさせている地下の錬金術師。
ユリウスの中で、この二人が結びつくはずがないのだ。
「……とにかく」
ユリウスは羊皮紙をルクレツィアの前に突きつけた。
「彼女の身元がわかるまで、俺は毎日ここへ進捗の確認に来る。いや、なんなら俺もこの工房で情報整理を手伝おう」
「は?」
ルクレツィアは素っ頓狂な声を上げた。
「て、手伝うって……ユリウス様は公爵様ですよね!? 王宮の執務があるのでは!?」
「仕事なら早朝と深夜にまとめて終わらせる。今はルナを見つけることの方が、俺の人生における最重要課題だ。彼女が他の虫のいい男に見つかる前に、俺が保護しなければならない」
完全に独占欲をこじらせている。
しかも、その対象が自分自身だという事実が、ルクレツィアの胃を痛くさせた。
もし、あの絶世の美女の正体が、普段彼が「呆れた奴だ」と鼻で笑っている自分だと知れたら。彼が見せたあの熱烈な恋心は、一瞬で幻滅と怒りに変わるに違いない。
「……わかりました。ですが、私にも本来の仕事があります。あまり工房をウロウロされると邪魔になりますので、そこのソファでおとなしくしていてください」
「ふん。偉そうに。だが、情報網を動かしてもらう手前、お前の指示には従おう。ほら、これは前金だ」
ユリウスはポン、と無造作に、白金貨が詰まった重そうな革袋を机に置いた。
ルクレツィアの目玉が飛び出そうになる。平民が一生遊んで暮らせるほどの金額だった。
(重い! 公爵様の愛が、物理的に重すぎる……!!)
かくして、煤だらけの錬金術師と、彼女の別人格に一目惚れした冷酷公爵による、奇妙で胃の痛い「自分探し」の同棲――もとい、工房での共同作業が始まった。
❈❈❈
ユリウス公爵がルクレツィアの地下工房に「出勤」するようになってから、早くも一週間が経過していた。
彼は宣言通り、王宮での執務を早朝と深夜の異常なペースで終わらせ、昼間から夕方にかけての時間をこのカビ臭い工房のソファで過ごすようになった。
超絶美貌の冷血公爵が、最高級の外套を無造作に椅子に掛け、煤けた机の端で分厚い書類に目を通している。その光景は何度見ても非日常的すぎて、ルクレツィアの胃をキリキリと痛めつけていた。
「ルクレツィア。また昼食を抜いているな」
書類から顔を上げたユリウスが、氷のような青い瞳でルクレツィアを射抜いた。
ビクッと肩を跳ねさせた彼女が振り返ると、ユリウスは呆れたようにため息をつき、傍らに置いてあった銀のバスケットを引き寄せた。
「王都で一番予約が取れないと言われている『星の瞬き亭』のサンドイッチと、温かいスープだ。冷めないうちに食え」
「えっ? そ、そんな高級なもの、私のような平民の錬金術師が……」
「俺が食わせたいから買ってきたんだ。いいから口を開けろ」
ユリウスは長い脚を組んだまま、なんとサンドイッチをひとつ摘み上げ、ルクレツィアの口元へと差し出してきた。
王国の頂点に立つ公爵様からの、まさかの「あーん」である。
「ひゃっ!? じ、自分で食べられますから!」
ルクレツィアは顔を真っ赤にしてサンドイッチをひったくり、ハムスターのように頬張った。極上のローストビーフとソースの旨味が口いっぱいに広がるが、緊張で味がまったくわからない。
「お前は研究に没頭するとすぐに倒れるからな。俺の依頼――ルナの捜索の途中でぶっ倒れられては困る。しっかり栄養を摂れ」
「……はい、すみません」
ルクレツィアはモグモグと咀嚼しながら、罪悪感でいっぱいになった。
ユリウスは彼女が「ルナの捜索のために寝食を忘れている」と思い込んで世話を焼いてくれているが、実際はいつもの錬金術の研究をしているだけなのだ。ルナなど探す必要がないのだから。
「それにしても」
ユリウスは紅茶のカップを傾けながら、熱を帯びたため息をついた。
「お前の情報網を使っても、ルナの足取りはまったく掴めないか。まるで、あの夜だけ地上に降り立った天使のようだな……」
「ゲホッ、ゴホッ!」
スープを飲んでいたルクレツィアは派手にむせた。
氷の公爵が、真顔で「天使」などという歯の浮くようなポエムを口にしたからだ。
「おい、汚いな。大丈夫か」
ユリウスは眉をひそめながらも、すぐに立ち上がり、自分の胸ポケットから雪のように白い最高級の絹のハンカチを取り出した。そして、むせているルクレツィアの口元を、彼自身の大きな手で直接、優しく拭い始めた。
「えっ……! ユ、ユリウス様!? 汚れます、私の顔は煤だらけで……!」
「じっとしていろ」
ユリウスの端正すぎる顔が、不意に至近距離まで近づく。
長い睫毛に縁取られた青い瞳が、ルクレツィアの顔を真っ直ぐに覗き込んでいる。微かに香る、彼特有の冷たくて甘い香水の匂いが鼻腔をくすぐった。
「お前は本当に、もう少し自分の身なりに気を使ったらどうだ。いつも煤だらけで、髪もボサボサだぞ」
「ほっといてください。これが私の平常運転なんです」
ルクレツィアが顔を背けようとすると、ユリウスの大きな手が彼女の顎をそっとホールドした。逃げられない。
「……ん?」
不意に、ユリウスの手がピタリと止まった。
ハンカチで煤を拭き取った彼女の白い頬。そして、いつもは薬品の匂いに隠れているが、ルクレツィア自身が持つ微かな甘い香り。
ユリウスの青い瞳が、信じられないものを見るように微かに揺らぐ。
(……なんだ? なぜ今、この煤だらけの女から、あの夜のルナと同じ香りがした……?)
至近距離で見つめ合う二人。
ユリウスの視線が、ルクレツィアの青い瞳、そして煤の落ちた肌の滑らかな曲線へと、まるで吸い寄せられるように落ちていく。
(ルナは、この世の奇跡のように美しかった。だが、なぜ俺は今……この小汚い錬金術師の瞳から、目を離せないんだ?)
ドクン、と。
ユリウスの胸の奥で、ルナに対する情熱とはまったく違う、名状しがたい感情が小さく跳ねた。それは、ずっと傍に置いておきたいような、彼女のすべてを知り尽くしたいような、不器用で無防備な独占欲。
「ユ、ユリウス様……? あの、近いです……」
ルクレツィアの震える声で、ユリウスはハッと我に返った。
彼は弾かれたように彼女から手を離し、バツが悪そうにそっぽを向いた。その耳の裏が、ほんのりと赤く染まっていることに、ルクレツィアは気づかなかった。
「……あ、ああ。すまん。あまりにもお前の顔が汚かったから、つい気になってな」
ユリウスはハンカチを乱暴にポケットに突っ込み、咳払いをしてソファに戻った。
「と、とにかく! ルナの捜索を引き続き頼む。俺の妻になる女性は、彼女以外にあり得ないからな!」
「……はいはい。わかってますよ」
ルクレツィアはドッと疲れたように肩を落とした。
ユリウスの口から出るのは、相変わらず「ルナへの一途な愛」ばかり。それなのに、なぜあんな風に優しく煤を拭き取ったり、顔を近づけたりするのだろう。
勘違いしてしまいそうになる自分の胸をギュッと押さえつけながら、ルクレツィアは再びフラスコに向き直った。
(ユリウス様が探しているのは、黄金の髪の絶世の美女。煤だらけの私じゃない。……絶対に、バレちゃ駄目なんだから)
己にそう言い聞かせるルクレツィアと、ルナを求めているはずなのに、目の前の錬金術師から無意識に目が離せなくなっているユリウス。
小さな地下工房で、不器用な二人のすれ違いは、少しずつ熱を帯びていくのだった。
❈❈❈
夜は深く更け、地下工房はランプの微かなオレンジ色の光と、フラスコの中でコトコトと鳴る薬液の音だけが響いていた。
「……ん、ふわぁ……」
ルクレツィアは分厚い薬草学の魔導書を開いたまま、限界を迎えた頭をカクン、と揺らした。
徹夜明けの身体に、ユリウスが無理やり食べさせた高級サンドイッチと温かいスープ。それは彼女の警戒心を完全に溶かし、強烈な睡魔となって襲いかかってきていた。
(駄目、まだ定着液の温度管理が……それに、ユリウス様が探しているルナの、ダミーの報告書も作らなきゃ……)
思考はすでに泥のように濁り、視界がぼやける。
やがてルクレツィアは、開いた魔導書の上に突っ伏すようにして、深く穏やかな寝息を立て始めた。
「……ルクレツィア?」
ソファで書類を読んでいたユリウスが、静寂に気づいて声をかける。
返事はない。ただ、すう、すう、と規則正しい小さな呼吸音が聞こえるだけだ。
ユリウスは小さくため息をつき、手元の書類を置いた。
足音を忍ばせて作業台へと近づくと、そこには、煤だらけの頬を本のページに押し付け、完全に無防備な姿で眠りこける錬金術師の姿があった。
「……あれだけ『公爵様がウロウロしていると邪魔だ』と言っておきながら、俺の目の前で寝るとはな。危機感というものが欠落しているのか、こいつは」
呆れたように呟きながらも、ユリウスの声音には普段の冷ややかさは微塵もなかった。
彼は自分が羽織っていた、夜の冷気を防ぐための最高級の黒い外套を脱ぐと、それをルクレツィアの華奢な背中へ、そっと毛布の代わりに掛けた。
ずっしりと重く、彼の体温と甘く冷たい香水の匂いが残る外套。それに包まれたルクレツィアは、安心したように「ん……」と小さく寝返りを打ち、外套の襟元に顔を埋めた。
その愛らしい仕草に、ユリウスの心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
(……おかしい。俺はどうかしている)
ユリウスは、ルクレツィアの寝顔を見下ろしたまま、その場から動けなくなっていた。
彼の脳裏には、毎夜思い描いている『絶世の美女・ルナ』の姿がある。黄金の髪、透き通るような肌、サファイアブルーのドレスを纏った彼女の美しさは、間違いなくユリウスの人生を狂わせた落雷だった。彼女を絶対に見つけ出し、自分の妻にする。その決意に揺らぎはないはずだった。
それなのに。
(なぜ俺は、この小汚い錬金術師の寝顔から、目が離せないんだ……?)
ユリウスは無意識のうちに手を伸ばし、ルクレツィアの頬にこびりついた煤を、長い指の腹でそっと拭った。
煤の下から現れた、温かく滑らかな白い肌。薬品の匂いに混じって、彼女の首筋から立ち上る、甘くて落ち着く香り。
その香りを嗅ぐだけで、冷え切っていたはずのユリウスの胸の奥が、不思議なほどじんわりと温かくなっていくのだ。
『ルナ』がもたらした感情が、すべてを焼き尽くすような激しい情熱と独占欲だとするならば。
『ルクレツィア』がもたらす感情は、ずっと傍で守り抜きたいと願うような、穏やかで、けれど決して誰にも譲りたくないという、深い執着だった。
「……お前は、本当にズルい女だ」
ユリウスは、自分の指先が微かに震えていることに気づき、自嘲気味に笑った。
彼はルクレツィアのボサボサの髪にそっと触れ、絡まった毛先を優しく梳いた。
どんな美女がすり寄ってきても氷のように冷たかった自分が、煤だらけで色気のない錬金術師の寝顔に、これほどまでに心を乱されている。
「俺は、あの一夜の幻のような令嬢を探し出さなければならない。彼女こそが、俺の運命の相手のはずなんだ」
独り言のように呟く声は、どこか言い訳めいていた。
「……だが。お前がこんな風に誰かの前で無防備に眠ることも、誰かにこんな優しい顔を見せることも……俺は、絶対に許せる気がしない」
ユリウスは、ルクレツィアの耳元に顔を寄せ、誰に聞かせるわけでもない、切実な独占欲を低く囁いた。
「他の男には、絶対にお前を触れさせない。……いいな、ルクレツィア」
夢の中にいる彼女に届くはずもない言葉。
ユリウスは、自分が二人の女性(実は同一人物)への狂おしいほどの執着に引き裂かれていることなど知る由もなく、ただ静かに、彼女が目を覚ますまでその寝顔を見守り続けた。
❈❈❈
翌朝。
「……んんっ」
工房の窓から差し込む薄明かりで、ルクレツィアは目を覚ました。
背中がひどく温かい。起き上がろうとして、自分の肩からずり落ちた漆黒の外套に気づき、ルクレツィアはパチリと目を瞬かせた。
「これ……ユリウス様の外套……?」
驚いて周囲を見回すと、ソファで腕を組み、長い脚を投げ出して浅い眠りについているユリウスの姿があった。
あの完璧な公爵が、自分の外套をルクレツィアに掛けたせいで、少し寒そうに肩を丸めている。
「……っ」
外套から香る彼の匂いと、その不器用な優しさに、ルクレツィアの胸がギュッと締め付けられた。
(ユリウス様は、ルナを探しているのに。私にこんな優しくしないでよ……)
期待してはいけない。彼が愛しているのは、あの黄金の令嬢なのだから。
そう自分に言い聞かせるルクレツィアだったが、少しずつ、けれど確実に、二人のすれ違う恋心は戻れないところまで深まっていた。




