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3時間の奇跡 〜煤だらけの錬金術師は、公爵からの【自分探し】依頼から逃げられない〜  作者: 茗子


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第1話 3時間の奇跡と氷の公爵の運命の夜

 王都の華やかな大通りから一本路地に入り、さらに陽の当たらない地下階段を下った先。

 むせ返るような薬草の匂いと、微かな硝酸の香りが漂う薄暗い場所が、錬金術師ルクレツィアの『城』だった。

「……よし、温度は安定しているわね。あとはこのまま定着を待つだけ」

 フラスコの中でコトコトと煮詰まる液体を見つめながら、ルクレツィアはほっと息をついた。

 徹夜明けの彼女の姿は、お世辞にも年頃の令嬢とは言えなかった。何日も櫛を通していない髪は鳥の巣のようにボサボサで、本来は何色なのかもわからないほど薬品の煤や埃にまみれている。身体の線を完全に隠すダボダボのローブには、焦げ跡や謎のシミが無数についていた。

 頬にも黒い煤がべったりと付着しているが、本人は全く気にする様子もなく、煤けた手の甲で無造作に顔を擦る。

 ルクレツィアにとって、身なりなどどうでもいいことだった。

 物質の理を解き明かすことにしか興味がない彼女は、この若さで王都随一の腕を持つ錬金術師として、知る人ぞ知る存在となっていた。

 カラン、と。

 地下工房には不釣り合いな、重厚で冷たい足音が階段を下りてくる。

「ルクレツィア。いるか」

 低く、けれどベルベットのように滑らかな声。

 その声を聞いた瞬間、ルクレツィアの心臓がトクンと小さく跳ねた。

 現れたのは、この薄暗い工房の空気を一変させるほど、圧倒的な美貌を持つ男だった。

 夜の闇を切り取ったかのような漆黒の髪に、氷のように冷たく澄んだ青い瞳。一切の無駄がない長身を、最高級の仕立ての黒い外套が包んでいる。

 若くして王国随一の権力を握る男、ユリウス公爵その人だった。

「いらっしゃいませ、ユリウス様。相変わらず、むさ苦しい工房で申し訳ありません」

「構わん。俺は貴様の淹れる泥水のような茶を飲みに来ているわけではないからな」

 相変わらずの冷ややかな態度に、ルクレツィアは苦笑した。

 彼ほどの地位と美貌があれば、王都の令嬢たちがこぞってすり寄ってくる。しかしユリウスは、女性というものに微塵も興味を示さないことで有名だった。彼にとって女性とは、権力目当てで群がってくる鬱陶しい存在でしかないらしい。

 そんな彼がここに足を運ぶのは、ルクレツィアが絶対に自分に言い寄ってこない「女を捨てた優秀な錬金術師」だからだ。

「それで、今日はどのようなご依頼ですか?」

「急ぎの厄介事だ。今夜、西区の地下で開かれる闇のオークションに同行しろ」

「闇のオークション、ですか?」

「ああ。国宝級の『古代魔導書』の贋作が出品されるという情報が入った。巧妙に偽装された魔力の波長を見抜ける鑑定眼を持つ者は、王国広しと言えどお前しかいない」

 ユリウスからの絶対的な信頼。それは光栄なことだったが、ルクレツィアは自分のボロボロのローブをつまんでため息をついた。

「光栄ですが、ユリウス様。闇のオークションといえば限られた特権階級しか入れない秘密の夜会ですよね? 私がこんな煤だらけの格好で公爵様の隣を歩けば、入り口でつまみ出されるどころか、不審者として射殺されますよ」

 ユリウスは彼女の頭からつま先までを一度だけスッと見下ろし、わずかに眉間に皺を寄せた。

「……確かに、悪目立ちしすぎるな。すぐにうちのメイドを寄越そう。お前を風呂に入れ、適当なドレスを着せれば、少なくとも『公爵の変わり者の同伴者』くらいには誤魔化せるだろう」

「無理ですって。開始は今夜でしょう? 私の髪に染み付いた薬品の臭いや汚れは、数時間がかりで洗ったところで落ちません。それに、着慣れないドレスを着て震えている女なんて怪しさ満点です」

 ルクレツィアが断ると、ユリウスは舌打ちをした。

「ではどうする。お前の鑑定眼がなければ、作戦は失敗だ」

「ご心配なく。私にいい考えがあります」

 ルクレツィアは部屋の奥の厳重な金庫を開け、一つの小さなクリスタル小瓶を取り出した。中には、星屑を溶かしたような、とろりとした黄金色のシロップが揺らめいている。

「なんの薬だ」

「私が何年もかけて作った傑作、『イマージュ・セルフ』のシロップです。これを飲めば、私は誰にも怪しまれない、完璧な令嬢として夜会に潜入できます」

 ユリウスは怪訝そうな顔をした。

「姿を変える魔法薬か? だとしたら三流だぞ。夜会の入り口には、幻影や変身魔法を見破る結界が張られている。偽りの姿など一瞬で弾かれる」

「ええ、幻影なら、ですね」

 ルクレツィアは黄金の小瓶を誇らしげに掲げた。

「これは幻影ではありません。私自身の細胞を活性化させ、本来私が持っている『最も美しい状態』を、物理的に表へ引き出し固定化する薬です。髪の汚れは落ちて極上の艶を取り戻し、肌の細胞は完全に整い、身につけている布地すらも最高級の素材へと再構築されます」

「……己の美しさを引き出す、だと?」

 ユリウスは、目の前の煤だらけでボサボサの女を見て鼻で笑った。

「お前がいくら己の素材を引き出したところで、たかが知れているだろう。夜会にふさわしい令嬢になれるとでも?」

「ふふっ、見ていてください。ただし、このシロップの効力は、私の魔力が尽きるまでの『3時間(10800秒)』。それを1秒でも過ぎれば、私は元の煤だらけの錬金術師に逆戻りです」

「3時間あれば十分だ。オークションの品を鑑定するだけだからな。現地で待ち合わせよう。絶対に遅れるなよ」

 ユリウスが工房を去った後、ルクレツィアは手の中の黄金のシロップを見つめた。

「……たかが知れている、か。ユリウス様も、あとで絶対に驚くわよ」

 彼女は自分が美しいと自覚しているわけではない。ただ、この薬の完成度には絶対の自信があった。ほんの少しだけ、あの氷のような青い瞳を自分に向けさせてみたい。

 そんな淡い恋心には蓋をして、彼女は黄金の雫を一気に飲み干した。


❈❈❈


 雫が喉の奥へと滑り落ちた瞬間、身体の内側から熱い奔流が駆け巡った。

 淡い光の粒子が身体を包み込む。長年の研究で染み付いた煤や汚れが、光と共にふわりと剥がれ落ちていく。ボサボサに絡まっていた髪は、まるで命を吹き込まれたかのようにサラサラと解け、朝露を浴びたような美しい黄金色へと変わっていった。

 纏っていたシミだらけのローブの繊維も、一瞬で編み直される。

 光が収まり、ルクレツィアはそっと目を開けた。

 ひび割れた姿見に映っていたのは、ルクレツィア自身も思わず息を呑むような絶世の美女だった。

「……私?」

 透き通るような白い肌には健康的な赤みが差し、くすんでいた唇は瑞々しい薔薇色に潤っている。長く艶やかな黄金の髪は、美しく波打ちながら腰まで流れていた。

 身体を包むドレスは、彼女の瞳と同じ深く澄んだサファイアブルーのベルベット生地。黄金の糸で繊細な蔦の刺繍が施され、しなやかな曲線を気高く艶やかに引き立てていた。

 魔法による幻影ではない。シロップが細胞の不純物を一掃し、彼女の最も美しい状態を物理的に固定化した結果だった。その気高くも儚げな雰囲気は、この世の誰よりも目を惹く至高の麗人そのものだった。

「タイムリミットは3時間。さっさと鑑定して、報告して帰らなきゃ」


❈❈❈


 王都西区の地下深く。

 退廃的で豪奢な夜会の空間で、ユリウス公爵は壁際に寄りかかり、退屈そうにグラスのワインを揺らしていた。次々と令嬢たちが熱い視線を送ってくるが、彼は誰一人として視界に入れていない。

(遅いな……あの煤だらけの女、やはり衛兵に追い返されたか)

 彼が小さく舌打ちをした、その時だった。

 重厚なエントランスの扉が開き、一人の女性が足を踏み入れた。

 瞬間、会場の空気が凍りついた。

 ざわめきがピタリと止む。全員が弾かれたように扉の方を一斉に振り返った。そこには、サファイアブルーのドレスを纏った、黄金の髪の令嬢が立っていた。

 入り口の結界は幻影魔法を感知していない。あの圧倒的な美貌は本物であるという証拠だった。

 ルクレツィアは、突然の無数の視線に内心パニックに陥っていた。

(えっ、なに!? なんでみんなこっちを見るの!?)

 本人は自分の美貌の破壊力にまったく気づいておらず、必死にすまし顔を作って早歩きになる。

 その頃。壁際にいたユリウスもまた、その「黄金の令嬢」を視界に捉えていた。

 カシャン、と。

 ユリウスの手にあったワイングラスがわずかに傾き、中の赤い液体が床にこぼれ落ちた。いかなる時も完璧な彼が、自らの手元が狂ったことにすら気づいていなかった。

 氷のように冷たかった青い瞳は限界まで見開かれ、ルクレツィアの姿に完全に縫い付けられていた。

 周囲の喧騒が遠のき、彼の中の時間が止まる。今までどんな美女を見ても心が動かなかった彼に、信じられないほどの落雷が直撃していた。

(――なんだ、あの女は)

 心臓が激しく早鐘を打っている。

 ユリウスは無意識のうちに壁から背を離し、何かに操られるように一直線に彼女の元へと歩み出していた。群がる貴族たちを冷たい視線で蹴散らし、ただ一点、黄金の髪の令嬢だけを見つめて。

 一方のルクレツィアは、ずんずんと歩いてくるユリウスに気づきホッと胸を撫で下ろした。

(あ、よかった。ユリウス様、私だってちゃんと気づいてくれたのね)

 駆け寄ろうとした瞬間、ユリウスは彼女の目の前で立ち止まり、そのしなやかな手首を熱を帯びた大きな手でぐっと掴んだ。

「――っ」

 見上げたユリウスの瞳は、いつも向けてくる「厄介事を持ってくる雇用主の冷たい目」ではなかった。

 獲物を見つけた猛禽類のような、甘く、そして独占欲に満ちた『男の目』だった。

「……君は、幻か?」

 絞り出すように紡がれた彼の声は、酷く掠れていた。

 至近距離で見つめてくる、超絶美男子の熱を帯びた青い瞳。まさか彼が、いつも煤だらけで呆れられている錬金術師に『一目惚れ』しているだなんて、ルクレツィアは夢にも思わなかった。

(えっ? これ、どういうこと……? 私のこと、わかってない?)

「あ、あの、ユリウス様……」

「俺の名を知っているのか? いや、それよりも……君の名前は、なんという?」

 ルクレツィアは混乱しつつも、絶対に正体がバレてはいけないと察し、咄嗟に偽名を口にした。

「……私は、ルナと申します。ただの調合師でございます」

「ルナ……。美しい名前だ。君は、まるで夜の海に輝く星のように、この薄暗い会場を照らしている」

 見たこともないほど情熱的に口説いてくる彼に、ルクレツィアの心臓は爆発しそうだった。

 ユリウスは彼女の腰に腕を回し、逃がさないとばかりに強く抱き寄せた。周囲の貴族たちが「あの氷の公爵が女性をエスコートしている」とどよめきを上げる。

「ルナ。君のような美しい女性が、なぜこんな危険な場所に一人でいる」

「あ、それは……珍しい薬草を探しにまいりました」

「薬草か。だが、君をこのまま一人にしておくわけにはいかない。俺の傍から離れるな」

 ユリウスは彼女を離そうとせず、そのまま会場の中央、ダンスフロアへと強引に導いた。

「踊ってくれ。他の男には、絶対に君を触れさせない」

 生真面目な彼が独占欲をむき出しにして、彼女の手を引き寄せる。ルクレツィアは彼の手の温かさと、初めて自分に向けられた熱い視線に胸が張り裂けそうになりながらも、ワルツのステップを踏み出した。

 密着した距離で踊りながら、ルクレツィアは必死に冷静さを保ち、ユリウスの肩越しに会場の奥を観察した。祭壇に飾られている『古代魔導書』。彼女の研ぎ澄まされた視覚は、その表紙から微かに漏れる魔力の波長を捉えた。

(……間違いない。あれは魔力インクで表面だけを偽装した、精巧な贋作だわ)

 目的は果たした。あとはユリウスに報告して帰るだけだ。

 しかし、彼女の腰を抱くユリウスの腕の力は強くなるばかりで、一向に離してくれそうにない。

「ルナ。今夜が終わったら、俺の屋敷へ来ないか。君のことをもっと知りたい」

 甘く低い声で耳元に囁かれ、ルクレツィアの顔がカッと熱くなる。

 その時だった。ルクレツィアの体内で、チリッとした小さな痛みが走った。シロップの魔力が底をつき始めている合図だ。

(まずい! 3時間が、終わる……!)

 このままここにいれば、ユリウスの目の前で煤だらけの姿に戻ってしまう。

 ルクレツィアはパニックになり、曲が終わるか終わらないかのタイミングで、ユリウスの腕から強引に身をよじって離れた。

「あ、あの! 魔導書は贋作です! 表紙の魔力インクに騙されないで! それじゃあ私はこれで!」

「え? 待て、ルナ!?」

 ユリウスが静止する声も聞かず、ルクレツィアはドレスの裾を掴み、人混みを縫うようにして夜会の出口へと一目散に駆け出した。

 背後で「ルナ!」と切迫した彼の声が響いたが、振り返る余裕などなかった。


❈❈❈


 翌朝。

 王都の路地裏、カビ臭い地下工房。

 そこには、昨夜の魔法が完全に解け、いつも通りのボサボサ髪と煤だらけのローブ姿に戻ったルクレツィアがいた。

「はぁ……心臓が止まるかと思った」

 徹夜の疲労と昨夜の緊張でゲッソリしながら、彼女は乳鉢で薬草をすり潰していた。

 そこに、ダァン!と鼓膜を破るような勢いで重厚な扉が蹴り開けられた。

「ルクレツィア!! いるか!!」

 血相を変えて飛び込んできたのは、ユリウス公爵だった。

 いつもは氷のように冷徹で隙のない彼が、髪を振り乱し、息を切らしている。その目は血走り、完全に平常心を失っていた。

「ユ、ユリウス様? オークションの件なら、昨夜お伝えした通り贋作で……」

「そんなことはどうでもいい!!」

 ユリウスはルクレツィアの作業台に両手をつき、身を乗り出した。

「お前の錬金術のネットワークをすべて使って、俺のために人を探してくれ! 昨夜の会場にいたんだ。サファイアブルーのドレスを着た、黄金の髪の、信じられないほど美しい令嬢だ!」

「…………へ?」

 ルクレツィアは乳棒を持ったまま、完全にフリーズした。

「彼女の名前は『ルナ』という。俺は……あんな女性に出会ったのは初めてだ。一晩中、彼女の香りと声が頭から離れない。どうにかして、必ず彼女を見つけ出し、俺の妻に迎えたいんだ!!」

 超絶美男子の公爵が、目の前の煤だらけの錬金術師に向かって、彼女自身の捜索を熱烈に依頼している。

 絶対に正体を明かせなくなったルクレツィアは、引きつった笑みを浮かべることしかできなかった。

「……は、はい。善処、します……」

 




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