5ー3
拓郎は、なにも言わなかった。
ニッキの香りがほんのりと漂う八ツ橋すらも、食べた気がしなかった。
「ごちそうさま。それじゃ、帰るから」
立ち上がりかけた右手をつかまれた。
握手会でいつもつかんでいる時と違って、汗ばんでいる。
嫌だ。本能的にそう感じていた。
「幸子のことを気にしてるの?」
「なにが?」
「幸子は婚約者だけど、必ず結婚するかどうかはわからないし、お互い、もう腐れ縁みたいになってるから恋人ってわけでもないんだ。それでも嫌?」
「離してっ」
強引に拓郎の手を振りほどくと、今まで見たことのないような、青ざめた顔の拓郎と出会った。
「もう僕にかまわないでくれ。どうせ僕なんて、遺産目的なのだろう?」
「なっ!? はぁっ!?」
心底驚いたような拓郎の声が、情けなく響く。
「とにかく僕は自由になりたい。だから、拓郎のバックアップももういらないんだ」
「いつ? ハニガ辞めるのはいつになる?」
「明日の公演で最後にする。間違ってもストーカーなんかにならないでよ」
そう言い置くと、僕はあわてて靴をはいた。
「それじゃ、さようなら」
後ろ手にドアを閉めると、外灯のあかりがぽんとついた。
帰らなきゃ。
それなのに足が震えている。
涙があふれて止まらないんだ。
それすらも振り切るように足を出すと、大げさにアパートから走り去った。
もう、拓郎のために推理を考える必要なんてない。
幸子さんのことだって、ただのきっかけだったんだ。
拓郎と推理しかなかった狭い視野の中、僕はみじめな地下ドルしかなく、たった今からわたしに変わらなければならないんだ。
そのために、髪を切った。
驚くほど短くなった。でも、とてもよく似合うんだ。わたしにしか似合わない髪形だ。
ひと息に涙を拭うと、息を整えて運営会社に電話をかけた。
「もしもし。縞鳥 きらりです。明日の公演を最後に、ハニガを辞めたいのですけれども」
もちろん、すぐにいい答えをもらえたわけじゃない。せっかくここまできたのだから、もう少し頑張ってみないかとのだしんで、また涙が出た。
「ごめんなさい。もう、疲れてしまったんです。だから、ごめんなさい。限界を超えてしまいました」
しばらくして、それならしかたないね、と返事が返ってきた。
念の為、髪を切ってしまったことと、公演後の握手会を辞退することも話した。
『そこまで真剣に悩んだのならしかたない。きらりんこれからもっと綺麗になるのに残念だけど。そうだね、これからは自分のために輝いてよ』
運営さんの言葉に、嗚咽で答えることしかできなかった。
つづく




