朝のひとさじ、夕暮れのふたり
スマホのアラームが鳴った。
まどろみの中でうっすら目を開けた心愛は、ふかふかの感触に包まれたまま伸びをする。
(……なにこれ、天国?)
寝返りをうちながら、柔らかさと反発力の絶妙なバランスにうっとりする。
「……このベッド、ほんとすごいな……。おじいちゃんとママにも、プレゼントしたくなっちゃうかも……」
半ば夢見心地のまま顔を洗い、スウェットに着替えて階下へ向かう。
ドアを開けると、ふわりとベーコンとパンの香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
「うわ……いい匂い……」
キッチンからは小気味よいフライパンの音。白洲が手際よく朝食を準備していた。
「おはようございます。時間通りですね?」
振り返った白洲が、淡々と挨拶する。
その手には、綺麗に盛りつけられた朝食のプレート――まるでホテルのモーニングみたいだった。
「うわっ、もう朝ごはんできてる……!? すごっ……!」
「ちょうど出来たところですよ」
パタパタと心愛がキッチンへ駆け寄ると、白洲はカウンターに置いてあったシュシュをさっと取り、彼女へ差し出す。
「髪、まとめた方が良いでしょう」
「ありがとうございますっ!」
(……なに今の……付き合って何年目の空気感なの!? え、やば、勝手にキュンってした……)
だが我に返って、ピシッと背筋を伸ばす。
「てか、こういうのって私がやらなきゃじゃないですか!」
「いえ、私は早起きですから」
「じゃあ、明日は私がやります! 白洲さんはゆっくりしててください!」
「……それでは、明日はお任せします」
はいっ!と声を弾ませて、プレートを抱えてテーブルへ向かった。
ほんのささいなことなのに、どうしてだろう。今の自分、とても幸せそうに見える気がした。
白洲は棚からカップを2つ取り出し、手際よく水を注ぎ終えると、ちらりと心愛に目を向けた。
「コーヒーは飲みますか?」
「あ、はい! ……お砂糖とミルクがあれば……」
「白洲さんは、コーヒーが……お好きなんですね?」
そう聞くと、彼は少しだけ口元を緩めた。
「実は、そんなに好きじゃないんですよ」
「えっ、じゃあ何で飲むんですか?」
「大人になったら飲むものなのかなと思いまして……そのまま習慣になりましたね」
「ふふっ、なんですかそれ。ちょっと変なの」
心愛はくすくす笑いながら、湯気の向こうにいる白洲をそっと見つめる。
「紅茶やココアなんかもありますが」
「あ、私ココア好きです! 名前も心愛ですし」
カップを手にした白洲が、湯気の立つ流しに向かって小さくつぶやいた。
「心愛飲む心愛さん……」
真顔。
「ふふっ、いきなり韻踏んできましたね……ギャグ、ですか?」
「いえ、語呂がいいなと思いまして」
「……ラップっぽくもありますね」
コーヒーの香りがふわりと広がる。
なんてことのない会話なのに、心がじんわり温まっていく。
朝の光に包まれながら、ふたりはふと見つめ合って――そっと笑い合った。
◇
食事のあとは、心愛が進んで片付けに立つ。
ふと、白洲が食器を水切りラックに並べながら尋ねた。
「食洗器、使わないんですね」
「え、なんか信用できないんですよ! 水圧だけで落ちるの?っていうか、落ちたとしても……なんだかなぁって?」
説明の途中で白洲が何も言わずにスッと開けた食洗器を静かに閉じる姿が見えた。
「まあまあまあまあ、手洗いでも良いじゃないですかっ」
心愛は勢いだけでそう言い切って、あわてて笑った。
◇
午前中は心愛の部屋の片づけ。
昨日、大物はほとんど終わらせてあったので、今日は段ボールの整理が中心だった。
「これは服、これは本、これは雑貨……うん、順調……!」
そこへ白洲がやってきて、無言のまま段ボールを効率よく畳み始めた。
「……はやっ。早すぎますって」
「段ボールの開封は、現場でもよくやりますから」
ふと手が止まる。
「残りは衣服関係のようですね。私は玄関のゴミを出してきます」
「えっ、あっ……ありがとうございます……」
スッと空気を読んで部屋を出る白洲の背中を見送りながら、心愛は胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。
(……白洲さんって、すごく空気読める人なんだな)
そう思いながら、手元の開封済み段ボールに目をやる。
「――って、これ昨日開けたやつ……」
中身は、下着。
「ひゃあああーーーー!!」
悶絶。
真っ赤になって段ボールを閉じ、心愛はふたを押さえたまま顔をうずめた。
◇
片づけがひと段落して、リビングへ降りる。
白洲はワイシャツの袖を無造作にまくり、麦茶を作っているところだった。
腕、意外と筋肉ある……。
いや、それだけじゃない。
キッチンで屈んだとき、シャツのすそからチラリと見えた腹部。
無駄のない、引き締まったラインが目に焼きついて離れない。
(……え、なにこの色気。やば……)
「白洲さん、けっこう……お腹まわり、引き締まってるんですね?」
聞こえるか聞こえないかの声で、なんとか絞り出した。
「ジムには定期的に通っていますので」
心愛はごく自然な動作で一歩近づく。
「……触ってもいいですか?」
「どうぞ」
言われるがまま、そっと手を伸ばす。
「わ、思ったより硬い……!」
軽く押しただけで弾力が返ってくる。見た目以上に、鍛えているのが伝わった。
「おじいちゃんとは全然ちがう!」
「比較対象が特殊すぎます」
言われて、思わず笑ってしまう。
ふと、自分のお腹を見下ろす。
「私、お腹まわりがちょっとプニプニしてきたんですよね……どう思います?」
その瞬間、白洲が静かにしゃがみ込み、両手で彼女の腰をそっと持った。
「――えっ」
な、なに、どうしよう。何されちゃうの……!?
思考が追いつかないまま、白洲の指がごく自然に腰骨のラインをなぞる。
「……触診の結果、問題ないと思われます」
「ひゃんっ!?」
全身がビクリと跳ねる。
「も、問題ないって……言い方ぁ……」
顔が熱い。心臓が、暴れてる。
でも――なんか、悪くない。
ふたりは視線を交わし、小さく笑い合った。
◇
午後、ふかふかのソファに並んで座る。
間には差し込み式のサイドテーブル。コップが倒れないように、深めのくぼみ付き。
「こうやって窪みがあると、コップとか倒さなくて良いですね」
「ああ、よく倒すとか」
「ひょえっ!……なんで知ってるんですか?」
「昨日、お母さまに、ちょっと」
「し、知らないところで言われてると恥ずかしいですよー! でも仕方ないんですよ! 私、胸が――あっ……」
うっかり口が滑った。
慌てて口を押さえるも、時すでに遅し。
「……なるほど」
白洲は真剣な顔で頷いていて――それが、逆に恥ずかしかった。
(もうやだぁぁ……!)
顔を伏せながら、ソファの縁に額をゴンと軽くぶつけた。
◇
夕方近く、掃除を終えた心愛がリビングに戻ってきた。
カーテン越しに差し込む夕日が、部屋の空気をほんのりオレンジに染めている。
「今日の晩ごはん、どうしましょうか?」
「そうですね。何か希望は?」
「んー、私、麺類が好きなんですよね。ラーメンとか、うどんとか……」
白洲がぽつりと答える。
「私は、どちらかと言えば和食が好みですね。あっさりしたものが多いので」
「わかるかも! 冷たいお蕎麦とか、暑い日にはぴったりですよね〜」
そう言いかけて、心愛はパッと顔を上げた。
「……あ、そういえば!」
「引っ越し蕎麦って、まだ食べてないですよね?」
「……確かに。気づきませんでした」
「じゃあ、今から買いに行きませんか?! 近所にスーパーありましたよね?」
白洲が少し考えて、頷く。
「はい。エコバッグも用意してあります」
ふたり、玄関で靴を履いて並び立つ。
ドアを開けると、夕焼けに染まる街が広がっていた。
そろりと踏み出した足音が、並んで歩くリズムを刻んでいく。
(……二人で買い物に行くのって)
(なんだか……“家族”っぽいな)




