その部屋、新生活の予感につき。
朝の空気は、思ったよりも涼しかった。
小型の引っ越しトラックが家の前に止まり、荷台の扉が開く音が聞こえる。
玄関を出ると、キャップをかぶった少女が、段ボールを前に小さく背伸びをしていた。
月城 心愛――今日から“彼女”が、この家に住むことになる。
「おはようございます、白洲さんっ!」
声だけは元気だった。
けれど、その表情には緊張と高揚が入り混じっている。目はしっかりこちらを捉えているのに、すぐ逸らしてしまうのが、それを物語っていた。
白洲は静かに頷く。
「……朝早くからお疲れさまです。荷物、多かったでしょう」
「いえっ、あの、その……そんなに……っていうか……」
しどろもどろになりながら話しかけようとしたその時。
「お世話になります、白洲さん。本日はありがとうございます」
心愛の横から一歩前に出てきたのは、母である月城理絵だ。
落ち着いたトーンに、上品な立ち居振る舞い。なるほど、と思う。
娘の“育ち”が良い意味で、よくわかる挨拶だった。
心愛は一瞬、口を尖らせた。
「あ、先に挨拶されちゃった……」という表情が、わかりやすく顔に出ていた。
(……見た目よりは、大人びた子に見えたんですが)
白洲が会釈を返したその直後――。
心愛はふと、玄関脇の駐車スペースに目をやった。
「……あれ、白洲さん、この荷物の山……?」
黒いセダンの隣に、スチールラックや透明な収納ケースがいくつも積み上げられている。
中には、陶芸道具や登山ザック、未使用のキャンプセットらしきものまで混じっていた。
「不要品です。あなたの引っ越しに合わせて整理しました。ちょうど、いい機会でしたので」
白洲は淡々と告げた。
その言葉に、心愛はわかりやすく食いついた。
「……これ、全部、処分するんですか?」
白洲は小さく頷く。
「ええ~~っ! もったいないですよ! しかもこれ、キャンプセットじゃないですか!」
少女のテンションが、突如跳ね上がった。
「新品みたい! わたし、ずっとキャンプ憧れててっ……え、捨てるなんてもったいないっ。白洲さん、これだけは置いておきましょう!? いや、わたしにくださいっ!」
白洲は一瞬だけ目を瞬き、それからわずかに口角を緩めた。
「……お好きにどうぞ」
その言葉に、心愛は目を輝かせながら、駐車場の端にしゃがみ込んだ。だがその姿を見た理絵が、眉をひそめる。
「心愛。引っ越し屋さんも待ってるんだから、あんまりはしゃがないの。……みっともないわよ」
「えへへ……ごめんなさいっ」
子どもをたしなめるような口調と、それをあっさり受け入れる娘の姿に、白洲は小さく息をつく。
家庭らしい温度感。それは、自分の人生には縁のなかったものだった。
トラックの荷台から、次々に段ボールが降ろされていく。
白洲は作業員と要点だけ確認しながら、搬入の手順を伝える。
心愛は、大事そうにぬいぐるみや小物類を自分の手で運んでいた。
理絵も手伝っていたが、どちらかというと様子を見守る雰囲気だった。
「……本当に、良かったんでしょうか」
ふと、白洲が声をかけると、理絵は少し意外そうな顔をして振り向いた。
「何が、ですか?」
「この形です。年齢も、生活もまるで違う――私のような人間と、一つ屋根の下で暮らすのは、やはり負担が大きいのではと」
理絵は小さく笑った。
「ふふっ、確かに……普通はそう思いますよね。でも、心愛は昔から、ちょっと変わってて」
そのまま立て板に水のように「お騒がせ娘エピソード」が始まった。
よくコップを倒す、スマホを冷蔵庫に入れたまま一日気づかない、牛乳のフタを閉め忘れて三回こぼした――。
「……つまり、油断すると床がぬるぬるになるってことですね」
「そうそう、よく分かってらっしゃる」
(……いや、分かりたくはなかった。というか聞きたかったのはそういう話ではなく――)
そう思いながらも、白洲はそれ以上口を挟まず聞き役に徹した。
◆
ぬいぐるみをひと抱え持ったまま、心愛はそっと部屋の前に立った。
ドアはすでに開いていて、荷物の段ボールが数箱、奥に置かれている。
覗き込むようにして中を覗いた瞬間――彼女は思わず、足を止めた。
「…………えっ」
部屋を見渡すその瞳が、ゆっくりと見開かれていく。
「な、なにこれ……広っ」
思わず小さく声を漏らす。
段ボールが数箱置かれているだけの部屋。壁際には、まだ梱包のままの机と椅子、チェストに化粧台が控えている。
カーテンはついておらず、大きな窓から陽射しが差し込んでいた。
(……え、これ、私の部屋だよね? 広すぎない?)
きょろきょろと天井を見上げ、窓の高さを確認し――ふと振り返る。
「っていうか、これ……一番広い部屋じゃないですか? 白洲さんの寝室より大きかったらどうしよう……」
思わずパタパタと廊下に出かけ――寸前で立ち止まった。
「……いやいや、そんな失礼なこと……こっそり確認するわけにもいかないしっ」
そのとき、背後から作業員の声がかかった。
「失礼します。この家具、どのあたりに置きますか?」
「あっ、えっと……そのへんで! 窓の……前……?」
完全に動揺したまま、適当に指をさしてしまう。
(え、え、待って、窓にかぶるし! そもそもカーテンないし!)
内心パニックのまま、心愛はぬいぐるみを胸に抱え直した。
ふと足音に気づいて振り返ると。
「……あっ」
白洲と、理絵が並んで立っていた。
「お部屋の様子は、いかがでしたか?」
静かな口調で白洲が尋ねると、心愛はぴょこっと立ち上がり、小さくうなずいた。
「すごく……広くて、びっくりしました……」
「空いていた部屋を、そのまま使っていただくだけです。どうか気にせず」
白洲は淡々と答えつつ、段ボールと家具の配置を一瞥する。
「カーテンは、あえて付けていません。よろしければ、後でお好きなものを選びに行きましょう」
「あっ……はいっ!」
先回りされたことに、驚いたように目を見開く心愛。
自分が内心で思っていたことを、もう察知されていたことが少し恥ずかしくて――でも、なんだか嬉しかった。
「ほんとに……立派なお部屋。うちの娘には、もったいないくらいです」
理絵が遠慮がちに笑うと、白洲はゆっくりと首を振る。
「いえ。環境に不備があっては、生活そのものがうまく回りませんから」
心愛は、二人のやりとりをそっと見つめながら、内心で呟いた。
(……もしかして、私のこと……ちゃんと“生活する人間”として、見てくれてるのかな)
胸の奥で、何かがふわっと温かくなるのを感じながら――もう一度、部屋を見渡した。
◇
その後、荷物の搬入がすべて終わったところで、理絵が声をかけた。
「じゃあ、荷ほどきは……手伝わなくても大丈夫?」
「だいじょーぶっ! 自分でできるよ!」
胸を張る娘に、理絵は肩をすくめる。
「ほんとにもう、変に張り切るんだから。……じゃあ、私はそろそろ帰るわね」
「えっ、もうっ!?」
思わず大きな声を上げる心愛。
心の準備ができていなかったのか、わかりやすく顔に「不安」が出ていた。
白洲も、思わず口を開く。
「……もしお時間が許すなら、軽くお茶でも――」
だが、理絵はにこやかに首を横に振る。
「いえいえ。あとは、若いおふたりにお任せします」
若い――その言葉に、白洲は口をつぐむ。
(……私もあなたと、年齢はそれほど違わないのですが)
言いかけて、やめた。
心の中でだけ、小さく呟く。
理絵は車に乗り込み、すぐに発進していった。
玄関前に、白洲と心愛だけが取り残される。
家の中は静かだった。
ほんの数時間前まで、誰も住んでいなかったこの場所に、確かに“生活の気配”が立ち上ってきていた。
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