脳内エラー発生中
――数十分後。
重役の提案で、一同はホテルロビー横のカフェスペースへと移動していた。
「まあ、今日は大変だったからね。あまり堅苦しくない場所のほうがいいだろう?」
心愛がプールに落ちるというハプニングを受け、フォーマルなレストランでの会食は中止。代わりに、軽食と飲み物を囲みながらの簡易な打ち合わせとなった。
白洲の頭の中は、いまだ整理が追いついていない。
(……なぜこうなった?)
上司、重役、そして少女の母親がそれぞれ簡単な自己紹介を済ませ、今後の話へと移っていく。
(そもそも、なぜこの少女が“お見合い相手”として乗り気なのか?)
白洲は静かにメガネを外し、鼻の付け根を軽くマッサージした。
(……困った。全然、話が頭に入ってこない)
再びメガネを掛け直し、ふと少女――月城心愛のほうへ目をやる。
目が合った。
彼女は一度だけ、ふわりと視線を外すように目を伏せ――それから、再びこちらを見つめ返してきた。
(……何歳なのだろうか)
そんな場違いな疑問が、思考の片隅をかすめたとき。
「白洲! 聞いてるのか?」
上司の声が、意識を現実へと引き戻した。
「あ……すみません」
(少し体力を消耗してしまったのかもしれません――そう言いたかったのだが)
「まぁまぁまぁ。見つめ合うふたりの邪魔をするのも野暮じゃないか?」
重役の豪快なひと言に、場が柔らかく笑いに包まれた。
(……そうか。言われてみれば無意識に見つめ合う構図だったな)
内心で納得しつつ、白洲もようやく本題に向き合う決意を固めた。
だが、隣に座る少女は「ひゃうっ!?」と小さく声を漏らし、真っ赤な顔でうつむいたままだった。
ちなみに――重役は、彼女の祖父にあたる人物だという。
その大切な孫を、よりによって自分のような中年男と……なぜ?
(お母さん……あなたまで“安心しました”みたいな顔をしているのは、なぜですか)
湧き上がる疑問をすべて口にするわけにもいかず、白洲は静かに聞き役に徹した。
やがて話は進み、次のような条件が提示された。
――月城心愛が、白洲の自宅に住む。
――期間は半年。
――仮同棲を通じて、お互いが“結婚相手としてふさわしいか”を判断してほしい。
(……いきなり同棲など、あまりに性急ではないか?)
そう思った白洲だったが、口を開く隙はなかった。
「はいっ! よろしくお願いしますっ!」
心愛の返事が、やけに早かったのだ。その勢いに気圧され、白洲はタイミングを逃す。
こうして話はまとまり、一同は早めの解散となった。
◇
ホテルのエントランスにて、白洲は重役、母親、そして心愛をタクシーに乗せて見送った。
「それじゃあ、また改めて。よろしく頼むよ、白洲くん」
重役の言葉に、白洲は丁寧に頭を下げる。
そして、残されたのは白洲と――上司のふたりだけだった。
「……聞いてない話が多すぎますが」
「……すまん。白洲」
上司は視線を泳がせながら、苦笑いを浮かべた。
「その、お見合い同棲ってのは重役の発案でな……正直、うまくいくとは思ってなかったんだ。だから、まあ……伝えなくてもいいかなって……」
「無責任すぎませんか?」
「でも、まあいいじゃないか! お前、独身だろ? しかも相手は、めちゃくちゃ可愛い子じゃないか!」
「……どう見ても、未成年にしか見えませんでしたが」
「いやいや、聞いてなかったのか? 彼女は大学三年生、二十歳だよ。れっきとした大人だ。なんの問題もない」
(見た目より歳は上……だったのか)
少しだけ意外に思いながらも、白洲はなおも食い下がる。
「それにしたって、年の差が……」
「まぁまぁまぁまぁ。気楽に考えろって!」
取り合う様子もなく、上司はそそくさと帰路についた。
残された白洲は、静まり返ったロビーのソファにひとり腰を下ろし、しばし黙考する。
(……なんだったんだ、今日は)
深いため息をひとつ。
スマートフォンで最寄り駅までのルートを確認し、ホテルをあとにした。
タクシーを使うほどでもない。
地下鉄の入り口へと向かいながら、街の喧騒の中に身を委ねる。
(まさか、仮とはいえ、同棲することになるとは……)
何がどうしてこうなったのか。
思考の糸を手繰ろうとするたび、心愛の濡れた髪と、はにかんだ笑顔が頭をよぎる。
(あの子は……本気なのか?)
無邪気とも、確信犯ともとれるその態度。
しかし決して子どもっぽくはなく、妙に芯の強さを感じたのも確かだった。
電車の座席に腰を下ろし、白洲は目を閉じた。
静かすぎる心のざわめきが、徐々に輪郭を持ち始めているような――。
そんな感覚だけが、確かに胸に残っていた。
◆
日も暮れないうちに白洲は家へ着いた。
スーツのジャケットを脱ぎ、シャツの袖をまくりながら、彼は家の奥へと歩を進める。
郊外の静かな住宅街に建つ、築数年の3LDK。
喧騒からはほどよく距離がありながらも、最寄り駅までは徒歩10分足らず。
敷地内には駐車スペースが2台分。片方には黒のセダンが収まり、もう一台分は普段空いている。たまに姉が車で訪れる際に使う程度だ。
外観は白とグレーを基調にしたシンプルなデザインで、窓枠や庇にさりげない木目調のアクセントが効いている。
いかにも“家族向け”といった造りだが、住人は白洲ひとりだった。
家の中は、必要最低限の家具だけが置かれた実用本位の空間。
リビングには食事用のテーブルと椅子がふたつ、壁際には薄型テレビ。ソファはない。
1階の奥には、今は使われていない部屋がひとつ。
内部はしっかりと遮音施工されているが、物置としても活用されておらず、訪れる者の目には少しだけ不思議に映るかもしれない。
だが――まあ、いずれ話すことになるだろう。
3つある部屋のうちひとつは自身の寝室。
もうひとつは、姉から預かった不用品で埋まっている。
子育て中の姉が「一時的に」と運び込んだ段ボールや季節家電が、いまだに手つかずのまま残っていた。
(……まあ、彼女らしい)
気が強くて豪快で、賑やかで――弟である白洲から見ても、少し圧のある人間だったが、悪い人ではない。
とはいえ、そこを片付けるのは非現実的だった。
だからこそ、もう一室。
彼女のために部屋を空けなければならない。
もともと趣味の道具で埋まっていた一室を、片付けることに躊躇いはなかった。
その部屋を開ける。
理路整然と並べられたスチールラックに透明なプラケースが並ぶ。
無機質な空間に、彼は一瞬だけ立ち尽くした。
(……ここが、彼女の部屋になる)
誰かと一緒に暮らすこととなるとは、思ってもみなかった。
ましてや――あの年齢差のある少女と。
だが決まってしまった以上、やるべきことは1つだ。
「……さて」
静かに息を吐くと、白洲は棚の上の箱を1つずつ下ろし始めた。
◆
白洲は静かに、最後のプラケースの蓋を閉じた。
スチールラックの棚板を外し、フレームを解体していく。
カチリ、と金属が外れるたびに、部屋の空気が少しずつ軽くなっていくようだった。
(――これで、ひと通り終わった)
夕食も取らず、数時間。
集中すれば、片付けなどすぐに終わる。
白洲の動きに、迷いもためらいもない。
ケースにはすべて、ラベルが貼られていた。
“陶芸”“アウトドア”“映像機材”――どれも過去の業務で必要だったもの。
だが今は、どれひとつとして、今後の生活に必要とは思えなかった。
(全て、不要)
確認は形式的なものに過ぎない。
手に取るたび、一切の迷いなく「処分」と判断し、玄関へと積み上げていく。
仕事用として残すのは、ゴルフクラブだけ。
それも明確な予定があるからで、それ以上の理由はない。
キャンプ用品も同様だった。
軽量コンロ、折りたたみチェア、小型ランタン――状態は悪くなかった。
だが、白洲の中ではすでに“過去の道具”でしかなく、価値も記憶も付随していなかった。
(使わない。ならば、必要ない)
そう判断した瞬間に、意味は消えるのだ。
すべてを終えたとき、部屋の空気が変わっていた。
もはや、誰かが生活を始めるための“余白”が、そこにできていた。
白洲はふと、ぽつりとつぶやく。
「……あとは、掃除か」
ゴミ出しの予定をスマートフォンにメモし、作業の段取りを再確認する。
ベッドや収納は、本人が持ち込むのだろうか――。
そんな考えも、すぐに消える。必要になったらそのとき動けばいい。
いずれにしても、今夜の作業は完了だ。
あとは、平日の夜に少しずつ整えていけばいい。
白洲は照明を落とし、静かにドアを閉めた。
◆
一方そのころ――。
月城心愛は、自室のベッドの上で転がっていた。
「ふふっ……ふふふっ……っきゃー!!」
毛布を被っては転げ回り、枕に顔を埋めてはまた飛び起きる。
スマホの画面には何も映っていない。
でも、脳内はフル稼働だった。
「え、え、えっ、マジで!? ほんとに、あの人と――同棲!?」
両手で顔を覆いながら、真っ赤な頬が熱い。
よく考えたら、ちゃんと彼氏もいたことない。
それなのに――いきなり同棲なんて!
「……え、ちょ、もしかして……夜になったら、いきなり……ぎゅーっ、てされちゃう!? それとも……寝る時、同じベッド!? うそ……!」
「お風呂から出たらバスタオルで迎えてくれるとか!? そ、それって新婚!? しゅき……!」
自分で想像して、自分でバクバクしてる。
でも、不安はほんの少し。ドキドキが、とまらない。
「ど、どうしよう……い、いきなり“はじめて”が来たら……!」
顔から火が出そうなまま、心愛は毛布に潜った。
――始まる。同棲生活。
キスどころか、手も繋いでないのに。
それでも、何もかもが“ときめき”でできている気がした。