はじめての平日の朝
朝は、アラームが鳴るよりも前にふと目を覚ました。
まだ外はほんのりと薄暗く、窓の隙間から差し込む朝靄のような光が、部屋の空気を静かに照らしていた。
心愛は布団の中で小さく身体を丸めたまま、しばらく天井を見つめる。
枕元の時計に手を伸ばすと、表示された時刻は「5:52」。
あと少しだけ眠れるかもしれない時間。 けれど、なぜだか心が落ち着かなくて、まぶたが閉じられない。
そのとき、隣の部屋からかすかに足音が聞こえた。
す、と床板が軋む音。重たすぎず、けれど確かに大人の歩み。
――白洲さんも、今起きたのかな……?
そっと髪をひとつにまとめ、目を閉じて深呼吸。
変に気を遣いすぎてもいけないけれど、無神経にもなりたくない。 そのちょうどいいバランスを探るように、ベッドの上でしばらくもぞもぞと悩む。
(いきなり開けたらびっくりするよね!? どうしよう、開けまーすとか言う? ……いや、それはそれで変……!)
(……そうだっ!!)
ぴん、と何かが弾けたように、心愛はベッドから抜け出した。 ふわふわのスリッパを履いて、そろりそろりと扉の前へ。
そして、意を決して――こつ、こつ、と小さくノックした。
すると、間を置かずに「おはようございます」と、白洲の低く落ち着いた声が返ってきた。
「おはようございます!!」
反射的に元気よく返したものの、「なんでノックしてんの、部屋から出るだけなのに!」と自分で自分にツッコミを入れてしまう。
顔がかぁっと熱くなるのを感じながら、どたばたと扉を開けた。
だが白洲は気にも留めていない様子で階段を下りかけ――ふと立ち止まり、振り返った。
「部屋のドアは内開きなので、大丈夫ですよ」
「……あう」
やっぱり恥ずかしい……。でも、白洲さんのツッコミは……なんかちょっとだけ、優しい。
◇
「今日は任せてくださいねっ!」
張り切る心愛に、白洲はスッとエプロンを取り出し、「お願いします」と手渡す。その笑みには、無言の優しさが滲んでいた。
野菜を洗う心愛の手元には、水滴がキラキラと光る。
キャベツの芯を落とし、レタスを一枚ずつ剥がしながら、ちらりと隣を伺う。
白洲は無駄のない動きで卵を片手で割り、フライパンの上に滑らせるように落とした。続いてベーコンを一枚ずつ丁寧に並べていく様子は、どこか職人のようにすら見えた。
火加減を絶妙に調整しながら、フライ返しの先でベーコンの端を軽く押さえる。
じゅう……という音とともに、香ばしい匂いが空間を満たしていく。
(……手際、良すぎじゃない……?)
料理上手だとは思ってたけど、こうして間近で見ると――なんかもう、プロの料理番組を間近で見学してるみたい……。
まるで何年も厨房に立ってきたプロみたいに、迷いなく動くその手つき。
白洲さん、もし本業をやめても喫茶店とかすぐ開けるのでは……と、妙に現実的な想像まで浮かんでしまう。
(常連のおばさまに「今日も素敵ですね」って言われてそう……)
心愛は洗い終えた野菜をボウルに移しながら、ついつい妄想してしまった。
会話は少ない。でも、自然と手が合う。
サラダを盛りつけるタイミングで、白洲が焼いた卵を皿に滑らせる。冷蔵庫の前で迷う心愛に、白洲は無言でドレッシングを手渡す。
(……なんか、カッコ良くない? 今の流れ……)
(ていうか、息ぴったりすぎじゃない!? 何これ!? ペア競技!? シンクロ!?)
(え、ちょっと待って、今の私たち……無言で以心伝心してたよね!? アイコンタクトで調理する、金メダル級の朝ごはんなんですけど!?)
思わず口元が綻ぶ。
背中合わせで、心愛はトーストを焼き、白洲はコーヒーを淹れている。
まるで、朝キッチンで始まるシンフォニー。
ココアをかき混ぜるスプーンの音がカチャカチャと響き、それがなんだか拍子を取ってるように聞こえる。
(え、これ……私たち、夫婦漫才じゃなくて、夫婦バリスタでは!?背中だけで会話してるし!)
焼けたパンの香ばしさと、コーヒーの深い香りがゆっくりと混ざり合う。
その空間はまるで、朝日を浴びた舞台の上。ミュージカルのワンシーンみたいに、すべてがタイミングよく、完璧に輝いてたっ!
(誰かっ! カメラマンさん!! 奇跡の瞬間は今ですっ!!) (このキッチンの奇跡、一生モノの記念フォトになるんですけどっ!?)
白洲さんもオールバックじゃないし……髪、ふんわりしてるし……! (ちょっと! その優雅さ、朝から反則ですからね!?) (誰か〜! NHKの朝の連ドラ関係者いませんか〜!? 今ここに実在の貴族、いますよ〜!?)
ああ白洲さん……朝から尊い。
◇
ふたり向かい合わせにダイニングテーブルに座って、静かな朝食が始まった。
(パジャマ姿で向かい合わせって……どう考えても夫婦じゃーん!?)
心愛は心の中で全力ツッコミを入れながらも、トーストの香りと白洲の落ち着いた所作にうっとりしていた。
「朝の番組見ると、月曜だなぁ……って気がしますね」
その言葉を口にした瞬間、自分の声が少しだけ沈んでいたことに気づいて、内心ドキッとする。
週末の時間が終わって、また“現実”に戻る。 別に特別なイベントがあったわけじゃないのに、日曜日の夜って、いつも胸がぎゅうっとなる。
(白洲さんと、もう少しだけゴロゴロしてたいだけなのになぁ……)
言えるわけないけど、今朝だって本当は布団の中でもう少しだけ……白洲さんの気配を感じていたかった。
「白洲さんは、月曜日は憂鬱な気分になったりしないんですか?」
聞いてみたのは、ほんのちょっとだけ、同じ気持ちを共有できたら嬉しいなって思ったからだった。
「なりませんねぇ。むしろ、逆に休みの方が苦手です」
白洲の答えに、心愛はきょとんと首を傾げる。
その仕草を見て、白洲は少しだけ言葉を探すように視線を宙に滑らせた。
「休みの日というのは、なんというか……調子を崩すことが多くて。リズムが狂って、戻すのに時間がかかるんですよ」
「休みで体調崩す人って、初めて聞きました!!」
「うちの会社にはリフレッシュ休暇というのがありまして。10連休もらったんですが……気が抜けたのか、がっつり体調崩しまして……」
白洲は一呼吸おいて、コーヒーにそっと口をつけた。 そして、カップを置くタイミングでさらりと続ける。
「10日間、寝込むハメになりました」
「もったいない……!」
「まぁ、やることも特にありませんし」
「今は……リフレッシュ休暇とか、ないんですか?」
「来年……いや再来年ですね。20年目にまた貰えます」
「じゃあ、次は一緒に旅行したいです!」
「ああ……」
白洲は一瞬、言葉に詰まりそうになる。 本来なら、この生活も“期間限定”のはずだ。
だが、だからといって今それを口にする必要は――ない。
「考えておきましょう」
「やった!」
思わず声を弾ませたけれど、その言い方にほんの少しだけ間があった気がして、心愛の心がぴたりと静かになる。
(……今の、“あまり期待されても困る”って意味だったのかも?)
気のせいかもしれない。だけど、嬉しさと一緒に、少しだけ胸がきゅっとなった。
それ以上は深く考えないようにして、話題を切り替えることにした。
「砂糖……入れますか? ブラック派……でしたっけ?」
「昨日はブラックでしたね」
「甘いものは嫌いではないのですが……何故でしょう? コーヒーには入れませんね……」
「もしかして、紅茶にはお砂糖入れます?」
「入れますね。……なんででしょう?」
「ふふっ」
(……やっぱり不思議な人だな)なんて思いながら、トーストにジャムを塗る。
「ジャム、好きなんですね」
「はいっ! 甘いの、元気出る気がして……あ、でも、バターの日もあって……あれ? なんででしょう?」
二人は真顔で目を合わせたあと、ぴったり同時に口を開いた。
「「なんででしょうね?」」
心愛はふと思い出したようにスマホを取り出した。
「そういえば……連絡先、交換してませんでしたよね?」
「たしかに。」
白洲もスマホを取り出し、すぐにQRコードを表示する。心愛は自然な手つきで読み取り、ぴろんっと通知音が鳴った。
「ありがとうございます。これから、ちょこちょこ連絡しちゃいますね?」
心愛がふわっと笑うと、白洲は静かに頷いた。
◇
白洲が靴を履いていると、心愛が小走りで靴ベラを手渡す。
「これ、どうぞっ」
「ありがとうございます。では、行ってきます」
「カギ、閉めておきますね」
ふと視線が重なり、二人は自然に微笑んだ。
(……今日の私は、白洲さんを支える奥さんモード、ですっ!)
心愛は頬を少し染めながら、玄関の外に出ていく彼の背中を、そっと見送った。