六章 青年期Ⅱ
はい、俺です。
なぜに俺はここにいるのでしょう?田村家のリビングです。ちょっと年齢は分かりませんが、俺よりも少し歳上だろうと思われる女性と二人きり、麦茶を飲んでいます。しかも正座で。
俺が正座ですよ?これまでの事を考えると信じられますか?おとなしく正座で麦茶飲んでるんですよ?なんか笑えてきますね。でも、笑ってる場合ではありません。
「お父さん、もうすぐ帰ってくると思うから……」
そう言ったっきり、目の前の女性は黙り込んでしまいました。勿論、俺も黙り込んでいます。
……気まずい。本当に気まずい。何か言ったらいいのでしょうが、何を言ったら良いのか見当もつきません。
時間はどんどん進んで行きます。五分、十分、あれ?まだ上がり込んでそんな時間しか経っていないのですか?既に数時間はお邪魔している気になっていました。すみません。
どれくらいの時間が溶けていったのでしょうか、玄関の方から扉を開ける音が聞こえました。
「ただい……」
ま、くらい言えばいいのに、ま、を言わずして声が途切れました。
きっとお客さんが来ていることに驚いたのでしょう。男物の靴が玄関にあるわけですからね、どこのお父さんも驚くでしょう。
あれ?奥方の姿が見えないことに今更ながらに気が付きました。それに、目の前の女性の風貌には少し既視感を感じたりしてます。んんん。これが嫌な予感の正体ですね。何と言うか、ツッコミどころ満載の現実の予感ですね。
ふと、廊下から足音が聞こえてきました。リビングに入ってきたその人は、荷物を置くと俺の目の前に腰掛けました。
「いらっしゃい」
なんと優しいお声がけ。俺がどこの誰か分かっているのでしょうか。俺が何を言いに来たのか分かっているのでしょうか?
あれ?俺は何を言いたかったのでしょうか?言葉が喉でつかえて出てきません。
目の前が滲んでいます。おやおや?これはなんでしょうか?涙、でしょうか?なぜに俺が泣かなければならないのか?理由が分かりません。
おかしくないですか?目の前の女性も泣いています。目の前の男性も泣いています。ここにいる全員が泣いています。号泣です。嗚咽を漏らしています。
カオスです。カオスな状況がここにあります。笑えてくるのに笑えません。
だいぶ泣きましたかね、落ち着いた頃を見計らって話を始めます。
「はじめまして。遠藤賢司と申します。遠藤晴子の息子です」
「知ってる」
「母の葬儀に、参列して頂いてありがとうございます」
「ご愁傷様でした」
「母の葬儀に参列してくれたのは……」
そこまで言って言葉が詰まりました。
「晴子の元夫で、君の父親だからね」
案外あっさり白状するんですね。あっさりし過ぎて冷やし茶漬けなのかと思いました。……そんなわけないですね。
かなりの時間お邪魔していたと思います。母親の緊急連絡先に、元夫である父親が入っていた事で、あの日電話に出なかった俺に代わり、父親に電話が行ったそうです。
俺と同じように、電話に気がつけなかった父親がかけ直したところ、既に母親は亡くなっていたそうです。葬儀の日取りや場所なんかは、ありとあらゆる手段を講じて調べたそうです。
何より、一番俺が衝撃的だったのは、離婚理由が母親の浮気だったということです。
「母親が死んだのは、あなたが母親を捨てたからだ!」
って言いたかったのに、それじゃ何も言えません。
「母親が死んだのは自業自得だ!」
になってしまいました。
はぁ……目の前の父親を憎みたかったのに憎めなくなったじゃないですか。
浮気をしたあとに、俺を身籠っていることが分かり、どちらの子か分からないまま離婚したけれど、よくよく考えれば自分の子だと分かっていたと、なんて皮肉なことでしょう。
「あの時は私も私なんだ。仕事が忙しくて楽しくて、仕事だからと家を空けることも多かった。寂しい思いをさせたんだ。美代子の世話も全部任せて」
だからこそ、緊急の連絡先に自分を入れさせたそうです。
あ、言い忘れましたが、美代子さんとは、目の前にいる五つ齢の離れた姉のことです。そうです。思った通り、目の前にいる女性は俺の姉だったのです。予想通り、嫌な予感は当たるものなんですね。ツッコミどころ満載な現実の勝利です。
妻の浮気を許そうとはしたが、妊娠を知った父親は許すことが出来なくなり、母親を追い出したのだそうです。今俺がいるこの場所から。
で、離婚後、よくよく考えて、身籠っている子が自分の子だと気付いたが時すでに遅し、既に離婚は成立。どうすることも出来なかったそうです。
なので、せめてもの思いから養育費を支払っていたと言うことでした。んー、世知辛い。世知辛いと言うか、塩辛い。……茶化してしまうのも俺の悪いところですね、すみません。
そんな事から、母親への責任を多少なりとも感じており、再婚はしなかったと言う事です。
尚且つ、本当は俺にも会いたかったと言っていました。
俺の、俺と母親の生活を考えれば会わなかったのは正解ですね。
なんかねぇ、自分が本当に情けなくなってしまいます。何も知らず、知ろうともしなかった。誰かの所為にして、俺を取り巻く環境の所為にして、誰かの幸せを妬み、自分の不幸を呪う。なんて浅はかだったのか。
父親には泊まっていったらどうかと言われましたけど、まだ電車もあったので辞退して、家に帰ることにしました。母親とともに暮らしたあの家に。
もしかすると、もう父親にも姉にも会うことはないのだろうと思いました。
帰り道は涙が止まりませんでしたね。なんで泣いているのかもよく分からなくなるくらいに泣きました。
周りの人の好奇な目も関係なかったですね。泣いて泣いて泣いて、瞼が腫れるほど泣きました。
泣きつかれた私が、次に目を覚ましたのは二日後の事でした。




